artscapeレビュー

2013年05月01日号のレビュー/プレビュー

添田唖蝉坊・知道展 明治・大正のストリート・シンガー

会期:2013/03/02~2013/04/14

神奈川近代文学館[神奈川県]

明治・大正時代の演歌師、添田唖蝉坊と、その息子、知道についての展覧会。遺族から同館に寄贈された「添田唖蝉坊・知道文庫」の貴重な資料をもとに展示が構成された。
「演歌師」とは、現在のような大衆音楽としての演歌の歌手ではなく、路上で歌を唄いながら演説する者のこと。自由民権運動の活動家たちが政府の弾圧を回避するために歌を装って政治的な主張を伝えた「壮士節」をもとに、唖蝉坊が開発し、知道が育んだ。だから、彼ら父子を「ストリート・シンガー」と言えなくもないが、そうだとしても、彼らが歌い上げていたのは政治的社会的な主張の強いメッセージ・ソングだった。
事実、唖蝉坊は幸徳秋水や堺利彦、荒畑寒村といった活動家と親交があり、知道も16歳にして売文社に雑用係として勤務していたという。唖蝉坊は日露戦争までは好戦的な歌もつくっていたようだが、「演歌」とは基本的には明治の自由民権運動の只中から生まれた表現なのだ。
しかし、だからといって唖蝉坊の演歌は、政治的な反逆や抵抗を強調する反面、音楽的な魅力に乏しい歌というわけではない。もともと壮士節は歌詞を重視するあまり旋律はおしなべて単調であり、その歌もダミ声でがなり立てる者が多かったという。ところが、会場で流されていた音源に耳を傾けてみると、その楽曲はむしろ柔らかく、軽やかな三味線の伴奏に合わせて小気味よく唄い上げている。明治と大正にかけて大衆のあいだで大流行したというのも、なんとなく頷ける。というのも、思わず口ずさみたくなるからだ。
例えば、1907年に発表された《ああわからない》。メロディラインを再現することは叶わないが、その歌詞を一瞥しただけでも、唖蝉坊の楽曲の柔和性が伝わるはずだ。

ああわからないわからない
今の浮世はわからない
文明開化といふけれど
表面(うわべ)ばかりじゃわからない
瓦斯や電気は立派でも
蒸汽の力は便利でも
メッキ細工か天ぷらか
見かけ倒しの夏玉子
人は不景気々々々と
泣き言ばかり繰返し
年が年中火の車
廻してゐるのがわからない

いたって日常的な言葉で綴られた歌詞を軽やかな旋律に載せて届けること。そのような唖蝉坊の「演歌」は、その後知道に受け継がれ、展示で触れていたように、土取利行をはじめとする弟子たち、さらに高田渡やなぎら健壱、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットらが引き受けた。あるいは、歌によって演説を偽装するという点で言えば、馬鹿馬鹿しくも楽しい活動によって従来の硬直した政治運動を柔らかく再構築している「素人の乱」の歴史的な起源のひとつとして唖蝉坊を位置づけることもできなくはない。
ただその一方で、見逃すことができないのは、唖蝉坊の演歌そのもののなかに時間を超えた批評性があるということだ。先に挙げた《ああわからない》の歌詞を今一度読み返してみれば、そこに3.11以後の日本人が重なって見えないだろうか。見かけ倒しの安全性を疑いもせずに安穏としていたことを一度後悔しながらも、そのことをいとも簡単に忘れてしまい、原発という火の車を再び回転させようとしている日本人は、まさしく「ああ、わからない!」。

2013/04/12(金)(福住廉)

Under35

会期:2013/03/22~2013/04/14

BankART Studio NYK[神奈川県]

35歳以下の若手アーティストを対象としたBankART 1929の恒例企画。3回目となる今回の特徴は、アーティストとギャラリーないしはマネージャーをひとつのチームとみなして公募したこと。そうして選出された6組が、同一会場で同時に個展を催した。
際立っていたのは、丸山純子+大友恵理と幸田千依+橋本誠。両アーティストは共に他に類例を見ない作風をすでに確立しているが、今回の個展ではそれをそれぞれ着実に深化させていることを証明した。
丸山は、これまでスーパーの袋でつくった花でインスタレーションを構成したり、洗濯用の粉石けんで大地に巨大な花の絵を描いたり、ダイナミックな形式によって繊細な感性を巧みに造形化してきたが、今回もその手腕は存分に発揮されていた。コンクリートがむき出しの空間にあったのは、二艘の木造船。床には、粉石けんで描かれた無数の花が描かれているから、白い花の海を舟が漂っているようにも見える。あるいは、二艘の舟はともに会場の外にある海に向けられていたから、白い砂浜で出航を待っているのかもしれない。廃材を組み合わせた舟が醸し出す寂寥感と、誰かに踏まれてかたちを崩した花から滲み出る無常感が、広大な展示空間のなかに充満しており、私たちの詩的な想像力に強く働きかけてきたのである。
一方、幸田千依が主に描いているのは、夏のプール。これまでの代表作を滞在制作した場所ごとにまとめて展示するとともに、新作を展示場所で制作し発表した。俯瞰で描かれたプールの中には、子どもたちが水遊びに興じているが、一人ひとりの顔の表情までは細かく描写しているわけではない。にもかかわらず、あの時あの場の高揚感がひしひしと伝わってくるのは、鮮やかな青色を塗り分けた水面に描かれるさまざまな波紋が、あの熱気を代弁しているように見えるからだろう。同心円状にきれいに広がる波紋があれば、直線状に尾を引く波紋もある。それらが互いに交錯し、新たな波紋を生みながら、全体的には大きなうねりを見せている。複雑に揺れ動く波紋そのものが、すべてを物語っているように感じられた。

2013/04/12(金)(福住廉)

遠藤一郎公開ライブペイント(「遠藤一郎 展──ART for LIVE 生命の道」)

会期:2013/03/03~2013/04/14

原爆の図丸木美術館[東京都]

遠藤一郎のライヴ・ペインティングは、ともかくミニマル。そして、あえていえば「レディ・メイド」的だ。原爆の図丸木美術館の部屋一面に白い紙を敷き、遠藤は容器から明るいピンクのアクリル絵の具を取り出すと、何色も混ぜることなく、そのまま床に塗り始めた。ピンクが終わり、今度は黒。紙の真ん中に円を描き、塗りつぶす。次は黄色を取り出し、やはりどんな色も混ぜずに、ピンクが地面なら、空に相当しそうな面を黄色くした。パフォーマンスは淡々と進む。特徴的なのは、遠藤が終始「はっ、はっ、」と息を漏らしながらペイントしていることで、必要以上の緊張なり、集中なり、興奮なりが彼のなかで渦を巻いている、そう思わされる。大袈裟ともとれる息づかいとは対照的に、紙の上で展開されているものはとてもシンプルで、なんと形容しよう、ただただ「ぽかーん」としているのだ。そこに、巨大な赤い文字で、紙の左側に「泣」が、右側に「笑」が書き込まれた。これまたシンプル、ニュアンスや含意をほとんどまったく与えないただの2文字だ。遠藤はいつも、まるでマルセル・デュシャンがそうであるように、デフォルメを施さないままの、他人の手垢がべったりついた既成のものを用いる。作家の審美的個性はそれによって極限まで抑えられている。「泣」と1文字書いた途端に「く」と「な」が続く?と予想したのだが、そうした東日本大震災にまつわる類の連想を裏切り、より大きなスケールのイメージが「笑」の文字によってあらわれて、驚いた。これは人間をきわめて遠くの視点から俯瞰して見ている者の言葉だと思った。なるほど、遠藤の最近の活動に、日本列島をキャンバスに「ARIGATO」や「いっせーのーせ」の文字を書くというものがあるが、Googleを使ったあれも、宇宙からというきわめて遠くの視点から見た地球に映る文字である。彼のパフォーマンスというのは、書道家の実演パフォーマンスや、大道芸の脇で似顔絵を描く行為などと同類だと思われがちかもしれない。けれども、どこか決定的に違っていて、やはり「アート」という呼称でもあてがうほかないところがある。とはいえそれは、既存の前衛芸術系のパフォーマンスのあれやこれやともやはり相当に異なる。生命を描写するに相応しい遠藤の熱意(「はっ、はっ、」)がまずあって、その熱意がパフォーマンスの場を通過したその証しとして、なんともいえない「ぽかーん」とした空虚な痕跡を残す。その淋しいような、孤独なような、明るい色が多いのになんだか暗いその闇夜のような手触り。これこそ、遠藤一郎らしいなにかのように思うのだ。

2013/04/13(土)(木村覚)

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超・大河原邦男 展──レジェンド・オブ・メカデザイン

会期:2013/03/23~2013/05/19

兵庫県立美術館[兵庫県]

メカニカルデザイナー、大河原邦男の原画などを集めた展覧会。メカニカルデザイン(通称メカデザイン)とは、主にアニメーション作品に登場するロボットや宇宙船などの機械デザインのこと。大河原は日本でメカデザインの仕事を確立させた人物とされる。1972年放送の『科学忍者隊ガッチャマン』でロボットなどのデザインを担当して以来、40年以上にわたって日本のメカデザイン界を牽引してきた。展示は設定資料や原画約400点が時間軸に沿って七つコーナーで構成されている。会場には家族連れやアニメファンが多く訪れており、懐かしさや、各々の思い出を楽しんでいた。[金相美]

2013/04/14(日)(SYNK)

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奇跡のクラーク・コレクション

会期:2013/02/09~2013/05/26

三菱一号館美術館[東京都]

クラーク美術館の所蔵作品から、印象派を中心とするフランス絵画を紹介する展覧会である。ルノワール22点、コロー、ミレー、マネ、ピサロ、モネなど、合計73点で、そのうち59点が初来日だという。
 アメリカ、マサチューセッツ州ウィリアムズタウンに1955年に開館したクラーク美術館(Sterling and Francine Clark Art Institute、通称The Clark)では2010年から増改築工事(安藤忠雄設計)が行なわれており、2011年からコレクションの海外巡回展が始まった。そのコレクションはこれまでまとまったかたちで海外で展示されることはなかったといい、コレクションの質の高さと合わせてタイトルに「奇跡の」と冠されている所以である。
 コレクションの主は、スターリング・クラーク(1877-1956)。スターリングの祖父エドワード・クラーク(1811-1882)は、法律を専門とする弁護士であった。19世紀半ばにミシン製造の特許紛争に関連して、アイザック・メリット・シンガーの法律顧問となったエドワードは、1851年にシンガーとともにI・M・シンガー社の共同創立者となった。I・M・シンガー社は優れた経営でたちまち世界最大のミシン・メーカーになったが、エドワードは家庭用ミシンに月賦販売を導入するなど、マーケティング面でその発展に大きく寄与した。また、1870年代からは息子のアルフレッドとともに盛んに不動産投資を行ない、マンハッタンにもたくさんの土地と建物を所有していた。ジョン・レノンが住んでいたThe Dakotaもそのひとつである。エドワードの4人の孫がその遺産を受け継いでおり、次男であるスターリングのほか、四男スティーヴン(1882-1960)も絵画蒐集家として知られている。
 1910年にパリに渡ったスターリングは、舞台女優フランシーヌ・クラリー(1876-1960)と恋に落ち、そのころからアパルトマンを飾るためにふたりで絵画の蒐集を開始したという。ふたりが結婚したのは、第一次世界大戦直後の1919年。彼らの蒐集品は、ルネサンス期のオールドマスター作品から近代までのヨーロッパ絵画。陶磁器、銀器、素描、彫刻など多岐にわたり、第二次大戦直後にはその数は500点に上った。最初に購入したルノワール作品は《かぎ針編みをする少女》(1875年頃、1916年購入)である。クラーク家がミシンで財をなしたことと、フランシーヌの母親がお針子であったことは、この絵の選択に影響したであろうか。彼らはその後30点に上るルノワール作品を購入している。第二次世界大戦前から美術館の設立を構想していたクラーク夫妻は、戦後その場所をウィリアムズタウンに決め、2年の歳月をかけて1955年に美術館が開館した。専門家・批評家の意見は参考にせず、自らの趣味、鑑識眼に従って選んだという作品の数々は、ふたりの邸宅を飾るに相応しく、明るく華やかな作品が多く、何よりも見る者を幸せな気持ちにさせてくれる。[新川徳彦]

2013/04/16(火)(SYNK)

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2013年05月01日号の
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