artscapeレビュー

2016年07月15日号のレビュー/プレビュー

東京カメラ部2016写真展

会期:2016/06/23~2016/06/26

渋谷ヒカリエ9F「ヒカリエホールB」[東京都]

フェイスブックやインスタグラムに日々アップされている写真のあり方がとても気になる。正直、それらをこまめにフォローしようとは思わない。量があまりにも膨大すぎるし、質的にも玉石混交の極みであることは重々承知しているからだ。とはいえ、そこに現在の写真を撮ること、見ることの営みが集中してあらわれていることを認めるのにやぶさかではない。
そんなSNSにおける写真表現のあり方を概観するのにぴったりなのが、東京・渋谷のヒカリエホールBで開催された「東京カメラ部2016写真展」である。東京カメラ部というSNSでの発表を中心に活動している団体が主催している展覧会で「3億人が選んだ10枚」の写真の展示をメインに、『アサヒカメラ』と共催した「2016写真コンテスト 日本の47枚」、また「2016写真コンテストInstagram部門」で受賞した作品などが並んでいた。「3億人」というのは「東京カメラ部とその分室がタイムラインで紹介している作品の2015年延べリサーチ(閲覧者)数」だという。たしかに常時フェイスブックやインスタグラムにアクセスしている人の数を換算すれば、それくらいになるだろう。その「3億人」が46万枚から「いいね!」をつけて、今年の「10枚」に選ばれる確率は0・002%になる。
選ばれた写真には、たしかになるほどと思わせる魅力がある。地平線に見事な虹がかかっていたり、紅葉の山々に筋状に光が当たっていたり、夜桜に妖しい雰囲気の女性モデルを配したり、富士山にかかる笠雲を巧みな構図で捉えたり、それぞれ撮り方に工夫があるし、技術的なクオリティも当然高い。「いいね!」がつく写真の条件は見事に揃っている。とはいえ、それらの写真はどれも「どこかで見たことがある」想定内の範囲に留まっている。逆にいえば「どこかで見たことがある」写真でなければ、「10枚」に選ばれるわけはない。均質性と平均性と穏当さこそが、これらのSNS写真を貫く原理であることが、あらためてよくわかった。
ここに選ばれた写真家たちは、一般的に写真雑誌や写真ギャラリーで見る名前ではないが、その世界では有名人なのだろう。彼らが、どんな風に固有名詞化されていくのか、むしろそのあたりが気になる。ちなみに「3億人が選んだ10枚」の作者は以下の10人である。浅岡省一、北川力三、岩崎愛子、工藤悦子、柴田昭敬、黒田明臣、本間昭文、八木進、松岡こみゅ、伊藤公一。

2016/06/23(木)(飯沢耕太郎)

土木展

会期:2016/06/24~2016/09/25

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

21_21にて、「土木展」のオープニングに顔を出す。過去に前例がない企画なので、てっきりカッコいい、土木デザインの事例を紹介する作品主義だと思い込んでいたが、いい意味で裏切られた。これは楽しいドボクの展覧会だった。インタラクティブなインスタレーションなどを通じて、土木の世界を知る仕掛けの数々。また会場に置かれていた土木系カルチャーを扱う『ブルーズ・マガジン』も衝撃である。

2016/06/23(木)(五十嵐太郎)

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太宰治資料展 Ⅱ

会期:2016/06/11~2016/07/03

三鷹市美術ギャラリー[東京都]

太宰治には高校生のとき人並み以上にかぶれた。以来40年以上読み返したこともないけど、チラシに載ってる太宰の描いた絵を見て久しぶりに触れてみようと思った。展覧会は昨年に続くもので、太宰の妻子が慈しんだ津島家寄託資料を中心に、直筆原稿や初版本など約70点を展示。肝腎の絵は7点あり、風景画は黒田清輝の寂寥たる絶筆《梅林》によく似ている。驚いたのは自画像で、私事になるけれど、ぼくが高校生のときに構想した太宰の肖像画とそっくりなのだ。といっても構想だけで終わったけど、絵柄はいまだによく覚えている。それは太宰の斜め横顔を大きな筆遣いでざっくり描くというもの。背景の色とサイズは違ったが、イメージはそっくりそのままだった。この自画像は以前も以後も見た記憶がないので、偶然の一致なのか、それともそれが太宰の定番イメージなのか。

2016/06/24(金)(村田真)

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声ノマ 全身詩人、吉増剛造展

会期:2016/06/07~2016/08/07

東京国立近代美術館[東京都]

「全身詩人」吉増剛造の仕事を、その「声」との関わりを中心に、主に美術家としての側面にスポットを当てて再構築する大胆かつ野心的な企画である。1961年以来の「日誌・覚書」、自ら鏨とハンマーで文字を打ち込んだ「銅板」、カセットテープに録音した大量の「声ノート」、「自筆原稿」(吉本隆明と中上健次の原稿も含む)、映像作品「gozoCiné」、東日本大震災を契機にスタートした自筆原稿+水彩画の「怪物君」、舞踏家、大野一雄とのコラボレーション映像等々、盛り沢山の内容だった。
ここでは特に彼の「写真」の仕事について考えてみたい。展覧会の少し前に刊行された語り下ろしの『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社、2016)によれば、吉増の「写真的原体験」は、6歳の時に疎開していた和歌山県永穂で、アメリカ軍が投下した大量の「銀のテープが空から降ってくる」のを見たことだったという。それを吉増は、ロラン・バルトが『明るい部屋』で記述した、「ある別の人の目で見ているような、非常にレアな驚きの瞬間を写真が伝える」経験と重ね合わせる。そのような「本当の写真」は、普通に撮影しただけでは出現してこない。ゆえに「二重露光」などの画像操作が持ち込まれる。吉増の「写真」のほとんどは、そんな「写真的原体験」の再生、降臨をもくろんでいるといえるだろう。「二重露光」だけではなく、ポラロイドや横長のパノラマサイズの画面のような、コントロールが難しい画像形成システムを多用したり、テキストやドローイングと併置したりといった、通常の「写真」のあり方とは異質の操作が施されるのはそのためである。
とはいえ、それらの操作は、写真という表現媒体がもともと抱え込んでいた魔術性や呪術性を、全面的に開放するために為されているのは明らかである。ドローイングや「銅板」への翻刻と同様に、吉増の「写真」もまた、秘儀的であるように見えて風通しがよい。『我が詩的自伝』では、たびたび荒木経惟へのシンパシーが語られているが、確かに、荒木の書やドローイングにまで逸脱していく近作と、吉増の「写真」とは共通性が多いのではないだろうか。

2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)

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大塚咲「3P」

会期:2016/06/24~2016/07/10

神保町画廊[東京都]

性的な行為を写真として表現するのは、簡単なようでなかなかむずかしい。人間が何かに夢中になって没入している時の、真剣かつ厳粛で、時にはたまらなく滑稽な表情や身振りは、写真の被写体としてとても魅力的なのだが、下手すると退屈なポルノグラフィ以上のものにはならないからだ。しかも、それは時には法の規制を受けるような「危ない」イメージであり、写真家も観客も感情を完全にコントロールするのは不可能である。何人かの写真家たちが、そのぎりぎりの綱渡りを試みてきたが、あまりうまくいかないことが多かった。
プロフェッショナルの性的なパフォーマーとして活動してきた大塚咲の新作は、自らが被写体となるという仕掛けのなかで、その難題にチャレンジしている。この「3P」のシリーズには、彼女自身を含んだ3人/3組の男女が登場してくる。その複雑に進行していくプロセスを捉えるために、彼女が思いついたのは、複数のイメージをA3サイズで「コンタクトプリント」のように提示することだった。100カット以上をひとつの画面におさめることで、めくるめくような視覚的な効果が生じてくる。それに加えて、単独の写真(2L、A3、A2サイズ)も300点近く展示することで、ギャラリーの空間を活かしたインスタレーションとして、とてもうまく構成されていた。「性は好奇心に突き動かされて、どうして人の本性を見せるんだろう。どうして心の傷を見せるんだろう。どうしてそれを見た時、私は安心するんだろう」。写真の選択にはまだ甘さが残るが、写真展に寄せたこの大塚のコメントを見る限り、性行為を媒介にした人間観察には、さらなる深化が期待できそうだ。

2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)

2016年07月15日号の
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