artscapeレビュー
2016年03月15日号のレビュー/プレビュー
第19回 岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)展
会期:2016/02/03~2016/04/10
川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]
この賞は岡本太郎の名を冠してるせいか、よくも悪くも目立ったもん勝ちなところがあって毎回楽しませてもらってるが、今年も目立ちゃあいいドハデな作品が多数入選した。岡本太郎賞の三宅感《青空があるでしょう》はその最たるもので、紙粘土や発泡スチロールなどを使った巨大なレリーフを7枚並べて見る者を圧倒。その巨大さの一方、意外に細部までつくり込まれていて、これはたしかに「よくがんばりました賞」だが、それ以上ではない。まあ造形的にも色彩的にもアナクロなハリボテ感も岡本太郎的ではあるけどね。岡本敏子賞の折原智江《ミス煎餅》は、「折原家之墓」を墓石から卒塔婆まで煎餅でつくって中央のガラス張りの空間に建立したもの。煎餅屋に生まれた自己のアイデンティティをやや自嘲気味に表わしてるんだろうけど、なにがいいんだかよくわからない。ただ煎餅屋の娘が多摩美の陶芸を出て藝大の先端にいること自体には興味があるし、今後なにをつくっていくか楽しみではある。今回いちばん強烈で印象に残ったのは、特別賞の笹岡由梨子《Atem》だ。壁3面を深紅の幕で覆い、左右に円形の絵を掲げ、正面にスクリーン、その上に「いきおう」と書かれたネオン、手前にはなぜかプールを据えている。スクリーンには下ぶくれのキモかわいい子供がプールの前で人形遊びをしている映像が流れ、ときおり映像にシンクロして手前のプールが泡立ったりする。映像のなかの子供の表情(作者自身の顔らしい)はなぜか古い記憶をくすぐり、昔風の歌声は妙に耳にこびりつき、クセになりそう。作者はなにか悪いクスリでもやってんじゃないかと思うほどキマってる。ちょっと動揺した。これとは正反対にきわめて地味ながら、それゆえに記憶に残ったのが横山奈美の絵画だ。200号大の縦長の画面にほぼモノクロームで中折れした円筒形を描いたもの。初めなんだろうと思ったが、見てるうちにトイレットペーパーの芯だと気づいた。こんなとるにたらないどうでもいいものを、どうでもいいもののなかでも一番どうでもいいようなものを、バロック絵画よろしく大画面に油彩で描き出してみせる。これはよっぽどの確信というか、覚悟がなければできないことだ。勝手に村田真賞だ。
2016/02/16(火)(村田真)
ワンダーシード2016
会期:2016/02/13~2016/03/20
トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]
83人の小品が並ぶ。始まったばかりなのでまだ半分くらいしか売れてないが、どんな絵が売れて、どんな絵が売れ残ってるかがよくわかる。売れてるのは丁寧に描き込まれた具象画で、色がきれいで物語性のあるもの。売れてないのはラフなタッチの抽象画で、具象でも色が少なかったり暗かったりするものは売れない。まあそんなところだろう。個人的にちょっとほしくなったのは、風景を思わせる半抽象画の田中里奈と、コップらしき円筒形をサラリと描いた阿部彩葉子の2点くらい。こういうドングリの背比べみたいな展覧会を見ると、どういう絵が好きなのか、自分の趣味がわかってくる。
2016/02/16(火)(村田真)
「世界遺産キュー王立植物園所蔵イングリッシュ・ガーデン──英国に集う花々」展
会期:2016/01/16~2016/03/21
パナソニック 汐留ミュージアム[東京都]
キュー王立植物園所蔵の植物画を中心に紹介するものだが、植物オタクに閉じた内容ではない。博物学から始まり、19世紀は万博やアーツ・アンド・クラフツ運動、ラッチェンスなど、イギリスの近代デザイン史とさまざまな方向から交差することに気づかされた。植物を抽象的なデザインにするクリストファー・ドレッサーに対し、植物による具象的なパターンにこだわったウィリアム・モリスの違いなども教えられた。
2016/02/16(火)(五十嵐太郎)
レクチャーパフォーマンス・シリーズ vol.2 チェン・ジエレン「残響世界」
会期:2016/02/16~2016/02/18
SHIBAURA HOUSE[東京都]
最初にハンセン病患者の収容施設の歴史に台湾と日本を重ねたレクチャーを行なう。チェン・ジエレンは、植民地、資本主義における社会的な弱者は彼らだけでなく、現代の派遣労働者もそうだと指摘する。その後、カーテンを開けると、シバウラハウスの透明な建築を生かし、隣のビル屋上でパフォーマンスが行なわれた。続いて彼の映像作品を鑑賞する。やはり、作家なのだから当たり前だが、映像そのものが語ることは大きい。
2016/02/16(火)(五十嵐太郎)
吉岡千尋「skannata──模写」
会期:2016/02/09~2016/02/21
アートスペース虹[京都府]
本個展では、イタリア旅行の際に撮影した教会のフレスコ画やテンペラ画の一部を模写し、さらにスケールを拡大して模写を重ねた絵画作品が発表されている。小文字で《mimesis》と題された、ほぼ同寸の小さなテンペラ画と、大文字で《MIMESIS》と題された、拡大バージョンの油彩画。同じイメージから派生した大小2枚の絵画が、壁に並べて掛けられる。《mimesis》では、人物の頭部はフレームからカットされ、画家の関心は布地の襞や金箔の装飾へと向かっている。実際に金箔を貼った上にテンペラ絵具で描き、絵具の層をこそげ取って金箔を露出させた部分を金属棒で叩いて凸凹の表情をつける。光を反射して輝く凸凹の表面は、布地に施された金糸の刺繍のように立体的に浮き上がって見える。一方、大文字の《MIMESIS》では、《mimesis》の一部分をさらに拡大させることで、画面は身体の輪郭や物語性を失って装飾模様で覆われ、半ば抽象的なものへと変容する。こちらは、アルミの粉を混ぜた銀色の地の上に油彩で描かれているが、塗り残された地の一部が、光の当たり方によって白く輝いたり、暗く沈んで見える。光の反射と物質性との往還。そこに薄く透けて見える、「拡大」する際に用いたグリッドの線。見る角度によって変化する銀の上に、軽く浮くような筆致で描かれた絵画は、硬質さと柔らかさが同居し、脆く壊れそうな儚い美しさをたたえている。
吉岡はこれまでも、小説の克明な描写から想像した建築物を絵画化するなど、写真や言葉によって情報として媒介されたイメージを、さらに模写するという手法を採ってきた。同一イメージの変奏曲のようなその手法は、イメージの同一性やイメージと記憶・認識という問題とともに、フレーミング、グリッド構造、模様やパターンの反復、レイヤーの出現、塗り残しによる「地」の問題、反射と物質性、ハッチングによる陰影法など、「絵画」をめぐるさまざまな問題が、揺らめきながら多層的に立ちのぼっている。その揺らぎを伴った豊かさが、吉岡の絵画をいつまでも立ち去りがたい魅力的なものにしているのだ。
2016/02/17(水)(高嶋慈)