artscapeレビュー
2016年07月15日号のレビュー/プレビュー
ズートピア
PC(ポリティカル・コレクトネス)を踏まえて、種の多様性と共存を謳う理想都市の現実と希望を描いた映画だ。物語は、ウサギとキツネのバディによる連続失踪事件と陰謀の捜査を通じて、最後までぐいぐい引っ張っていく。いまだからこそ世界に問うべき、ヘイトと差別が扇動される人間社会の明らかな寓話だが、それを省いたとしても、アニメでしか表現できない動物世界の実在感が魅力的である。
2016/06/01(水)(五十嵐太郎)
デッドプール
自ら「スーパー」だけど「ヒーロー」じゃないというマーベルのシリーズでも格段にしょうもないギャグや下ネタ連発のキャラが主人公である。もっとも彼は幸福の絶頂で病にかかるという悲しい運命を経験し、醜くなった容姿のコンプレックスをもつ。CGでなんでもできる現在、もうアクション・シーンで驚くことが少なくなっただけに、観客に語りかけ、過去の映画もネタにする狂言回し的ふるまいが新鮮だった。
2016/06/01(水)(五十嵐太郎)
ちはやふる 上の句/ちはやふる 下の句
小泉徳宏監督『ちはやふる 上の句』。広瀬すずが走るだけで、いまの彼女しか発しないオーラを生むが、他の俳優陣もその人にしかない個性と役割を発揮し、素晴らしいアンサンブルを奏でている。その団体戦こそが映画のテーマでもあるのだが。競技かるたのスピード感のある対決を映画的にカッコよく描いた手腕も見事だ。立て続けに、『ちはやふる 下の句』を見る。作品のトーンはだいぶ変わり、それぞれがなぜかるたをするのかを自問し、いったんはチームがバラバラになるが、最後は個人戦もつながりが大事なのだと気いて成長する。両作品が相互に補完する関係をもつ。後編から新しく登場した個人主義を貫く若宮詩暢役の松岡茉優が圧倒的な存在感だった。この映画は、表情の変化と手の動きで多くのことを伝えている。
2016/06/01(水)(五十嵐太郎)
須崎祐次「Hole of Human」
会期:2016/05/13~2016/06/11
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
須崎祐次の個展「Hole of Human」を見て、あらためて写真展示における「パレルゴン」(額縁、マット、台紙、ピンなど)の意味について考えた。画像そのものを本質として考えれば、それらは余分な装飾的な要素にすぎない。写真の純粋性を究めるならば、なるべくシンプルでミニマムな展示のあり方がいいという考え方もあるだろう。だが、今回の須崎の作品でいえば、古いゴシック的な額縁を使ったり、画像の上に穴がたくさんあいたプラスチック板を重ねたりといった「パレルゴン」的な操作は、写真の内容と分ちがたく結びついており、一体化して、面白い視覚的な効果を生じさせている。凝りに凝った「コスプレ」のマスクや衣装(自分でデザインして特注したもの)を身につけた女性たちの身体の一部を、複数の穴から覗けるようになっているのだが、その仕掛けが無理なく、効果的に働いているのだ。
須崎は日本大学芸術学部写真学科卒業後、1988~92年にニューヨークで写真家として活動した。帰国後、92年に写真「ひとつぼ展」の前身にあたる、ガーディアン・ガーデンのコンペでグランプリを受賞して注目されるが、その後は模索の時期が続いていた。だが、前回のEMON PHOTO GALLERYでの個展「COSPLAY」(2013)のあたりから、自分のこだわりを形にしていく技術力の高さと、研ぎ澄まされたフェティッシュな嗜好とがうまく合体して、独自の写真の世界が生み出されつつある。視覚的なエンターテインメントとしてのレベルの高さも感じるので、日本の「コスプレ」文化に関心が深い、海外での本格的な展示も期待できそうだ。
2016/06/02(木)(飯沢耕太郎)
生きるアート 折元立身
会期:2016/04/29~2016/07/03
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
1980年代から新作まで、270点以上の作品を二つの企画展示室を使って一堂に会した折元立身展。彼のパフォーマー、アーティストとしての軌跡を総ざらいする、圧倒的な迫力の展示だった。
1990年代の代表作である「パン人間」、今年97歳になるという母親との介護の日々を、数々のアート・パフォーマンスとして展開した「アート・ママ」、その発展形といえる「500人のおばあさんとの昼食」(ポルトガル/アレンテージョ・トリエンナーレ、2014)をはじめとする食事のパフォーマンス、日々描き続けられている膨大な量のドローイング、「子ブタを背負う」(2012)など、ユニークな「アニマル・アート」──どの作品にも、生とアートとを直接結びつけようという強い意志がみなぎっており、彼のポジティブなエネルギーの噴出を受け止めることができた。
折元はごく初期から、写真や映像を使ってパフォーマンスを記録し続けてきた。一過性のパフォーマンスをアートとして定着、伝達していくための、不可欠な手段だったのだろう。だがそれ以上に、写真や映像を撮影すること自体が、アーティストとパフォーマンスの参加者とのあいだのコミュニケーションのツールとして、重要な役目を果たしていることに気がつく。カメラを向けられることで、その場に「参加している」という高揚感、一体感が生じてくるからだ。写真や映像を記録のメディアとして使いこなすことで、彼のパフォーマンスは秘儀的な、閉じられた時空間に封じ込められることなく、より風通しのよいオープンなものになっている。写真作品としての高度な完成度を求めるよりも、パフォーマンスの正確な記録に徹することで、はじめて見えてくるものがあるのではないだろうか。現代美術家の「写真使用法」の、ひとつの可能性がそこにあらわれている。
2016/06/03(金)(飯沢耕太郎)