artscapeレビュー

2019年01月15日号のレビュー/プレビュー

フィリップス・コレクション展

会期:2018/10/17~2019/02/11

三菱一号館美術館[東京都]

1921年、ダンカン・フィリップスがワシントンに開設した私立美術館フィリップス・コレクション。近代美術を中心とする4千点を超えるコレクションから75点を選んだもので、印象派をはじめ、18世紀のシャルダンからアングル、ドラクロワ、20世紀のピカソ、ジャコメティまで絵画、彫刻を展示している。アングルの有名な後ろ姿のヌード像の小ヴァージョンや、人気ヴァイオリニストのパガニーニを描いたドラクロワの軽快な小品、マネのぎこちない踊り子姿、抽象画といってもいいようなゴーガンの静物画、カンディンスキーの最初期の抽象画、ココシュカの珍しい風景画など、見るべき作品は少なくない。

だが、作品もさることながら、本展で見逃してはならないのは、第1次大戦から第2次大戦後まで、ダンカンが作品を手に入れた順に並べていること。ふつう展覧会は時代順、様式やジャンルごと、国別・作家別に並べることが多いが、同展はあくまでコレクターを主体に構成されているということだ。これはとくに個人のコレクションを見せるときにぜひやってもらいたかったこと。誰も個人コレクションで美術史を勉強しようなんて思ないので、だったらいっそ個人がどのような嗜好で作品を集め、どのように嗜好が変わり、最終的にどんな作品を残したのかを(できればどの作品を手放したのかも)わかりやすく見せたほうが興味が湧くというものだ。ダンカンの場合、古典的なものから近代、現代へと嗜好が移っていく(あるいは意識が目覚めていく)のがよくわかるが、これは、まあ、ほかのコレクターと変わらない。

もうひとつ、同展で気づいたのは、額縁にガラスの入っていないものが多いこと。近年は作品防護のためガラスで画面を覆うことが多く、ガラスのない額縁を見つけるほうが難しいくらいだが(反射しないので、一見ガラスが入っているかいないかわかりにくい)、ここではざっと数えて34点にガラスが入っていなかった。彫刻を除く68点の絵画の半分だ。最近は無反射ガラスが使われるためガラス入りでも見にくくはないが、それでもガラスなしのほうがクリアに見える。最高の状態で作品を見せたいという鑑賞者ファーストの思想だろうか。それとも単に金がないだけなのか。

2018/12/19(水)
(村田真)

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松井沙都子「モデルハウス」

会期:2018/12/15~2018/12/24

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

現代日本の標準的な住環境に使用される内装材を用いて、ミニマル・アートを想起させる抽象的な構造物を模しつつ、その均質化された表層性や空虚さを露わに提示してきた松井沙都子。本展では、実際のモデルハウスの室内を撮影した写真作品と、内装材や照明器具を組み合わせた立体作品によるインスタレーションが展示された。

写真作品では、電化製品や家具、インテリアが配されたリビングルームやキッチンの一角が、淡々と写し取られている。その光景は、売り手側が演出し、買い手側が自己投影的に思い描く「マイホーム」「幸せな家庭」の完璧な像を共犯的に紡ぎ上げようとするが、住人の記憶や生活感の痕跡がないツルツルの表面で覆われた室内は、むしろ不在感や空虚さを際立たせ、「幸福で完璧なマイホーム」の虚構性こそを浮かび上がらせるようだ。



[写真:大島拓也 提供:京都市立芸術大学]

一方、より戦略的に美術史や制度論との接続を図りつつ、現代日本の住環境に対して批評的に言及するのが、内装材と照明器具を組み合わせた立体作品である。切り取られた白い壁を天井から照らすライト。矩形の窓枠と、半透明のアクリル板越しに輝く蛍光灯。約2.5m四方の正方形に切り取られた床と、間接照明の光。これらは、例えばカール・アンドレのフロア・ピースを想起させるなど、ミニマル・アートの美術史的記憶を喚起させつつ、「壁」「矩形のフレーム」「床や台座」といった要素は、より本質的には、ホワイトキューブの展示空間すなわち視線の制度を下支えしている構造を浮かび上がらせる。だが、天井のライトが照らし出すのは何も掛けられていない裸の壁であり、眩く照らされたフレームの中は空っぽで、台座のように持ち上げられた床面には何も載っていない。ここには、「見るべきもの」として照らし出されているはずの実体的な「作品」がない。パレルゴンを作品(エルゴン)へと転化させる転倒の身振りは、「見ること」を基底で支えているにもかかわらず、不可視化されていた存在を浮上させる。



[写真:大島拓也 提供:京都市立芸術大学]

こうしたパレルゴンのエルゴン化という操作は、「台座」という装置を「彫刻」化させる竹岡雄二の作品を想起させる。だが松井は、ミニマル・アートへの美術史的接続や制度論をめぐる問題意識を引き継ぎつつ、その表面を「現代日本の標準的な家の内装材」という皮膜で覆い、擬態させてしまう。適度な凸凹感や木目が、無機質ではなく暖かみを感じさせる壁紙やクロス、フローリング材。その薄い皮膜で覆われた空間を、人間味を帯びた居住空間として暖かく照らし出す照明器具。私たちの生活空間は、鉄骨やコンクリートの骨組みを覆い隠すそうした皮膜に均質的に覆われている。松井作品は、ホワイトキューブの展示構造を入れ子状に反復し、ニュートラルな見かけを装いつつ、内装材を異物として侵入させ、表面に貼りついて擬態させることで、「現代の日本の家」の半ば不可視化された基底そのものをこそ眼差すように促すのだ。

2018/12/20(木)(高嶋慈)

釣崎清隆「Days of the Dead」

会期:2018/12/14~2019/12/26

新宿眼科画廊[東京都]

「九相図」とは、死体が朽ち果てていく様子を九段階の場面に分けて描いた仏教絵画である。絶世の美女が腐敗し、骨になって焼かれるまでの変化を観ることで、現世の肉体が不浄であり、無常であることを認識するために、中世に絵巻物や屏風の形で盛んに描かれた。釣崎清隆の「Days of the Dead」のシリーズは、まさに写真による現代の「九相図」といえるだろう。

釣崎は、1994年からタイ、メキシコ、コロンビア、ロシア、パレスチナ、そして日本などで、死者たちの姿を撮り続けてきた。自殺、交通事故、殺人事件、死体安置所、法医学鑑定所など、死体をめぐる状況は多種多様だが、美的、主観的な解釈を最小限に留めてその佇まいを客観的な記録として撮影している。それらを集成した写真集『The Dead』(東京キララ社)の刊行を受けた、今回の新宿眼科画廊での個展では、180点をおさめた写真集から20点を抜粋して展示している。

死者を撮影し、その写真を発表するという行為には、絵画以上の困難がある。当然ながら、より直接的で生々しい画像となる写真の場合、死者、あるいは遺族に対する冒涜ではないかという倫理的な非難がつねにつきまとってくるからだ。そのようなタブーの意識は、このところ、さらに強まってきているようだ。実際に、今回の写真集の出版に際しても、印刷や製本を引き受けてくれる会社を探すこと自体が大変だったようだ。だが釣崎の写真を見れば、それらがけっして覗き見趣味の産物ではなく、現代社会における死者のあり方について真摯に考え抜き、答えを出すことを求め続けてきたものであることがすぐにわかるだろう。彼の仕事には、死者たちの姿を隠蔽してきた現代文明に対する根本的な批判が含まれている。

2018/12/21(金)(飯沢耕太郎)

山元彩香「We are Made of Grass, Soil, and Trees」

会期:2018/12/01~2019/01/15

ビジュアルアーツギャラリー[大阪府]

青味がかった静謐な光が室内を満たし、奇妙に美しい衣装をまとった異国の少女たちが立つ。内省するように閉じられた瞳。永遠に時間が凝固したかのような結晶化したイメージ、繊細なざわめき。古典的なポートレートの端正さと、前衛的なファッション写真を思わせる先鋭さが同居する。少女たちは繊細で風変わりな衣装を身に着けているが、背景の室内空間をよく見ると、壁紙は剥がれ落ち、壁にはヒビが走る。その荒廃感が、彼女たちの発する神聖さや透明感をより際立たせるかのようだ。少女たちは頭部を髪の毛やベールで覆われ、あるいは瞳を閉じたり、虚ろな眼差しを虚空に向けており、その「眼差しの遮断」は、彼女たちが時間も空間も遠く隔たった異空間の住人であるかのように感じさせる。



[Ayaka Yamamoto / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film]

山元彩香は、ロシアやその周辺国、東欧諸国に赴き、現地で出会った少女たちのポートレートを撮影してきた写真家である。言葉の通じない彼女たちとの撮影過程は、身振り手振りによる身体的コミュニケーションを取りながら、現地で準備した衣装や小道具をあてがうというものであり、山元と被写体との一種の即興的な共同作業であるとも言える。それは目の前に存在する個人から、普段身に着けている衣服や属性、固有名といったものを丁寧に剥ぎ取り、別の「イメージの皮膜」をそっと纏わせていく、親密にして暴力的な作業だ。だが、明示的な言語によらない曖昧さを孕んだコミュニケーションの介在が、例えばファッション写真におけるようなディレクターからモデルへの一方的な権力関係をぎりぎりのところで回避し、被写体への尊重とイメージとしての奪取が微妙に混ざり合った魅力的な領域を形成している。

こうして捕捉された少女たちの像は、生と死、人間と彫像、人間とひとがたの境界を淡く漂うかのようだ(流木を人体に見立てた、あるいは粗い石像で象ったひとがたが、少女のポートレートと実際に並置される)。青いベールを被った少女は聖母像を連想させるとともに、ベールに覆われた頭部は繭に包まれて脱皮を待つ幼虫を思わせ、少女から大人へと変態途中のイメージ、聖性と死の同居を印象づける。めくれて剥がれかけた壁紙、垂れ下がった赤い毛糸の束、カーテンの襞やドレープ。これらの「背景」は、皮膚、かさぶた、髪の毛、血管、女性器の襞や陰裂を想起させ、1)人体(女性の身体)のメタフォリカルな置換、2)その傷つきやすさ、そして3)(写真の)「表皮」性を強く示唆する。



会場風景

「仮面」もまた、頭部を覆う髪の毛やベールの膜と同様、注目すべき小道具である。山元の写真には、写真が「表皮」「仮面」であること(でしかないこと)を示唆する装置がそこここに記号的に埋め込まれている。少女や若い女性の被写体、その人種的な偏好性、衣装や小道具のセットアップ、演出と即興の同居といった撮影手法や、現実離れした審美性への嗜好、「ファッション写真」との境界といった点で、山元の写真は、ヘレン・ファン・ミーネのそれと多くの共通点を持つ。だが一方で、写真の「表皮」性を自己言及的に埋め込む手つきが、単なる追従者や二番煎じから分かつ。山元の写真は、少女たちのイメージが、そして写真が「表皮」であることを(さらにはその脆い傷つきやすさを)さらけ出す。それは、自らの表皮性を忘却・隠蔽することで成り立つ一般的なファッション写真から隔てるとともに、それでもなお、仮初めの薄膜であるがゆえの美に引き込もうとする魔術的な魅力に満ちている。

関連レビュー

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2018/12/22(土)(高嶋慈)

小野祐次「Vice Versa ─ Les Tableaux 逆も真なり ─ 絵画頌」

会期:2018/12/12~2019/02/02

シュウゴアーツ[東京都]

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》をはじめ、レンブラントの自画像、ルーベンスによる肖像画、モネの《印象・日の出》、セザンヌの静物画などを額縁ごと撮った写真。といってもすべてモノクロで、なにが描かれているかほとんど判別できない。これらは美術館に注ぐ自然光の下で撮影したものだが、図像の代わりに絵具の盛り上がりやキャンバスのたるみ、ひび、修復跡などが浮かび上がってくる。画集などに載る絵画の写真が色彩を中心とする画像の再現に注力するのに対し、小野の写真は絵画の物理的状態を露わにする。つまり絵画を平面としてではなく、立体(またはレリーフ)として写し出すのだ。色彩と形態から成り立つ絵画が真であるならば、彼の写真もまた絵画のもうひとつの真の姿なのだ。


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2018/12/22(土)(村田真)

2019年01月15日号の
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