artscapeレビュー
2010年07月15日号のレビュー/プレビュー
空山基 個展
会期:2010/05/22~2010/06/19
ナンヅカアンダーグラウンド[東京都]
エアブラシを駆使して、メカニックかつメタリックな質感描写で一世を風靡したイラストレーターの個展。といっても、とても公開できないようなエロい描写もあって、口当たりのいい「イラスト」に収まらない毒牙もあわせもつ。意外なのは、メカやグラマラスな女性の表現では他の追随を許さないけど、マッチョな男の肉体表現は苦手らしい。あきらかにヘテロですな。
2010/06/01(火)(村田真)
今津景「フラッシュ」
会期:2010/05/22~2010/06/19
山本現代[東京都]
いくつかの画像を組み合わせ、イメージを歪めてペインタリーに描いている。なにより色彩が美しい。これはいいなあ。小品があったら飛びついていたところだが、でも小品だと効果が半減するかも。
2010/06/01(火)(村田真)
佐原宏臣「何らかの煙の影響」
会期:2010/05/31~2010/06/12
表参道画廊[東京都]
この展覧会も「東京写真月間」の関連企画で、倉石信乃のプロデュースによって開催された。佐原宏臣は1990年代半ばに、同じく東京造形大学の学生だった森本美絵と『回転』という写真同人誌を刊行していた。そのうち何冊かは家を捜せばどこかにあるはずで、その端正な写真のたたずまいが記憶に残っている。それから15年あまり、編集アシスタントや卒業アルバム制作会社に勤めながら、写真を撮り続けていた。この「何らかの煙の影響」のように、独特の角度から生の断片を再組織する、彼らしいスタイルを確立しつつあるように思える。
「何らかの煙の影響」は2003~09年の間に亡くなった7人の親族の葬儀の場面を扱ったシリーズ。冠婚葬祭の行事を撮影した「私写真」的な作品はそれこそ山のようにあるが、佐原のアプローチはそれらとは微妙に違っている。他の写真家たちのように家族や親戚と自分との関係に焦点を結ぶのではなく、儀式の中に無意識的にあらわれてくる他者の表情や身振りの方に神経を研ぎ澄ましている様子が見て取れるのだ。倉石信乃が展示に寄せた文章で指摘しているように、それは佐原が「自身も葬儀のメンバーでありながら、儀式の余白において出来事を観察する」という絶妙の位置取りをしているためだろう。そのポジションをキープし続けることだけに神経を集中しているといってもよい。その不断の緊張の維持によって、ゆるいようで張りつめた、不思議なテンションの高さが写真の画面に生じている。同時に上映されていた映像作品「sakichi」(カラー、35分)にも、同じように観客をとらえて離さない緊張感が持続していた。
2010/06/02(水)(飯沢耕太郎)
オルセー美術館展2010「ポスト印象派」
会期:2010/05/26~2010/08/16
国立新美術館[東京都]
平日とはいえ混雑が予想されるので開館直後に駆けつけたが、すでに黒山の人だかり。おまえら「ポスト印象派」だぞ、「印象派」じゃないんだぞ。といいたいところだが、元祖印象派のモネもあれば、新印象派のスーラ、象徴主義のモロー、ナビ派のモ─リス・ドニまであって、どこが「ポスト」だと八つ当たりしたくなるほど充実していた。個人的にはモローの《オルフェウス》、ドニの《セザンヌ礼賛》あたりが好み。ところで、「オルセー美術館展」は90年代から数年にいちど開かれる日本の風物詩みたいなもんだが、いまパリのオルセー美術館自体が改修工事中なので、日本だけじゃなく世界中で「オルセー美術館展」がはびこってるらしい。こうして作品を貸し出して工事費用を浮かせるわけだから、やはり美術大国はおトク。
2010/06/02(水)(村田真)
三木義一「フォトジェニック」
会期:2010/06/01~2010/06/13
企画ギャラリー・明るい部屋[東京都]
三木義一は企画ギャラリー・明るい部屋の創設メンバーの一人。今回の展示は、その真面目な仕事ぶりがよくあらわれた力作だった。会場には28点のモノクロームのポートレートが展示され、以下のような「撮影方法」が掲げられていた。
「暗幕の前にストロボを据え付ける。
他者Aに私の写真を撮ってもらう。
他者Aの写真を撮る。
他者Bに……同様に繰り返す。」
つまり、壁面の片側には三木が撮影した「他者」のポートレートが並び、反対側に「他者」が撮影した三木自身のポートレートが並ぶということだ。その対応関係は、2枚の写真がちょうど正対するように厳密に設定されている。
2つの壁では、やはり「私の写真」の方が圧倒的に面白い。それほど日を置いて撮っているわけではないし、ストロボの発光やモデルの位置もほぼ同じだから、あまり区別がつかない似たような写真がずらりと並ぶことになる。だが、その一枚一枚の微妙なズレが、なんとも居心地の悪い感触を引き出しているのだ。黒っぽく焼きすぎたプリントや、父親の写真だけを他のものとは切り離して並べた会場構成など、これでいいのかと思うこともないわけではないが、こういう試みはやってみないと何が出てくるかわからない。やりきった清々しさを感じることができた。
2010/06/04(金)(飯沢耕太郎)