artscapeレビュー
紙カンパニーproject『悪霊』
2020年08月01日号
会期:2020/06/13~2020/06/14
無人(島)プロダクション[東京都]
紙カンパニーprojectという団体がドストエフスキーの『悪霊』を上演していたことを知ったのはその公演期間が終わったあとだった。Twitterで見かけた知人の感想に興味を惹かれ、今回の公演を見逃したことを残念に思いつつ、次回は見逃すまいと紙カンパニーprojectのTwitterアカウントをフォローした。その後に公開された舞台写真やティーザーも次回公演への期待を高めるのに十分な役割を果たした。『悪霊』が実際には上演されていなかったことを私が知るのはそれからおよそ1カ月後のことになる。
紙カンパニーprojectは「実際にはやっていない演劇公演の周辺情報の偽造」を「事業内容」とするプロジェクト。「やってもいない公演と、やりはしたが観られないままもう終わってしまった公演はアーカイブだけ見比べたら同じことになってしまうのかそうでもないのか」という問いを掲げ「作品をロックダウンし、中身を想像する状況を作り出すことで新しい舞台鑑賞の形態を探り出す」ことを基本方針としている。
急いで付け加えておくならば、このような「事業内容」はあらかじめ公式サイトのトップページに記されていた。つまり、本当に公演が行なわれたのだと誤認させることはこのプロジェクトの第一義ではない。私の勘違いは、すでに公演が終わったものと詳細を確認しなかったために生じたものだ。
基本方針に含まれる「ロックダウン」という言葉が示唆するように、紙カンパニーprojectはコロナ禍における舞台芸術のあり方を考えるなかから生まれてきたものだろう。だが、コロナ禍でなくとも、それを劇場で見ることが叶わなかった観客にとって、ある公演の「実在」は周辺情報によって間接的に保証されるものでしかない。
この数カ月、無観客の劇場で舞台を上演し、その映像を配信する試みがいくつも行なわれてきた。では、映像さえあればその舞台の「実在」は保証されるだろうか。だが、映画で使われるCGの精度はいまや現実と見分けのつかないレベルに達している。現実世界においてさえ、「ディープフェイク」と呼ばれる高度なCG技術を用いたフェイクニュースが登場してきている。もはや映像は「実在」の保証とはなりがたい。
いや、高度なCG技術などなくとも、断片的で不確かな情報が拡散することでも「不在の中心」は簡単に「実体」をまとう。『悪霊』が実際に上演されたものと私が思い込んでしまったのもTwitterのタイムラインに並んだいくつかの情報だけを見ていたからだった。紙カンパニーprojectのTwitterアカウントに「事業内容」の記載はなく、その意味では私の「誤認」もプロジェクトメンバーの目論見のうちだろう。
『悪霊』は「架空の政治団体の代表を名乗る男が、自ら組織した秘密結社の中で引き起こした」実際の事件を元に書かれた小説なのだという。フィクションが現実に働きかけ、その現実が新たなフィクションを生むこと。
紙カンパニーprojectのTwitterアカウントには長谷川厄之助なる人物による新聞評までアップされている。「空っぽの中心の周囲で、登場人物たちが汗をかきながら狂奔する様を見ていると、ないはずの中心からなんとも言えない不思議な色気が匂いたってくる」。それは『悪霊』への評であると同時に、紙カンパニーprojectの活動そのものへの評でもある。評は「色気の正体は、ただの虚空であることを私たちは改めて認識すべきなのだ」と締められる。だがもちろん、演劇とはそういうものなのだ。
演劇を「そこにはないものをある/いることにする」営みだとするならば、紙カンパニーprojectの企みは、『悪霊』が上演されていなかったとしても/だからこそ、十分に演劇の要件を満たしている。それが上演などされていないことを知りながらTwitterに『悪霊』の感想を書き込んでいた私の知人たちも「俳優」として自主的に観客の役割を演じていたのだ。では私は?
『悪霊』が実際に上演され(それを見逃し)たと思い込んでいた私にとって、『悪霊』の公演は現実以外の何物でもなかった。『悪霊』の上演を見逃した(と思い込んでいた)私は「実在しない公演を実在したことにする」という紙カンパニーprojectの本来の「上演」もまた見逃していた。私は二重の意味で「観客」たり得なかったというわけだ。
公式サイト:https://kamicompanyproject.tumblr.com/
『悪霊』の記録(完全版):https://kami-akuryo.tumblr.com/
2020/07/28(火)(山﨑健太)