artscapeレビュー

2013年09月01日号のレビュー/プレビュー

日本の「妖怪」を追え!

会期:2013/07/13~2013/09/01

横須賀美術館[神奈川県]


今や「妖怪」の展覧会は夏の風物詩なのだろうか。今夏だけでも、本展のほかに、「大妖怪展─鬼と妖怪そしてゲゲゲ」(三井記念美術館)、「幽霊・妖怪画大全集」(そごう美術館)が、ほぼ同時期に催されている。もちろん、子どもたちに訴求力のある「妖怪」は、夏休みの美術館にとって絶好のコンテンツなのだろう。とはいえ、本展が他の妖怪展と明確に一線を画しているのは、妖怪を表現した現代アートの作品も展示に含めている点である。妖怪を歴史という専門的な地平に追いやるのではなく、愛すべき大衆的なキャラクターとして囲い込むのでもなく、あくまでも現在の美術表現に連なる主題として位置づけようとする構えが、すばらしい。
事実、江戸から現代まで時系列に沿って構成された展示が伝えているのは、時代に応じてさまざまに表現されてきた妖怪の足取りである。鳥山石燕の版本をはじめ、葛飾北斎、歌川国芳らの浮世絵を見ると、人間が暮らす日常世界と魑魅魍魎の異界が極めて近いことに驚かされる。見えないものが見えるというレベルを超えて、妖怪たちが人間の世界に侵食し、縦横無尽に跋扈していると言ってもいい。その妖怪たちはたしかに異形ではある。けれども、だからといって必ずしも恐ろしいだけではなく、どこかで憎めない愛らしさもあるところが面白い。ケタケタと笑う哄笑さえ聞こえてくるようだ。おそらく江戸時代の人びとも、そのようにして妖怪画を楽しんでいたのではないだろうか。想像の次元において、妖怪は人間の日常生活に随伴していたに違いない。
ところが近代化に邁進する明治以後になると、妖怪は駆逐の対象になってしまう。歌川芳藤の《髪切りの奇談》に描かれているのは、女の髪に食らいつく黒い獣のような妖怪。だが、銃剣を携えて駆けつけた官憲に照明を当てられ、いままさに退治されようとしている。妖怪は文明開化という灯りの陰に追いやられてしまったのだ。月岡芳年の錦絵にしても、震えるほど魅惑的な線が妖怪の妖しさを物語っている反面、江戸の妖怪に見られた底抜けの朗らかさは明らかに失われているのだ。
怖ろしさと親しみやすさの二重性。鳥山石燕に端を発する、こうした江戸の妖怪像の系譜は、戦後、石燕の妖怪をモデルとした水木しげるによって一時的かつ部分的に再興するものの、現代アートにはほとんど継承されなかった。実際、池田龍雄や小山田二郎の絵画を見ると、形態が抽象化され、色彩にも乏しいため、怖ろしくはあっても、決して楽しくはない。江戸の妖怪を声を上げて楽しんでいた来場者も、現代アートの展示室に入ると、とたんに言葉を失い、足早に出口を目指していたのは、悲しい事実である。
ただ、唯一、本展において江戸の伝統を現代アートに引き継いでいたのが、鎌田紀子である。鎌田が創り出しているのは、不気味な立体像。ひょろ長い手足とは対照的に、頭は異様に大きい。どこを見ているのか分からない虚ろな眼球が私たちの不安を増幅させるが、その一方でどういうわけか不思議な愛嬌がある。空間のあらゆるところに設置された彼らは、江戸の妖怪のように、あくまでも自由奔放で無邪気なのだ。江戸時代の妖怪表現が、面などわずかな例外を除いて、ほとんど平面に限られていたことを踏まえれば、鎌田は立体によって妖怪の今日的表現を発展させようとしていると言えよう。
もっとも傑出していたのが、襖の把手を壁面に並べて展示したインスタレーションである。大小さまざまな把手の内側の凹みに描かれた彼らは、いずれも窮屈そうだが、これこそまさに現代における妖怪の窮状を物語る象徴だろう。だが、襖の把手を左右にわずかでも動かせば、私たちの目前には妖怪たちがあふれる異界が広がるのかもしれない。江戸の妖怪を甦らせるには、例えば「ゆるキャラ」のような異形を乱発して満足するのではなく、私たち自身の想像力を鍛え上げる必要があるのではないか。

2013/08/20(火)(福住廉)

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ふくいの面とまつり

会期:2013/07/19~2013/09/01

福井県立歴史博物館[福井県]

現在でも福井県では各地に面を用いる祭が種々残っており、人々に親しまれているという。白山信仰が盛んであったことから信仰に関わる寺社で猿楽などが演じられてきたこと、また越前の戦国大名であった朝倉氏が芸能を保護してきたことが、よい面がつくられてきた背景にある。本展ではそうした福井の祭と面の関係を三つに分けて紹介している。
 第一は「面、神となる」。面は本来人がそれを付けて神を演じたりするものであるが、地域によっては祭や芸能が廃れて面のみが残され、いつのまにか面そのものが神として奉られる場合がある。ここではこのように神となった面が紹介される。第二は「人、神となる」。神楽を中心に、現在も祭で用いられている面が紹介されているほか、ビデオ映像で各地の祭で演じられる面の姿を見ることができる。南越前町の妙泰寺で開催される七福神祭の面と衣裳を着せたマネキンは、人が面をつけて神になることのイメージを十分に伝えている。その迫力は、実際に人が面を着けている姿を見たら、小さな子どもたちは逃げ出すかも知れないほどである。第三は「人、演じる」。本来は神への奉納として面を着けて演じられた芸能は、見る者、演じる者たちにとっての娯楽ともなる。ここではそうした楽しみへと変化した芸能の例として、福井県指定無形民俗文化財の「馬鹿ばやし」が紹介されている。
 面を主題におくことで、形として残りにくい祭の姿やその変化をわかりやすく解説する好企画。紹介されている面の多くは現在行なわれている祭のなかで用いられているものである。面を使った祭が残る地域、廃れて面のみが残った地域、娯楽へと姿を変えた地域は、いずれも同時に存在している。地域による祭の姿の違いは、それぞれの地域の共同体のあり方の変化に大きく影響されてきたのである。祭がそこで暮らしている人々とともに変化を続ける生きた存在であることが示されている点がとても印象に残った。[新川徳彦]

2013/08/21(水)(SYNK)

Aokid『"Blue city"-aokid city vol.3』

会期:2013/08/24

Shibaura house[東京都]

Aokidは現在25歳のダンサー。東京造形大学出身。ヒップホップをベースにしながらも、そこにかわいくて、フレンドリーなアイディアを盛り込み踊る。ぼくはこのダンサーが率直にいって好きだ。好きな理由のひとつは、アニメっぽかったり絵本ぽったりするイメージが、速い動きの最中、花火の炸裂するように散りばめられる、そんなところだ。Aokidのアクロバットは、たんなるテクニックの披露ではなく、まるで気まぐれに紙切れに書かれた漫画のようで、ぼくらが見慣れ過ぎている非人間的な身体イメージと似ていて、リアルだ。もうひとつ好きなのは、彼の優しさ。本作は、昨年12月から始まったAokid Cityという公演の3回目。会場のギャラリースペースに入ると、受付でドリンクが振る舞われ、着席すると、Aokid本人が観客にお菓子を振る舞うのだった。Aokidは忙しく会場を歩き回り、上演の準備の傍ら、観客に話しかけ、場を和ませてゆく。そうした振る舞いは、パフォーマーと観客との境界を曖昧にし、客席と舞台空間との境界を曖昧にする。ストーリーは簡単だ。Aokidが海を泳ぐうちに見知らぬ島に辿り着く。そこで怪獣と遭遇し闘い、犬と知り合いになってまた分かれ、クジラに呑み込まれたかと思えば、再びこの世界(Blue city)を後にする。まるで絵本のようなファンタジー。3歳の息子を連れて行ったのだが、彼は公演の1時間を集中して、ときに爆笑しながら楽しんで見ていた。クジラに呑み込まれた場面では、クジラの胃袋をレストランに見立てると、テーブルが舞台横に登場し、サンドウィッチや飲み物が観客に差し出された。上演が中断し、しばし歓談。「つながり」を楽しむほんわかした時間は、別に批評の対象ではないし、批評性のなさを批判するなんて無粋だ。「好き」なんていっている時点で、批評をぼくは放棄している。Aokidのダンスがもっている質は、今後、ダンスに新しい局面をもたらすかも知れないけれど、そうしたことはまあちょっと置いておこう。優しくてかわいい男の子によるささやかなパーティ、これはこれとして類い希な楽しさに満ちていたのだ。

2013/08/24(土)(木村覚)

レイ・リケット バッグ展──BAG, ALL RIGHT!(バッグ、オーライ!)

会期:2013/07/17~2013/08/25

世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]

ビジネス向けのバッグには、機能にフォーカスしたものが多い。ここにはケータイ。ここには財布。ここに手帖とペン。ここにファイル。ここに新聞とビジネス誌……。分類性と使い勝手の良さが最大限にアピールされる。これに対して女性が結婚式やパーティの場で持つバッグはなんなのだろう。ほとんど何も入らない小さなバッグ。はたしてあれをわざわざ持つ必要はあるのだろうか、ということは機能主義者にとっての積年の謎なのである。実際のところ、あれはアクセサリーである。ネックレスやピアス、ブレスレットと同様に、手元を飾る装飾品なのである。進化の過程で何かを入れて運ぶという機能の名残はあるものの、何かを入れるという視点で選ばれることはない、バッグに似た何かなのである。とはいえ、機能性で選ばれると考えられるビジネスバッグも「できる俺」を演出するための小道具であったりもする。バッグは機能と装飾とのあいだでつねにバランスを取りながらデザインされ、消費されているのだ。
 バッグ作家レイ・リケットのバッグは、機能や装飾をさらに突き抜けたところにある。コンセプトは「ハンカチとお財布が入るアート」。持ち手があり、蓋をあければ収納スペースがあるので、バッグとしての条件は満たしている。しかし、「こういうバッグが欲しかったの」といって巡り会うバッグとは思えない。たとえば、世界旅行をテーマにしたバッグのひとつはナイアガラの滝。大瀑布が青い色のビーズで表わされている。蓋にピラミッド、ロックがファラオのヒゲになっているエジプト観光のバッグもある。氷山とシロクマが載ったバッグの蓋から溢れる海水は地球温暖化をイメージしているのだろうか。金色のバッグに赤い花びらがしつらえてあると思ったら、じつはカルビ肉の韓国焼き肉バッグであったり。名画シリーズで秀逸なのは、岸田劉生の《麗子像》の頭部をモチーフにしたバッグだろう。持ち方によっては普通の黒い丸いバッグに見えるが、くるりと向きを変えると「でろり」とした麗子の顔が現われる。反原発をテーマにしたバッグのシニカルなデザインもすばらしい。ファッションモデルのようなポーズの女性の姿がトートに刺繍されているが、彼女がまとっているのは放射能防護服とマスク。あるいはヨーロッパ各国の言葉が刺繍されたバッグがある。一見したところはただのお洒落なデザインのバッグなのだが、よく見るとそこに書かれているのは原発撤廃や民族差別反対、資本主義風刺のメッセージである。たいていのアートは、それが展示されている場に行かなければ見ることができないが、彼女のバッグは「持ち運べるアート」。もちろんあくまでもバッグなので、街にも、電車の中にも、カフェにも持って出かけることができる。それでいながらメッセージをユーモアに包んでさりげなく、かつ効果的に伝えるコミュニケーション装置でもあるのだ。[新川徳彦]

2013/08/24(土)(SYNK)

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紙とグラフィックデザイン──八木保の選択眼

会期:2013/07/10~2013/08/30

見本帖本店[東京都]

1984年にアパレルメーカー・エスプリ(ESPRIT)の仕事のために渡米して以来、ロサンゼルスを拠点に活動しているグラフィックデザイナー・八木保。7年以上にわたってエスプリのディレクターを務めた後、1991年に独立。ベネトンの香水瓶TRIBUのデザインは、19994年のクリオ・アワードを受賞。アップルストアのデザインコンセプトや携帯端末パームのパッケージデザイン、日本ではアパレルブランドUNTITLEDのデザインコンセプト、INDIVIのロゴなどの仕事を手掛けている。今回の展覧会では、2011年に刊行された『八木保の選択眼──The Graphic Eye of Tamotsu Yagi』(ADP、2011)をベースに、彼の仕事、そして紙を中心にデザインのイメージソースとなったさまざまなオブジェが紹介されている。ロール紙に連続出力した書籍『八木保の選択眼』を展示台にしつらえ、書籍に掲載されたオブジェや製品、パッケージの実物、本人によるコメントが配置されている。クライアントへのプレゼンテーションのためのカラー・サンプル(色見本ではなく、植物の葉や卵の殻など!)、倉俣史朗による椅子のスケッチ(倉俣が気に入らなくて捨てたものをもらったという)、倉俣が手がけたバー・オブローモフで使われていたテーブルの脚(!)、ボディウェアメーカー・ダンスキンのためのワイヤーマネキン、請求書などの封筒の「内側」のコレクション、バスチケットなどの紙モノのコレクション等々が、八木保の人と仕事とを雄弁に語っていた。[新川徳彦]


展示風景

2013/08/29(木)(SYNK)

2013年09月01日号の
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