2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

2019年01月15日号のレビュー/プレビュー

《MACRO ASILO》

[イタリア、ローマ]

ローマの現代美術館《MACRO ASILO》を訪れた。オディール・デックの設計により、ビール会社の工場を改造したものである。外観は古いファサードを残しつつ、ガラスを用い、穏当なデザインだ。しかし、傾斜地に建ち、2つの街路に面するために異なるレベルからのアクセスをもち、内部は複雑な空間構成になっている。ただ、ちょっとやり過ぎのリノベーションにも思えた。ポストモダン、ハイテク、オブジェ風のヴォリュームをもつ講義室、マリオ・ボッタ風の階段室まわりなど、さまざまなスタイルを駆使し、全体としてはやや混乱気味の印象を受けたからである。ともあれ、気合いを入れた(入れ過ぎの?)巨大な現代建築とは言えるだろう。特別な企画展がないタイミングのせいか、見ることができた展示はいまいちだったが、キャットウォークがついた室内は天井が高く、巨大なインスタレーションを設置できる使い出のある空間だった。実際、壁を持て余すからなのか、作品を上下にぎっしりと並べていた。なお、同館のショップは、グッズばかりになって、まともに本がない日本の美術館と違い、とてもちゃんとしていることに感心させられた。

テスタッチオのエリアには、ステファノ・コルデスキ設計によるもうひとつのMACROが存在する。これは近年、リノベーションが進められている建築群を使い、大学の施設も入っている。訪問したときはオープンしている時間帯ではなかったため、内部を見ることはできなかったが、一帯は古典建築の上部をぐるりと囲む鉄のレールのネットワークが強烈な印象を与える。類例がない奇妙な造形を訝しく思ったが、じつは元屠殺場であり、レールは巨大な肉の塊を効率的に移動させるためのインフラが外部化したものだ(機能を失った今は装飾でしかないが)。以前、上海の郊外でも肉を処理するための機能的かつ立体的な内部空間をもつコンクリートの旧屠殺場を見学したことはあったが、これもある意味で凄まじいモダニズム的な造形である。

《MACRO ASILO》


《MACRO ASILO》


《MACRO ASILO》


《MACRO ASILO》の模型


テスタッチオのエリア


上海の屠殺場をリノベーションした《1933老場坊》(撮影=2014年)


2018/12/29(土)(五十嵐太郎)

ミケランジェロのリノベーション《ポルタ・ピア》《サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会》「カンピドリオ広場」

[イタリア、ローマ]

ローマで、ミケランジェロによる建築をいくつかまわった。今回、初めて外側から見たのだが、市門の《ポルタ・ピア》は、完全な新築ではなく、既存の構築物に対し、内側のファサードのみを彼がデザインしたものである。これは昨年亡くなったロバート・ヴェンチューリがポストモダンの理論を提示した名著『複合性と対立性』の表紙にも使われたことがある作品だけに、古典主義を崩した細部の意図を読み解く、楽しさに溢れている。具体的に気になった部分を挙げていくと、ラウレンティアーナの図書館前室にも通じる下部の持ち送り、ペディメントの割れ方、欠きとられた柱、変形したイオニア式の渦巻き、独創的なU字型、柱頭に組み込まれた小さな要石のような造形など、枚挙にいとまがない。

テルミニ駅の近くにあるディオクレティアヌスの浴場跡を改造した《サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会》も、ミケランジェロが手がけたものである。外部はほとんど古代の廃墟のままだが、内部に足を踏み入れると、一転して派手な教会のインテリアが眼前に広がる。ミケランジェロの後にだいぶ手を加えられたらしいが、古代ローマ建築の空間を生かしたデザインは彼の発想だろう。その結果、通常の教会とは異なり、奥行き方向に伸びるのではなく、横に長い独特のプランになっている。また壮大な空間のスケール感は、古代のローマ建築に起因するものだ。よく観察すると、一部変わった細部もあり、これはミケランジェロのデザインなのかもしれない。

久しぶりの「カンピドリオ広場」も、ミケランジェロが改造した空間である。現在、階段と楕円の広場を中心軸とする、左右対称の構成をもつ都市デザインになっているが、もとは異なる姿だった。つまり、彼は大胆なリノベーションの名手でもある。「ミケランジェロ展 ルネサンス建築の至宝」(パナソニック 汐留ミュージアム、2016)に関わって以降、初めての訪問なので、前にはあまり気づかなかった細部の面白さがよくわかるようになった。その奇妙さにおいてピカイチである。建築における構成の逸脱や装飾の変容のさせ方については、石でつくられたものだが、かたちの重力の働きを感じさせるというテーマを意識しているようだ。

《ポルタ・ピア》


《ポルタ・ピア》


《サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会》


《サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会》


「カンピドリオ広場」


「カンピドリオ広場」重みで垂れ下がるようなイオニア式円柱の渦巻き


2018/12/29(土)(五十嵐太郎)

中井菜央『繡』

発行所:赤々舎

発行日:2018/12/03

中井菜央の写真はこれまで何度か目にしたことがあるが、公募展に応募されたポートフォリオや写真展に並んだ作品を見て、いつもどこか物足りなさを感じていた。よくまとまった、志の高い作品なのだが、着地点が定まっていない印象をずっと持ち続けてきたのだ。だが、今回赤々舎から上梓された写真集『繡』のページを繰ると、もやもやしたものが払拭され、中井にとっての写真のあり方が、一本のクリアーな筋道としてすっきりと見えてきたように感じた。「写真集を作る」ということが、ひとりの写真家を大きく成長させるという有力な証左ではないだろうか。

中井が「ポートレート」を撮り始めたきっかけは、祖母のアルツハイマーの症状が進行していったことだった。亡くなるまでの数年間に撮影された写真群には、「祖母自身が培ってきた自己イメージの祖母でも、私のうちに蓄積されて北イメージの祖母でも、また、新たなイメージの祖母でもなく、しかし『祖母』としかいいようのない個の存在」が写り込んでいた。中井はやがて、その「個の存在」は「意味よりも先行し、かつ強い」と確信するようになる。その認識を敷衍することで、被写体の幅は、身近な他者の「ポートレート」から、モノ、植物、小さな生きもの、都市や森の光景などにまで広がっていった。

写真集には、それらがまき散らされるように配置されている。だが、写真を見ているとそれぞれが勝手な方向を向いているのではなく、見えない糸でつなぎ合わされているように見えてくる。それもそのはずで、中井の関心は次第に「個の存在」そのものより、むしろそれらが絡み合い、重なり合うことで形成される、「人が意図せず、束の間で解ける関わり、結び目」に向けられていったからだ。その「結び目」を嗅ぎ当てる能力が、以前より格段に上がっていることに瞠目させられた。一冊にまとめるタイミングと方向性はこれでいいのだが、ここから先をもっと見てみたい写真集でもある。

2018/12/29(土)(飯沢耕太郎)

中尾美園「うつす、うつる、」

会期:2018/12/21~2019/01/13

Gallery PARC[京都府]

日本画の写生・臨画(模写)における「うつし」を、「記録」と「後世への継承」の側面から捉え、高齢の女性たちの遺品や閉店した喫茶店に残る品々を、記憶の聞き取りとともに精緻に描写し、絵巻物という保存装置に仕立ててきた中尾美園。日本画家としての確かな技術に裏打ちされたその作品は、思わず目を凝らして見入ってしまう繊細かつ迫真的な描写のなかに、「保存修復」という自らの携わる仕事への批評をはらんでいる。本展では、過去作の回顧の延長上に新作を位置づけることで、「記録」と「記憶や習慣の継承」についてより焦点化された内容となった。

新作の対象となったのは、90歳近くになる中尾の大叔母が、毎年手作りしている正月飾りの「しめ縄」である。玄関用、神棚用の大きなしめ縄、台所や道具などそれぞれの「神様」用の小ぶりなしめ縄。用途ごとのさまざまなしめ縄は、中尾の手によって覚書とともに実物大で模写され、着彩されたものは掛け軸に仕立てられている。また、模写による記録に加え、大叔母からしめ縄作りを習う過程を記録した映像も展示された。かつては兄姉や親戚とともにしめ縄を作っていた大叔母だが、現在、彼女が住む地域では、しめ縄を作るのは彼女ただ一人である。しめ縄作りを始めたきっかけは、小学校の登下校中に店舗の軒先に飾られていたものを見て「きれいだな」と思い、真似して作ってみたという。その後、嫁ぎ先の植木屋の仕事の合間に本格的に作り始め、60年以上も作り続けてきた。研究熱心な彼女は、よその家や店舗の軒先に飾られたしめ縄をよく観察していたという。ここで、大叔母の作ったしめ縄を写生する中尾の眼差しは、単なる外形の模写を超えて、「他家や店先に飾られたしめ縄をよく観察し、真似た」かつての彼女の眼差しをトレースしていると言える。その二重のトレースは、彼女の眼差しの追体験であり、小正月を過ぎれば処分されて形に残らないしめ縄の記録でもある。写真やスキャンではなく、目で見て「写す」写生であることの意義がここにある。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

併せて本展では、過去作品の《美佐子切》(2015)と《久代切》(2018)も展示された。《美佐子切》は、亡くなった祖母の桐箪笥に保管されていた嫁入り道具、着物、装身具などを、家族や親戚への聞き取りの覚書とともに模写し、絵巻に仕立てた作品。「切(きれ)」は、「断片」「布切れ」を意味する語だが、ハギレほどの大きさに切り取られて模写された着物(物理的な布の断片)と、祖母・美佐子の人生の断片という寓意的な意味合いが込められ、多重的な意味を持つ。一方、《久代切》は、別の高齢の女性が生前、祝日に掲揚していた「国旗セット」を模写し、絵巻に仕立てた作品。旗竿、それを受ける金具、収納袋、折りたたんで保管されていた3枚の国旗が、シワや染みに至るまで写し取られている。

桐箪笥に保管されていた大切な品物(きれ=記憶を物語る断片)。同様に遺された国旗と、生前の持ち主が続けていた祝日の掲揚という「習慣」。しめ縄の模写に、「習う/倣う」という要素が加わることで、「習慣の伝達や継承」がより前景化する。近年の中尾の関心や足取りは、このような展示のストーリーで示される。中尾作品に感銘を受けるのは、単に本物と見紛う描写力の高さだけでなく、市井に生きた故人(とりわけ女性)の記憶の断片が、絵巻物として確かな実体を与えられ、棺のように丁寧に桐箱に収められ、ふと記憶が蘇ったかのように目の前に鮮やかに展開する、絵巻という媒体の持つ運動性とともに差し出されているからにほかならない。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

関連レビュー

中尾美園「紅白のハギレ」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/29(土)(高嶋慈)

野村恵子『Otari - Pristine Peaks』

発行所:スーパーラボ

発行年:2018

野村恵子の写真家としてのキャリアにおいて、ひとつの区切りであり、新たな方向に一歩踏み出した、重要な意味を持つ写真集である。写真の舞台になっているのは、山深い長野県北安曇郡小谷村。「厳しくも豊穣な山の自然とめぐる季節の流れの中で」暮らす住人たちの姿が、新たな命を妊ったひとりの若い女性を中心に描かれる。特に注目すべきなのは、狩猟と祭礼のイメージである。農耕民とはまったく異なる原理に貫かれた、まさに日本人の暮らしの原型といえるようなあり方をしっかりと見つめ、写真に残しておこうという意欲が全編に貫かれている。

いわば、濱谷浩が『雪国』(1956)や『裏日本』(1957)で試みた、民俗学をバックグラウンドとするドキュメンタリー写真の現代版といえるのだが、野村の写真は、若い女性の身体性を強く押し出すことで、「女性原理」的な視点をより強く感じさせるものになっている。プライヴェートな関係性にこだわってきた、これまで野村の仕事と比較すると、風土性、社会性へもきちんと目配りしており、緊張感を孕みつつ、気持ちよく目に馴染んでいく写真集に仕上がっていた。

なお、野村は入江泰吉記念奈良市写真美術館で古賀絵里子との二人展「Life Live Love」(2018年10月26日~12月24日)を開催した。同展にも本書の作品の一部が展示されていた。

関連レビュー

野村恵子×古賀絵里子「Life Live Love」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/30(日)(飯沢耕太郎)

2019年01月15日号の
artscapeレビュー

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