artscapeレビュー
2017年11月15日号のレビュー/プレビュー
新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 小森はるか+瀬尾夏美《声の辿り『二重のまち』》、是恒さくら《ありふれたくじら》、久保ガエタン《その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える》
会期:2017/09/22~2017/10/09
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
他者の記憶を拾い集めて再 物語化し、「語り」という身体的営みやテクストを通して共有すること。個人的記憶の収集とその複層的な重なり合いを通して、大文字の歴史化へのオルタナティブを探ること。あるいは、「歴史の表象空間」という政治的な場への抵抗を示すこと。そうした「記憶」の継承や「記録」する行為それ自体への問いを扱う作家4組のグループ展。小森はるか+瀬尾夏美、是恒さくら、久保ガエタンについての前編と、笹岡啓子についての後編に分けて記述する。
小森はるか+瀬尾夏美は、東日本大震災を契機に陸前高田に移住し、現在は仙台を拠点とするユニット。住民への聞き取りを元に、人々の記憶を内在化させた土地の風景への眼差しを映像、絵画、テクストといった複数の媒体で表現している。出品作《声の辿り『二重のまち』》は、「2031年」の想像上の陸前高田を舞台にした小説『二重のまち』を、地元住民たちが朗読し、現在の風景とともに記録した映像作品である(この小説は、砂連尾理の演出作品『猿とモルターレ』の2017年大阪公演でも朗読され、重要な役割を担っていた)。『二重のまち』では、4つの季節のシーンが、それぞれ別の主人公による一人称視点で語られる。新しい土地の上の町/地底に眠る町、記憶の中の「故郷」への想い/人工的な風景を「故郷」として育つ子供たち。そうした未来の視点からの「2031年」の物語が、更地に生い茂る植物や、山を切り崩し「盛り土」工事を行なうクレーン車といった「震災後の現在の光景」を前に語られることで、時制のレイヤーが折り重なった奇妙な感覚を生む。ここは未来か、過去か、現在か。これは誰の記憶なのか。また、「一人称の語り手」と「朗読者」との年齢や性別の差異や不一致も巧妙に仕掛けられる。例えば、「少年の僕」の語りを女性が朗読し、一人の語りが複数人で分割して語られることで、「語り」の主体が曖昧に分裂して多重化し、いつかどこかで遠い誰かの身に起きた出来事を「民話」や「寓話」のように語り継ぐ光景のように思えてくる(あるいはそうなってほしいという願いが顕現する)。
また、是恒さくらは、アラスカや東北、和歌山など捕鯨文化の残る土地を訪ね、鯨にまつわる個人の体験談を聞き取り、リトルプレス(冊子)と刺繍として作品化。国同士の反発の要因ともなる「捕鯨」を、むしろ国や言語という境界線を超えて、異文化間の価値共有の可能性を探るための文化として提示する。
久保ガエタンは、母の出身地である仏ボルドーで19世紀に造られた軍艦が、アメリカを経て幕末の日本に渡り、最終的に解体されて発電機に再利用されたという史実を軸に、「変身」「再生」にまつわるさまざまなエピソードを織り交ぜ、自伝的要素と歴史や神話が入り交じるグラフィカルな「物語」を提示した。
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小松浩子「鏡と穴─彫刻と写真の界面 vol.4」
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gallery αM[東京都]
光田ゆりがキュレーションする連続展「鏡と穴──彫刻と写真の界面」の第4回目として開催された小松浩子のインスタレーションには、正直圧倒された。ギャラリーに向かう階段を降りる時から、定着液の饐えた匂いが漂っていて、ある程度予想はしていたのだが、会場の様子はその予想をはるかに超えていたのだ。ロール紙に引き伸ばされた大量のプリントが、壁に貼り巡らされ、床に置かれたり、丸めて立てたりしてある。壁と壁の間に張られた針金に吊るされているものもある。床には、文字通りびっしりと8×10インチサイズのプリントが敷き詰められ、観客はその上を土足で歩いて作品を見るようになっている。写真に写っているのは、小松が偏愛しているという資材置場の光景。さまざまなモノたちが乱雑に寄せ集められ、重なり合い、そのまま放置されている場所のたたずまいが、写真のインスタレーションで再現されているのだ。ギャラリーのスペース全体が、まさに資材置場と化していることに思わず笑ってしまった。小松の今回の展示のタイトルは「人格的自律処理」だそうだ。「人が死んだときに実行されることがら、例えば遺言執行や臓器提供などを、死者自身が行うことの可能性についての考えを含んで」いるのだという。とても興味深いコンセプトだが、そのことから推し量ると、今回の展示はモノそのものの「人格的自律処理」を小松が代行したということなのではないだろうか。ドイツのケルンや、マンハイムでの展覧会も含めて、このところの彼女の展示には吹っ切れた凄みを感じる。もっと大きなスペースで、思う存分暴れてほしいものだ。
2017/10/10(火)(飯沢耕太郎)
野村浩「もう一人の娘には、手と足の仕草に特徴がある。」
会期:2017/10/07~2017/10/22
POETIC SCAPE[東京都]
今年3月に同じ会場で個展を開催したばかりの野村浩が、矢継ぎ早に新シリーズを発表した。前回の「Doppelopment」の続編というべき作品で、ひとり娘の「はな」に双子の姉妹の「なな」がいたという設定をさらに膨らませている。前回は、牛腸茂雄の「こども」の写真を思わせるモノクロームの画面に、スナップショット的に二人の女の子を配するという趣向だったのだが、今回はカラー写真になり、写っているのはひとりだけだ。つまり、野村が生み出した「もうひとりの娘」がまさにひとり歩きし始め、自分の世界をつくり始めたという設定である。もともとこのシリーズは、野村自身が双子の片割れというところから発想したものだが、展開していくにつれて少しずつ現実感が増し、写真を使った物語作家としての野村の本領が充分に発揮されるようになってきている。娘の成長に合わせてさらに続けていけば、より豊かな内容になることが期待できそうだ。このシリーズのもうひとつの見所は、前回の牛腸茂雄と同様に、写真史的な文脈が巧みに導入されていることだ。今回の展示にはインスタント写真を使ったパートもあるのだが、そこではダイアン・アーバスのあの有名な双子の写真や、ロートレックの自分をモデルと画家に分裂させたセルフポートレートが引用されていた。考えてみれば、写真というメディウムそのものが「Doppelopment」(ドッペルゲンガーと写真の現像を意味するdevelopmentを組み合わせた野村の造語)の装置というべきものであり、被写体を増殖させる試みが絶えず繰り返されてきた。このシリーズは、個人史と写真史が結び合うかたちで発展していくのではないかと思う。ただ、あまりにも複雑な内容になっていくと、観客の負担も増えてくる。軽やかな「初心」を忘れることなく続けていってほしい。
2017/10/11(水)(飯沢耕太郎)
マグナム創設の原点
会期:2017/10/06~2017/10/25
フジフイルム スクエア[東京都]
マグナム・フォトは、いうまでもなく1947年にロバート・キャパ(ハンガリー→アメリカ)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(フランス)、デビット・シーモア(ポーランド→アメリカ)、ジョージ・ロジャー(イギリス)の4人の写真家を中心に設立された「写真家のための協同組合」である。その後現在に至るまで、フォト・ジャーナリズムとドキュメンタリーの分野で世界中の写真家たちに影響を与え続け、大きな目標となってきた。本展はそのマグナムの草創期の写真にスポットを当てたもので、創設者の4人のほか、イヴ・アーノルド(アメリカ)、インゲ・モラス(オーストリア→アメリカ)、エリオット・アーウィット(アメリカ)、ワーナー・ビショフ(スイス)、デニス・ストック(アメリカ)、マルク・リブー(フランス)といった写真家たちを取り上げている。「Part1 創設者4人が写真家として活動を開始」、「Part2 第二次世界大戦」、「Part3 マグナム創設とその後」という三部構成、70点の作品を見ると、この時期のマグナムの写真家たちの活動ぶりが特別な輝きを発しているように思えてくる。むろん、個々の写真家たちが、それぞれのキャリアのピークを迎えつつあったということはある。だが、それ以上に雑誌や新聞に掲載された一枚の写真が多くの人々の心を揺さぶり、世論の動向にも影響を与えていくような、フォト・ジャーナリズムの黄金時代が背景にあったということだろう。その輝かしい時期は、だがそれほど長くは続かない。1954年、ロバート・キャパがインドシナ半島で、ワーナー・ビショフがペルーのアンデス山中で取材中に命を落とす。56年にはデビット・シーモアがスエズ動乱を取材中に亡くなる。そのあたりから、マグナム内の、写真は芸術なのか、記録なのかという論争も激しくなり、その活動も大きな曲がり角を迎えることになる。とはいえ、今回展示された1930~50年代の写真群は、何度でも見直すべき価値がある傑作揃いといえる。ただ、会場がやや手狭だった。もう少し大きなスペースで、資料展示も含めてゆったりと写真を見ることができるといいとおもう。
2017/10/13(金)(飯沢耕太郎)