2019年12月01日号
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artscapeレビュー

Thought in Japan──700通のエアメール「瀬底恒が結んだ世界と日本」

2012年02月01日号

会期:2011/11/11~2012/01/19

ギャラリーA4[東京都]

企業PR誌制作のさきがけ、コスモ・ピーアールで長年にわたり編集者として活躍した瀬底恒(せそこつね、1922~2008)の人と仕事を紹介する。展覧会は、瀬底恒とコスモ・ピーアールにおける仕事のクロノロジー、母親の万亀と交わした700通に上る書簡、瀬底が留学時代に再発見したグリーン兄弟によるカリフォルニアのジャポニズム建築、そして写真家・石元泰博によるグリーン兄弟の建築作品の写真から構成される。
 瀬底恒は戦後間もない1952年に米国に留学。戦前には、母親の親類である柳宗悦を頼り、二年ほど日本民藝館に勤めている。そのため、1952年12月に柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチがアメリカ講演を行なった際に同行したり、1956年のアスペン国際デザイン会議で柳宗理がスピーチをした際の通訳、また帰国直前の1959年6月には棟方志功の講演の通訳を勤めている。当時忘れられていた建築家グリーン兄弟(Charles Sumner Greene & Henry Mather Greene)の作品に着目し、日本への紹介も行なっている。1959年9月に帰国後は、1960年に東京で開催された世界デザイン会議の事務局次長として外国人デザイナー、建築家たちとの交渉に当たったという。そして1961年、留学時代の友人であった佐藤啓一郎・松田妙子夫妻が創業したPR会社、コスモ・ピーアールに入社、1996年に退社するまで、日本企業の海外向けPR誌の編集に携わった。写真家ユージン・スミスを招いて日立製作所の現場を撮影させたり、海外のデザイン・建築の思潮を日本に紹介する仕事もしている。また、企業広報誌を通じては、ただその企業を紹介するばかりではなく、田中一光ら著名なデザイナーや写真家と協働し、日本の文化を海外へ向けて発信し続けてきた。展覧会場のある竹中工務店とは企業誌『approach』(1964年創刊)を通じての関わりである。
 瀬底恒がどれほど多くの人々、それも一流の人々と仕事をしてきたのか。瀬底恒82歳のときに刊行されたメッセージ集『瀬底恒を巡る100人のボーイフレンド・ガールフレンド』(非売品、2004年2月)の制作発起人には石元泰博、川添登、三宅一生、柳宗理らが名をつらね、誰もが名を知る建築家、デザイナー、写真家、ジャーナリスト、クライアントたちが彼女との思い出を証言している。その副題「戦後日本のデザイン界を支えた瀬底恒さん」は少しも誇張ではない。彼女がコーディネーターとして果たした役割は、勝見勝や川添登と同様に、戦後日本の建築史・デザイン史におけるキーといえるにもかかわらず、本人が裏方に徹して批評活動など行なわなかったこともあり、本当に情報が少ないのが残念である。彼女は自分の仕事を「団子の串」と例えたそうであるが、人と人、人と場、人と仕事とを結びつける存在の重要性に、もっとスポットライトを当てていかなければいけないのかもしれない。[新川徳彦]

2012/01/19(木)(SYNK)

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