2021年09月15日号
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artscapeレビュー

2019年01月15日号のレビュー/プレビュー

子どものための建築と空間展

会期:2019/01/12~2019/03/24

パナソニック汐留ミュージアム[東京都]

歩き始めた赤ん坊が初めて履く靴を「ファーストシューズ」と呼ぶが、これに倣うなら、子どもが初めて通う保育園や幼稚園、小学校は「ファーストパブリックスペース」と言うべきか。本展はそんな子どもの「ファーストパブリックスペース」を明治時代から現代にわたって紹介する内容だった。

日本での初等教育機関は江戸時代の寺子屋が始まりとされるが、すべての子どもが小学校に通うことが法で定められ、近代的な一斉教育が始まるのは明治時代からである。また、それと同時に幼児教育も始まった。本展ではまずその象徴である「旧開智学校」が紹介される。これは日本建築に西洋建築の要素を取り入れた擬洋風建築で、重要文化財にも指定されている。大正時代になると大正デモクラシーを背景に、大正自由教育運動が起こる。かの有名なフランク・ロイド・ライトと遠藤新設計の「自由学園」はそうしたなかで生まれた学校だ。昭和初期になると重工業化が進み、西欧の影響を受けたモダンデザインが流行する。谷口吉郎設計の「慶應義塾幼稚舎」はその代表のひとつ。戦後の復興期には科学的な見地を取り入れた、鉄筋コンクリート造の標準設計校舎が普及する。いわゆる一律的な校舎が圧倒的に増えていくのは、この頃からの流れである。その一方で、校舎の真ん中に光庭を取り入れた建築、円形建築、クラスター型建築など、さまざまな新しい試みも生まれていった。


「旧開智学校(重要文化財)」(1876)立石清重[写真提供:旧開智学校]
※画像写真の無断転載を禁じます。


「自由学園明日館食堂」(1921)フランク・ロイド・ライト+遠藤新[写真提供:自由学園明日館]
※画像写真の無断転載を禁じます。

このように時代背景に合わせて校舎も柔軟に変化していった様子が展示写真を通してよくわかり、初等教育機関が近代建築を俯瞰するうえで切り口のひとつになることに興味を持った。展示内容は校舎だけでなく、教育玩具や児童文学、児童遊園や遊具といった子どもの周辺環境にまで及んでいる。もちろん紹介されているのは当時の先駆的かつ独創的な建築ばかりなので、こうした保育園や幼稚園、小学校に通えた人は日本中にごくひと握りしかいない。私も縁がなかった大多数派なわけで、展示写真を眺めながらつくづく羨ましい思いに駆られた。子どもの頃に過ごした場所や見たものは、自身を振り返ってもうそうだが、原風景として長く記憶に留まる。なかには、その人の人生に大きく影響を与える場合もある。だから、もし私がここに通っていたら……とありもしない想像をつい膨らませてしまうが、いやいや、それでも結局は今のような平凡な人生を送っていたんだろうなと思い直す。

公式サイト:https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/19/190112/

2019/01/11(杉江あこ)

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三好耕三「繭 MAYU」

会期:2019/01/08~2019/02/23

PGI[東京都]

三好耕三は1980年代から大判ビューカメラでの撮影を続けている。一般的に、建築写真などで使用するビューカメラは4×5インチ判のフィルムサイズだが、三好はそれより一回り大きい8×10インチ判のカメラを常用してきた。ところが近年、さらにもう一回り大きな16×20インチ判で撮影することが多くなってきている。年齢とともに、体力の問題もあって撮影機材は小さくなるのが普通だが、三好はまったく逆なわけで、ある意味特異な体質の持ち主といえるだろう。フィルムサイズを大きくすることのメリットは、むろん画面の精度が増すということだ。とはいえ、機材が大きすぎて扱いにくくなり、被写界深度(ピントが合う範囲)も狭くなるというデメリットもある。今回の「繭 MAYU」シリーズを見ると、三好が長所も短所も含めて16×20インチ判のカメラの特性を最大限に活かすことで、新たな被写体に向き合っていることがわかる。

さて、今回のシリーズのテーマである生糸の原料となる繭玉は、どこか神秘的な被写体である。カイコの蛹を内に秘めた繭玉は、見る角度や光の状態によって千変万化し、シンプルだが豊かなヴァリエーションを見せる。三好はそれらが「蔟(まぶし)」と称される枡状の区切りの中に一個一個おさめられ、息づいている様を丁寧に撮影している。三好自身の言葉によれば、養蚕農家に通うことは、「少しわくわくの誘惑と、なのになんだか少し物思いになってしまう訪問」なのだそうだ。たしかに、会場に並んでいる写真を見ていると、繭玉が発する不可思議な気配を、「わくわく」しながら全身で感じ取り、シャッターを切っていく写真家の姿がありありと浮かび上がってくる。同じ会場で開催された「RINGO 林檎」(2015)、「On the Road Again」(2017)などの展示もそうだったのだが、三好の近作には「撮る」こと、「プリントする」ことの歓びが溢れ出している。そのことがしっかりと伝わってきていた。

2019/01/11(金)(飯沢耕太郎)

神楽岡久美「身体と世界の対話 vol.2」

会期:2018/12/20~2019/01/26

ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]

中国の纏足、西洋のコルセット、カヤン族の真鍮リングによる長い首……洋の東西を問わず、女性たちの身体は、人工的に骨格を矯正する器具を装着することで、拘束の苦痛や不自由さと引き換えに、絶対的価値としての「美」への恭順を課せられてきた。自らの意思を持った主体ではなく、男性の欲望の眼差しによって成形可能な「物体」として。では、現代の女性は、身体の拘束を代価として得られる美の追求から解放されたのか? 現代の女性の身体は、どのような「美的変形への欲望」をまとっているのか? この問いに取り組むのが、神楽岡久美が現在制作中のシリーズ作品《美的身体のメタモルフォーゼ》である。本展では、第1作《What is Beautiful Body?》が展示された。

展示台の上には、冷たい光を放つ金属と重りやバネでできた奇妙な器具が陳列されている。背後のスクリーンには、実際にそれらの器具を装着しながら、機能と効果を解説する映像が流れる。ヘルメットのように頭部に装着し、骨格を矯正して「小顔」へと引き締め、クレーンで鼻の骨格を高く伸ばす「美顔矯正ギプス」。3kg(!)の重量のドーナツ型の器具を首にはめ、首を細長く成形する「首ギプス」。3つのバネで肩甲骨を内側へ寄せ、背筋を伸ばす「猫背防止ギプス」。筋力トレーニングのようにバネを伸ばす運動をすることで贅肉を落とす「二の腕引き締めギプス」。左右の足をバネで連結し、両足の歩幅を美しく整える「モデル歩行ギプス」。また、骨格図やレントゲン写真を参照して器具をデザインした設計図のドローイングも展示されている。

これらの器具はいずれも「~ギプス」と命名されており、マンガ『巨人の星』に登場する「大リーグボール養成ギプス」を連想させる。だがそれらは、「筋肉」すなわち男性性の象徴たる肉体的強さの錬成を装いながら、「女性の身体美」の養成に奉仕するものであり、強烈なアイロニーをはらむ。

身体の鍛錬や拘束と美へのオブセッション、器具の装着による人為的な身体拡張やメタモルフォーゼ、人工的な畸形性とエロス。系譜として、例えば、マシュー・バーニー、レベッカ・ホルン、小谷元彦(バイオリンを模した器具でピアニストの指を矯正する《フィンガーシュパンナー》や小鹿の脚に矯正具を付けた《エレクトロ(バンビ)》)が想起される。とりわけ、ヤナ・スターバックの《Remote Control》 は、「美」に奉仕させられる女性身体の拘束を扱う点で、神楽岡作品を考える際に示唆に富む(《Remote Control》はクリノリン・スカート型の電動の歩行器だが、檻を思わせる形状の立体作品。装着者はクリノリンのなかに吊り下げられ、リモコンで自ら動きを操作しつつ、鑑賞者によっても操作される)。

纏足やコルセット、クリノリン・スカートは既に滅んだが、「痩身」「二重まぶた」「バストアップ」「O脚矯正」といったさまざまな美容整形の謳い文句は街頭にもネット広告にも溢れ、いまも目に見えない規範として女性の身体を縛り続けている。「小顔」「細い首や二の腕」「すらりと伸びた背筋」「ランウェイを歩くモデルのように優雅な歩き方」……。神楽岡の作品は、単に実装可能な器具のデモンストレーションを超えて、「女性はこのように美しくあるべき」「男性の視線の要請にそって身体を成形すべき」という、女性の身体を常に取り囲む規範を可視化し、拷問用具のようなグロテスクな拘束具として具現化してみせるのだ。



[撮影:中澤有基]

2019/01/12(土)(高嶋慈)

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『犯罪部族法』

会期:2019/01/13~2019/01/14

京都芸術劇場 studio21[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNにて、太田省吾の「沈黙劇」の代表作『水の駅』を演出し、反響を呼んだインドの演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワラン。再び京都で、「身体と言葉の創造的行為を巡って──インド/京都による国際共同研究」公開研究会において、最新作『犯罪部族法』が上演された(シアターコモンズ ’19にて東京公演も開催)。

ヴェンカテーシュワランはインドの大学で演劇を学んだ後、シンガポールの演劇学校へ留学し、2007年に劇団シアター・ルーツ&ウィングスを旗揚げ。ヨーロッパの演劇シーンで活動するとともに、多民族・多言語国家であるインド国内でも文化的周縁部であるケーララ州に劇団の拠点を置いている。対外的/国内的にも多文化・多言語状況に常に直面する制作状況は、作品にも先鋭的に反映されている。『水の駅』では、一切のセリフを排した「沈黙」によって、人間存在の本質とともに、統一的なナショナル・ランゲージを持たない多言語状況をネガとして浮かび上がらせていた。一方、本作『犯罪部族法』では、徹底して「対話」を重ねつつ、やり取りが逐次通訳を挟むことで、「翻訳」と媒介性、国際語である英語/ローカル言語の非対称性、間接話法と直接話法、主体の交換・転位の(不)可能性といった問題を浮上させ、インドの社会構造への批判とともに、「言語」に依拠する演劇それ自体に内在する問題へと深く切り込んでいた。

冒頭、無言で行なわれるシーンは美しく象徴的だ。ゆっくりと円を描くように、箒で丁寧に床を掃き清めていく男性。「何もない」かに見えた舞台上の中央に、細かな赤土の砂が集められていく。掃除=汚れの除去ではなく、今まで「あった」のに「見えていなかった」存在を可視化する静かな身振りが、導入として示される。続いて、もうひとりの男性が登場。二人は無言のまま、観客一人ひとりと視線を合わせていく。簡素な舞台上には、テーブル、椅子、小さな平台が置かれているだけであり、二人は立ち位置を交換するたびに、互いに見交わし、観客がそこにいることを承認するように、一人ひとりと視線を交わす。立場の交換や流動性と、存在の承認。穏やかな時間とともに上演は始まった。

二人はまず、自己紹介を始める。都市部のデリー出身で主に英語を話すルディと、農村出身で主にカンナダ語を話すチャンドラ。二人は、大英帝国による植民地支配下で1871年に制定された「犯罪部族法」についてのリサーチに取り組んだと話す。これは、植民地支配の円滑化のため、カースト制度という既存の社会構造を利用して、非定住民の約150のコミュニティを「犯罪部族」と指定した差別的な法律である。この法律はインド独立後に廃止されたが、カースト制度および「制度外」の不可触民への差別や排他意識はなお現存することが、二人の「対話」によって語られていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

本作はそもそも、チューリッヒで開かれた演劇祭への参加作品であったため、ヨーロッパの観客の受容を念頭に制作されている。そのため、「犯罪部族法」及びカースト制度について、俳優自身が自らの出自や経験を交えつつ分かりやすく語る「レクチャーパフォーマンス」の体裁がとられている。カーストは四層の大きな建物に例えられること、この建物には入り口も階段もなく別の階へは行けないこと、そして「建物の外」に住む不可触民がいること。不可触民は「カースト内」の人々の家に入ることを禁止され、居住区には境界線があり、彼らが触った物にも触れてはならず、食堂では食器が区別されていること。農村出身のチャンドラはカースト外とされる出自で、一方ルディは、都市部出身の英語話者で「カーストをほぼ意識せず育った」と話す。ルディ(=欧米の観客の近似的存在)が投げかける質問にチャンドラが答える形で、「対話」は進んでいく。

ここで注目すべきは、チャンドラが話すカンナダ語は、「字幕」に一切表示されず、「彼は『~だ』と言っている」とルディが英語で逐次「通訳」して伝える点だ。チャンドラが身振り手振りを交えて語る内容は、(欧米でも日本でも)ほぼすべての観客にとって「理解できない音声」として浮遊し、英語を介さなければ「伝達」されず、「聴こえない声」として抹殺されてしまう。インド国内における多言語状況や植民地支配者の言語による抑圧とともに、グローバルな流通言語としての英語と、ローカルな言語との非対称性が浮き彫りとなる秀逸な仕掛けだ。

また、この「通訳」の介在と「字幕」の表示/非表示という操作は、言語や翻訳をめぐるポリティクスのみならず、「演劇」に内在する問題も照らし出す。チャンドラの経験を「通訳」するルディは、「彼は『~だ』と言っている」という間接話法からかっこを外し、「僕は~だ」と直接話法で話してしまい、代名詞の間違いを指摘される。この「混乱」は、他者の言葉を媒介する「翻訳」という行為が、「自分ではない誰かを表象する」演劇という営みにすり替わる臨界点を示し、翻訳者や俳優の帯びる媒介性、主体の交換可能性を指し示す。それは、「自分ではない他者の立場に身を置く」という想像力の発露であるとともに、「他者の言葉の奪取」という危うい暴力性も孕む。 主体の交換・転位が暴力的な形で噴出するのが、中盤、チャンドラの農村での少年時代の経験を「再現」するシーンだ。炎天下での農作業、耐え難い喉の渇き。淡い恋心を寄せる少女が水を渡そうと近づくが、そのコップに触れることは禁じられている。誘惑と罰を受ける恐怖を振り払うように、鍬を振り下ろし続けるチャンドラ。だがそれは「ルディ」によって演じられ、「チャンドラ」は少女の役から怒号を飛ばす雇い主へと変貌し、ヒステリックな叫びと鞭の音は次第にエスカレートしていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

「対話」によって(俳優同士の、舞台上と観客との、隔てられたコンテクスト間の)相互理解の橋をかけ渡そうとしつつ、本作は安易な解決を提示しない。チャンドラが床にチョークで描いた、村のコミュニティを分断する境界線の図は、冒頭と同じく箒で掃く所作によって線が薄れていくが、完全に消えることはない。テーブルに置かれた水がめから自由に水を飲めるのはカースト内の「ルディ」だけであり、「チャンドラ」は渇きを癒せない。ラスト、ルディは水がめを渡そうと差し出すが、チャンドラの手に触れた途端、落下して割れてしまう。苦い後味の残るラストシーンだが、見終わった後に重苦しさよりも希望が感じられたのは、ヴェンカテーシュワランと俳優たちの誠実な態度と、レクチャー/通訳/ロールプレイングといった複数の形式を横断して「演劇」を自己批評的に問う緻密な構造のなかに、社会への批判的視線がしっかりと織り込まれていたからだ。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/01/14(月)(高嶋慈)

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リフレクション──ヴィデオ・アートの実践的美学

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発行日:2018年12月14日
定価:3,800円(税抜)
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Rhetorica #04 特集:棲家

企画+編集:team:Rhetorica
発行:レトリカ西東京ラジオ(ver. 0.0)/遠山啓一(ver. 1.0)
販売元:Rhetorica
装丁:太田知也
カバーデザイン:永良凌
発行日:2018年12月16日
定価:3,000円(税抜)

私たちはいま、都市において、集まって余裕のある時間を過ごすことが難しくなっています。ゆっくりとした時間や思考、空想は今や贅沢なものになってしまっています。私たちが『Rhetorica #04』を通じて考えたのは、家族ができたり、物理的に遠いところに行ったり、身体を壊したりしても、それでも仲間と一緒にクリエイティブであり続ける条件や方法です。私たちは、人に、都市に、文化に、どんな期待を持つことができるのでしょうか。見慣れた固有名詞にありふれたキュレーション、綺麗に形だけ取り繕ったメディアでは届かない問いに向き合っていることが、本誌の特徴です。都市に棲み直すために、クリエイティブであり続ける条件や方法を考える。

[プレスリリースより]
ル・コルビュジエと近代絵画──20世紀モダニズムの道程

著者:呉谷充利
発行:中央公論美術出版
発行日:2018年1月15日
定価:3,200円(税抜)
サイズ:A5判、356ページ

20世紀最大の建築家──ル・コルビュジエ(1887-1965)。数多くの絵画や版画を制作した一人の画家でもあった彼が生命を吹き込んだ建築の本質は何だったのか? 近代建築を代表する建築家であるル・コルビュジエの絵画に着目し、1910年代の初期の絵画から1950年代までのその変遷を追いながら、これと並行する建築の変化も検証することで、ル・コルビュジエの絵画と建築をひとつの統一的な芸術活動としてとらえ、彼の創造的精神を考察する。

バウハウスの人々──回想と告白

編者:エッカート・ノイマン
発行:みすず書房
翻訳:向井周太郎、相沢千加子、山下仁
発行日:2018年12月15日
定価8,200(税抜)
サイズ:A5判変、384ページ

第一次大戦の敗戦から間もない1919年、ドイツ・ヴァイマールに革新的な造形学校がつくられた。その名も「バウハウス(建築の家)」。創立者グロピウスの宣言「あらゆる造形活動の最終目標は建築である。建築家、彫刻家、画家たちよ、我々は手工作に戻らなければならないのだ」の言葉に触発された才能ある若者たちが、世界中からこの学校を目指してやってきた。(中略)グロピウスの理念に応じ集まった綺羅星のごときマイスターたち、ファイニンガー、イッテン、クレー、カンディンスキー、シュレンマー、モホイ=ナジ…… 誰もが芸術上新しい道を歩もうとしている人々だった。そして、この共同体に暮らす学生たちは、男子は長髪、女子はミニスカートにショートカット、襟もつけず、靴下もはかずに町を歩き、ヴァイマールの人たちから「バウハウス人」と呼ばれていた。この書には、そんなバウハウス人、54人の生き生きとした証言・追想が収められている。両大戦間期、デッサウへの移転を経て、14年の間だけ実現したこの伝説の造形学校の日々を物語る、かけがえのない記録である。

吉田謙吉と12坪の家──劇的空間の秘密

発行:LIXIL出版
編集:羽佐田瑶子、川口ミリ
アートディレクション:祖父江慎
デザイン:藤井瑶(コズフィッシュ)
発行日:2018年12月1日
定価:1,800円(税抜)
サイズ:A4判変、80ページ

舞台美術を中心に考現学採集、装幀、文筆業など多彩なジャンルで活躍した吉田謙吉(1897-1982)は52歳(1949年)で東京・港区に12坪の家を建てた。小さなスペースながら小ステージがあり、恩師の今和次郎に「愉快な家」と言わしめた家。さて、その独創的な空間づくりの詳細はいかに。本書では、この12坪の家に影響を与えたであろう謙吉の仕事を振り返りながら、“劇的空間”としての自邸の秘密を解き明かそうとするものである。謙吉は、関東大震災、続く第二次世界大戦という多くの人々の暮しが解体された大災難に遭っても、彼のまなざしは常に自由で新しいものに向けられていた。バラック装飾社、考現学、築地小劇場での舞台美術の仕事、住まいの提案…… 人を喜ばせることが好きで、自身も人生を楽しく謳歌することを望んだ彼の生き方を、12坪の家を基軸に、謙吉が残した空間づくりに関わる数多くの記録と自身の言葉から探っていく一冊。

ヒスロム ヒステリシス

執筆:ヒスロム、志賀理江子、林剛平、清水建人
発行:T&M Projects
編集:細谷修平、せんだいメディアテーク
ブックデザイン:伊藤裕
発行日:2018年12月10日
定価:2,700円(税抜)
サイズ:165x223mm、128ページ

アーティスト・グループ「ヒスロム」のこれまでの活動をまとめた記録集。身体を用いたアクションによって土地と人間の関係を探索するアーティスト・グループ「ヒスロム」の活動を紹介する国内初の個展「仮設するヒト」が2018年11月3日(土)から12月28日(金)にかけて、仙台のせんだいメディアテークにて開催されます。(中略)本書は上記展覧会に合わせ刊行される、ヒスロムの活動をまとめた記録集となります。今までの活動や上記展覧会の展示風景などの多数の写真、志賀理江子をはじめとする3人によるエッセイ・論考によって構成された本書は、ヒスロムの圧倒的な活動を網羅した1冊になります。

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2019/01/15(火)(artscape編集部)

2019年01月15日号の
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