artscapeレビュー
2016年07月15日号のレビュー/プレビュー
平面を超える絵画:インスタレーションと日本画的感性
会期:2016/05/23~2016/08/10、20、21
特別講義のために、武蔵野美大を訪れ、大学の美術館に寄る。こういう施設がキャンパス内にあるのはうらやましい。「所蔵品展」や「平面を超える絵画:インスタレーションと日本画的感性」を見る。後者は日本画を学んだ後、空間をつくる出月秀明、栗林隆、吉賀あさみらが出品している。栗林はあいだを歩くことができる大きな二枚の壁を吊り下げ、出月は三角フレームとまわる巨大プロペラを制作し、なるほど、二次元を超えた展開をしていた。
写真:上=栗林隆 下=出月秀明、吉賀あさみ
2016/06/24(金)(五十嵐太郎)
1945年±5年 激動と復興の時代 時代を生きぬいた作品
会期:2016/05/21~2016/07/03
兵庫県立美術館[兵庫県]
タイトルが端的に示す通り、1945年をまたぐ前後5年間(日中戦争の長期化、第二次世界大戦勃発を経た1940年~占領下での復興が進む1950年までの11年間)の美術を、4つの時代区分と11のセクションで紹介する企画。1940年~1942年頃(「モダンと豊かさの終焉」、「植民地、「満州国」、占領地」)、1942年頃~1945年頃(「軍隊と戦争」、「南方」、「大きな物語とミクロコスモス」、「戦地から内地へ」、「銃後と総力戦」)、1945年~1946年頃(「自然と廃墟」)、1947年頃~1950年(「労働、世相、女性」、「前衛の復興」、「戦争回顧」)で構成されている。
1945年の敗戦を境として戦前/戦後を区切って断絶させず、連続性のもとで捉える視座は、戦後70年にあたる昨年に各地で集中的に開催された企画展、例えば「20世紀日本美術再見 1940年代」(三重県立美術館)、「画家たちと戦争:彼らはいかにして生きぬいたのか」(名古屋市美術館)、「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」(栃木県立美術館)においても共有されていた。本展の特徴は、戦前~敗戦後の美術を継続的な相として捉えることで、モチーフ、絵画様式、イデオロギーにおける外面的な変化/潜在的な同質性を浮かび上がらせている点にある。
とりわけキー・ポイントとなるのが、各セクションをまたいで定点観測的に登場する作家たちの存在だ。例えば、「モダンと豊かさの終焉」のセクションに配置された松本竣介《街(自転車)》(1940)は、洋装で闊歩する女性像や近代的な街並みを詩情漂うコラージュ風に描いているが、「自然と廃墟」のセクションに配された《Y市の橋》(1946)では、横浜大空襲で剥き出しになった建造物が、荒いタッチや褐色の色彩で描かれる。また、「大きな物語とミクロコスモス」のセクションでは、靉光、桂ユキ子(ゆき)、寺田政明らの緻密に描写された静物画の密度が、和田三造《興亜曼荼羅》(1940)や中山正實《海ゆかば》(1944)などにおけるイデオロギーに奉仕した大画面の書き割りのような薄っぺらさと対照的に迫ってくるが、中でも杉全直の作品群は、時代的要請と内的葛藤をよく示している。威圧感と不穏さを醸し出す巨大な岩が占める画面下部に、一列に並ぶ人物の頭部と繊細な植物が描かれた《土塊》(1942)の幻想性。シュルレアリスムの弾圧後は、戦闘機の整備兵や学徒出陣を写実的なスタイルで描くが、《出陣》(1944)で万歳を叫ぶ若い兵士たちの顔は茶褐色に塗り込められ、表情は定かでなく、亡霊のようだ。そして、「戦争回顧」に配された《無題(風景)》(1947)では、幻想的な細密描写に回帰し、広大な荒地に兵器の残骸や植物のような形態が有機的に絡み合う。
また、「銃後と総力戦」に配された向井潤吉の《坑底の人々》(1941)に描かれた鉱山で働く男たちと、「労働、世相、女性」に配された向井の《まひる》(1946)の漁師たちは、薄暗い地底/明るい海辺という対照性の中に、銃後を支える勤労戦士/復興の象徴としての労働の同質性を浮かび上がらせ、「勤労」という主題の奉仕先が変わっただけであることを示している。また、香月泰男の《水鏡》(1942)と《埋葬》(1948)の2作品は、応召、「満州国」のハイラル駐屯、シベリア抑留という経験をあいだに隔てて描かれたものだが、水槽/墓穴の矩形という幾何学的構成、頭を伏せてのぞき込む人物、画面外から侵入する植物の点景など、構図において同質性を見せ、画家の造形的関心が継続していたことを示す(シベリアでの戦友の埋葬を描いた《埋葬》から遡行的に《水鏡》を見るならば、《水鏡》において坊主頭の少年がのぞき込む青暗い水面は、死の静寂の世界だろうか)。
さらに、沖縄の風景や風俗を鮮やかに描いた前田藤四郎の版画に加えて、「植民地、「満州国」、占領地」「南方」のセクションでは、朝鮮半島、「満州国」(ロシア語・中国語・日本語の看板が混在したハルビンの多言語的状況、ロシア正教会や墓地、「蒙古人」のスケッチ)、ベトナムやカンボジアの南国風景や要人の肖像を描いた作品などが出品されている。エキゾチックな異国情緒への画家の憧れと、「帝国」の支配的欲望がない交ぜとなって、領土の物理的所有の代行としてのイメージの収集が推し進められていたことがよく分かる。
そして、本展の白眉と言えるのが、最後を飾る展示室。わずか3点の出品作で組み立てたミニマルな空間構成ながら、表象の過剰さと非スペクタクルな空間演出が拮抗を見せ、「犠牲者」の表象や記憶の継承について、「戦争」と「戦後」の関係をめぐる係争点を出現させている。暗く照明が落とされ、がらんとした展示室の左右の壁で向き合うのは、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)の《原爆の図 第1部 幽霊》(1950)と、《原爆の図 夜》(1950)である。ただし、四曲一双の屏風形式をとる《幽霊》の8つの面に対し、続く第2部として着手されながら未完に終わった《夜》は、描き込みの密度こそひけをとらないものの、右隻の2面しかない。焼けただれた人体の過剰な描き込みの密度と対置された、何もないガラスケース内の空白。「表象の不在」と「物理的空白」が充満したその場所は、表象の不可能性と喪の空間を体現し、剥き出しの暴力が「安全なガラスケース」の中に保護され、眼差しに晒されることへの抵抗を示す。
一方で、1950年に最初の三部作が発表された《原爆の図》で締め括られる本展は、(未だGHQの検閲下に置かれながらも)戦争体験の回顧・表象化を可能にする心理的段階に入ったことを示すとともに、「(国民が背負わされた)悲惨な被害の歴史」という単一のディスクールによって戦争が記述されることの開始も告げている。ここで注目したいのが、浜田知明のエッチング作品《聖馬》(1950)が《原爆の図》とさらに並置された展示構成である。見る者の感情をかき立てずにはおかない《原爆の図》の大画面とは対照的に、慎ましやかなこの小さな作品では、荒涼とした大地に巨大な十字架が立てられ、一匹の馬が磔刑に処されている。視線よりもあえて高めの位置に展示され、聖像を仰ぎ見るように鑑賞者の視線を上方へと強制的に導く《聖馬》は、「平和の礎となった受難の犠牲者」というディスクールを補強するように働きかける。だが同時に、「馬」が磔刑にされた荒涼とした大地が大陸のそれを想起させることに考えを至らせれば(浜田は東京美術学校卒業後、陸軍に入隊して中国戦線に送られ、自身の経験や目撃した悲惨な情景を《初年兵哀歌》シリーズで絵画化している)、「被害の歴史」への一面的な回収を拒み、「戦争という受難の犠牲者」の表象を多面的に捉え直すことが要請されているのではないか。
2016/06/25(土)(高嶋慈)
山田うん『バイト』
会期:2016/06/25~2016/06/26
ArtTheater dB Kobe[兵庫県]
前作『ディクテ』から5年振りとなる新作ソロ長編。『バイト』はヘブライ語で「家」を意味し、『ディクテ』の創作中に出会ったイスラエルの詩が基になっているという。テレサ・ハッキョン・チャが1982年に著した『ディクテ』は、冷戦構造下で強まる軍国主義体制から逃れるために韓国からアメリカへ移住した自身の経験と、日本の植民地支配により母語を剥奪された母親の記憶が重ねられ、母語の外への移動と異言語の学習が伴う身体的苦痛が、英語、フランス語、ハングルや漢字の挿入など多言語を駆使して記述されるテクストである。この異種混淆的なテクストをダンスに置き換えた山田の公演は、『ディクテ』冒頭に登場する「フランス語の書き取り練習」の再現で始まり、バッハのマタイ受難曲、韓国のパンソリ、日本の唱歌など、複数の言語で歌われる楽曲とともに踊り、観客に向けて語る身体と踊る身体、2つの主体のズレを接合させようとするなど、言語的な仕掛けが強いものだった。
一方、本公演『バイト』では、言語的な要素はより抑えられている。代わりに特徴的なのが、音響的分裂と多重化である。弦楽器の優雅な調べ/中近東のエキゾチックな歌唱/ガヤガヤと聞き取れない話し声/ピアノの音……。そこへ、機関銃か激しい放電を思わせるビートがかぶせられ、山田の身体も同じくらいの熱量を発して激しく踊る。複数の音響の多重化にかき回されるように踊る身体。官能的な陶酔、歓び、怒り、挑発、そして祈りのように差し伸べられる手。この、激しい感情を抱えた踊りは、『ディクテ』でも同じだった。魅了される熱狂の渦の中から、観客席への鋭い一瞥が矢のように飛んでくる。自己の内部への没入と、外へ向かう意識をパルスのように同時に発しながら踊る山田は、しかし優れたユーモアも持ち合わせている。
本作では、激しいダンスの熱を静めるかのように、見立てを駆使して想像力が広がるようなシーンが展開された。綿菓子のような白いふわふわの塊を手にした棒から吊り下げ、一緒に舞台上を散歩するようなシーンでは、朝焼けのように移り変わる美しい照明とあいまって、子どもの無邪気な遊びが、世界の創造へと変貌するような感覚を覚える。一方、ジョウロを背中に背負って登場したシルエットは、機関銃を背負っているようにも錯覚され、どきりとさせられる。遊戯的な連想と、激しく身を蕩尽するダンスと、観客への挑発が入り混じり、深い余韻を残す公演だった。
2016/06/25(土)(高嶋慈)
山田弘幸「Fragment」
会期:2016/06/17~2016/07/09
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
ちょうど東京国立近代美術館の吉増剛造展を見たばかりということもあって、EMON PHOTO GALLERYで開催された山田弘幸展の出品作にアーティストとしての共通性を感じた。山田は昨年度の第5回EMON AWARDのグランプリ受賞作家だが、写真家という枠組みから大きく逸脱した作品を発表し続けている。「素材」を得るための基本的なメディウムとして写真を使用してはいるのだが、それらをプリントするときに、画像に絵画的な操作を施したり、テキストを書き込んだり、実物とともにミクスト・メディアとして提示したりする。原稿用紙に書いた「男」という文字を重ねてプリントしたり(ネガ画像とポジ画像で)、紙に釘で無数の穴を穿って図像を描いたりといった、写真家の仕事とは思えない作品も多い。そのあたりの、発想をすばやくかたちにしつつ、変形し、拡張していく画像操作のあり方が、吉増と重なって見えてくるのだ。
あまりにも多彩な作品群なので、焦点を合わせるのがむずかしいのだが、今回の展示のメインとなっていた大作「NOSOTROS SOMOS」は、珍しく彼の意図がストレートに伝わってくる作品だった。とはいえ、この作品もかなり複雑な構成で、トレーシングペーパーにプリントしたセルフポートレートを中心にして、その背後に父親と母親の結婚式の写真、軍服を着た祖父の写真、母親が撮影した仏壇の写真などが二重、三重に重なり合っている。それに加えて、余白には「私たちは……」を意味する「NOSOTROS SOMOS」や、「一か八か」という意味だという「A TODA MADRE O UN DESMADORE」といったスペイン語の文字が書き込まれている。つまり、祖父、両親、自分と繋がってくる過去─現在─未来の時間軸を、一旦バラバラに解体し、強引に結び合わせて再構築する試みなのだ。
山田のようなタイプのアーティストに、「普通の」写真表現を求めても無駄だろう。彼の画像操作は単なる思いつきではなく、現実の背後に潜む「見えない」ヴィジョンを引き出したいという強い意志を持って、確信犯的に為されているからだ。まだ、思いつきを撒き散らしている段階だが、それがもう少し明確にひとつの方向に収束していくようになれば、恐るべき表現力を備えた「写真家」が出現してくるに違いない。
2016/06/25(土)(飯沢耕太郎)
日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展
会期:2016/04/29~2016/07/03
森アーツセンターギャラリー[東京都]
今年は日伊交流150周年ということで、イタリア関連の展覧会が目白押しだ。作品数は決して多くなかったが、単純な第一から線が異様に細い第三様式、そして複合系の第四様式の推移がわかる建築画やエルコラーノの優れた人物画などが展示されていた。第二様式は、近景と遠景にラフな透視図、中景に軸測投影が混ざる興味深い空間の表現である。森タワーのエレベータを降りると、今度はカオス*ラウンジによる東京の場所の記憶を扱う風景地獄展が待ち受けていた。
2016/06/26(日)(五十嵐太郎)