artscapeレビュー
2013年09月01日号のレビュー/プレビュー
川口隆夫『大野一雄について』(「ダンスがみたい! 15」)
会期:2013/08/08~2013/08/09
d-倉庫[東京都]
タイトルの通り、川口隆夫が「大野一雄」について踊る作品であった。休憩を挟んで90分、大野の代表作のタイトルがスクリーンに掲げられ、そのたびに川口は衣裳を替えた。音響は大野の上演の際に録音したものをそのまま流しているようだった。ひたすら踊り続ける大野のような川口。とはいえ、これはダンス公演ではない、あくまでも大野一雄についてのパフォーマンスだった。聞いたところによると、川口の動きは大野の映像を踏襲したものであったようだ、しかし、それは「プライべートトレース」でかつて手塚夏子が試みたような、徹底した映像のコピーというものではないし、あからさまな物真似(大野を真似た誇張表現)ともみなしがたい、その意味では中途半端なところがあった。なにがしたかったのだろう。恐らく、レクチャーを模したパフォーマンスも行なう川口のことだから、「大野一雄についての研究」というモチーフがベースにあったのではと推測する。もっとその意図を明確にして、意図や研究方法を本人が自ら語るようなパートがあってもよかったのではないか。それがカットされている分、川口の動きの曖昧さが気になってしようがない。大野のダンスを研究してその方法論を反映しているとわかれば、見る側もともに研究する姿勢で見ることができるのに。その方法論が見えない。終幕にいたり、川口が拍手のなかおじぎをしたあとで、まるで大野がかつてそうしていたように、川口はアンコールで一曲踊った。そのときにはっとしたのだが、観客の何人かは川口のなかに大野の影を見ていたらしい。音楽にあわせての手拍子の「ノリ」がその思いを伝えていた。先述した動きの曖昧さにも原因があるのだが、美男子の川口に大野の老体を錯覚するのは難しい。けれども、錯覚する観客もいるのだ。それはまるで少女漫画を読む読者のように、「大野がこんな躍動的に踊れる身体をもった美男子だったら!」という甘い願望が花開いた瞬間だったのかも知れない。そうした誤読から自由であるためにも、この作品には「研究」の要素が強調されているべきだったろう。
2013/08/09(金)(木村覚)
風立ちぬ
会期:2013/07/20
スカラ座[東京都]
宮崎駿の新作をアニメーションの映像表現という観点から見た。
むろん宮崎アニメならではの魅力はある。十八番とも言える大空を舞う航空機の飛翔はきちんと押さえられているし、口から吐き出される紫煙や回転するプロペラが生み出す気流をさすがに巧みに描いている。航空機の機体を奇妙に柔らかい質感で表現するやり方も、それが夢中の世界であることを効果的に物語っていた。
ただ、そうした表現手法は、基本的にはこれまでの宮崎アニメを踏襲したものである。関東大震災における群衆の表現はたしかに緻密ではあったが、地震そのものの表現は中庸というほかない。とくに斬新で刮目するような映像表現は見られなかった。
成熟期に入ったアニメーションには、これ以上発展する余地が残されていないのだろうか。仮にあるとしても、それを商業アニメの巨匠に求めるのは筋違いなのだろうか。けれども、宮崎駿こそ、アニメーションの前線を切り開いてきた当事者だったはずだ。物語を視覚化するセンスと技術を、いま以上に、より大胆に、掘り返してほしい。それこそ「生きる」ことであり、それを諦めることを「老い」というのではなかったか。
映画の本編が始まる前に上映された高畑勲の新作「かぐや姫の物語」の予告編は、私たちの脳裏に鮮烈なイメージと強力なインパクトを刻んだ。着物を振りほどきながら野山を疾走するかぐや姫を、おそらく粗い鉛筆で描いているからだろう、私たちの眼球を切り裂くほどのスピード感と暴力性が凄まじい。これこそアニメーションならではの映像表現である。
2013/08/09(金)(福住廉)
あいちトリエンナーレ2013 揺れる大地 われわれはどこに立っているのか 場所、記憶、そして復活
会期:2013/08/10~2013/10/27
名古屋エリア、岡崎エリア[愛知県]
芸術監督に建築学の五十嵐太郎を迎え、東日本大震災後を強く意識させるテーマを掲げた「あいちトリエンナーレ2013」。このテーマを最も体現していたのは、愛知県美術館8階に展示されていた宮本佳明の《福島第一原発神社》だった。本作は昨年に大阪の橘画廊で発表され大きな注目を集めたが、今回はそれを何倍にもスケールアップさせ、インパクトのある提案をさらに加速させていた。また、宮本は愛知県美術館の吹き抜け部分と福島第一原発建屋のスケールがほぼ相似であることに着目して、美術館の床や壁面に原発の図面をテープでトレースする作品も発表しており、今回の主役ともいうべき活躍を見せていた。名古屋エリア全体でいうと、愛知県美術館と納屋橋会場の出来がよく、地震や被災といったテーマ直結の作品だけでなく、コミュニティの境界や分断、明日への希望を掲げた作品など、質の高い表現がバリエーション豊かに出品されていた。また今回新たに会場に加わった岡崎エリアでも、岡崎シビコでの志賀理江子をはじめとする面々による展示が力強く、とても見応えがあった。そんな今回のトリエンナーレにあえて注文を付けるとすれば、会場間の移動をよりスムーズに行なえる方策を考えてほしい。導入済みのベロタクシーに加え、レンタサイクルを実施すれば歓迎されるのではないか。次回に向け是非検討してほしい。
2013/08/09(金)・10(土)(小吹隆文)
柏木博+松葉一清『デザイン/近代建築史──1851年から現代まで』
発行所:鹿島出版会
発行日:2013年3月
「デザイン史」と「建築史」というふたつの領域を関連付けて解説した新しい試みの一冊。各章にそれぞれの「時代概要」が年表付きでまとめられた後、「デザイン編」と「建築編」の二領域の編年体の歴史が綴られる。1850年代から現在まで、ほぼ20年毎に区切った章立てとなっており、著者たちが設定したテーマとトピックは既存のデザイン史概論書とは異なる切り口を採用している。前書きにあるように、「デザイン史は社会思想史」を、「建築史は都市構築と都市文化の動向」を踏まえて書かれているからだ。例えば、1960年代から現代までを扱う第6章は、「モダンデザインの変質と脱近代」と題された時代概要をはじめとして、デザイン編では「異議申し立てを超えて」、建築編では、「建築本来の価値体系への回帰を目指すポスト・モダン」というように、「近代への問い」へと踏み込んだ内容となっている。掲載図版が大きく視覚資料が充実しているし、学習用の配慮がさまざまになされている。芸術史を学ぶ者にとって、新たな教本・副読本として活躍しそうだ。[竹内有子]
2013/08/10(土)(SYNK)
鈴木ユキオ+金魚『Waltz』
会期:2013/08/08~2013/08/10
シアタートラム[東京都]
鈴木ユキオのダンスを観ると、「彫刻」の文字が頭に浮かぶ。時間芸術のダンスとは異なり、彫刻はもっぱら空間芸術。だけれど、鈴木のダンスはまるで彫刻のように造形的精神に溢れていて、時間(身体の動き)をとおして造形物を拵えているかのように見えるのだ。だとすると問題になるのは彫刻の自律的性格だ。彫刻に見えるというのは、それぞれのダンサーがそれ自体の質をきちんと保持し、各自が単体で高まっている状態を目指しているということだろう。そうすることで密度の濃い、見応えのある身体が立ちあがってくるのは事実。ただし、自己完結している各ダンサーの動きは、ソロや群舞には向いているのかも知れないけれど、互いの呼吸を感じながらするデュエットには向いていないかも知れない。それぞれがちょっとずつ閉じた自己を開いてはじめて、すなわち即興の要素が際立ってきてはじめて、デュエットはその面白さを発揮するはずだ。タイトルにある「Waltz(ワルツ)」には、そうした思いが込められているのではないだろうか。ただし、上記した意味での「ワルツ」を見たという気持ちにはならなかった。終盤に、鈴木が安次嶺菜緒と踊るところでは、デュエットが試みられていた。それまでそれぞれの内部で完結していた身体がほぐれようとしていた。手と手を握り合い、互いを感じながら踊るという次元に至る予感はあった。けれども、2人の目指すデュエットは予感以上のなにかとして実体化されはしなかった。ただし、それこそが今後の課題だと鈴木自身が思っているのならば、彫刻状態の2人が解体しながら再構築を試み、再構築のプロセスさえ解体を含んで進む、そんなワルツの誕生を期待したくなる。
2013/08/10(土)(木村覚)