artscapeレビュー

2016年07月15日号のレビュー/プレビュー

ヨシダミナコ「普通の日々」

会期:2016/06/01~2016/06/12

galleryMain[京都府]

2名の写真家がギャラリー空間を分割共有し、共通のテーマの下でダブル個展を行なう連続企画展。第一弾では、「私性」をテーマに、ヨシダミナコとキリコの個展がそれぞれ開催された。
ヨシダミナコの個展「普通の日々」は、制作に打ち込む画家の夫との生活の中で、焦燥感を抱えながらも自身の制作活動を止めていた写真家が、約9年振りに発表した個展。「彼」との9年間の生活で、身の回りの情景を日常的に撮りためたスナップが、2種類の展示形態で発表されている。ギャラリーの壁には、セレクトされた数十枚のプリントが、モチーフの色彩や形態がリズミカルな連鎖を生み出すように再配置され、現実の時系列とは別の、視覚的なシークエンスを心地よく生み出している。例えば、ジャガイモの表面の淡い黄色は、絵本を写した隣の写真の黄色やオレンジ色と響き合い、その黄やオレンジで描かれた丘陵の波形は、さらに隣に置かれた、揺らぐカーテンの波形と呼応する。穏やかで軽やかな視覚の波に身をゆだねる心地よさが、ここにはある。
一方、9年間分の全ての写真は、時系列順に一枚ずつファイリングされ、分厚い日めくりカレンダーをめくるように、手でめくって見ることができる。合計1260枚にのぼる、物質的厚みに置換された時間の束。「彼」と暮らす日々について綴った写真家のステートメントは、ある意味ラブレターのようだが、奇妙なことに(あるいは期待に反して)、写真には「彼」の姿はほとんど写り込まず、「彼」との関係の変化や感情の揺らぎといった私的な物語は画面から排除されている。むしろ、膨大な写真の束から見えてくるのは、写真家の眼差しの変質である。毎日の食卓や草花、手書きの手紙、「彼」のアトリエの一隅など、息苦しいほど室内の事物に向けられていた眼差しが、後半、アイスランド滞在を契機として積極的に「外」へと向かい、空間的な広がりを獲得していくのだ。そして、それらの合間あいまに差し挟まれる「お誕生日ケーキ」の写真が、律儀な年輪のように、新しい年の開始を告げていく。その撮影行為は、「誕生日」を共に祝ってくれる人が、今年も傍にいることを確認する儀式のようでもある。「長い間、わたしは真っ暗なトンネルの中にいた」と綴るヨシダが獲得した新たな視線が、この先どこに向かうかが楽しみだ。

2016/06/11(土)(高嶋慈)

記述の技術 Art of Description

会期:2016/05/21~2016/06/12

ARTZONE[京都府]

ドキュメンタリーは、「記録すること」の使命と、カメラの客観性・透明性への疑義のはざまで揺れながら、自らのアイデンティティの問い直しに直面している。リサーチ、アーカイブの援用、オーラル・ヒストリーといった手法を織り交ぜながら、ドキュメンタリーの可能性を批評的に探究する態度は、いま、ひとつの潮流をなしている。本展は、そうした態度を共有する作家3名(組)(小森はるか+瀬尾夏美、佐々木友輔、髙橋耕平)を紹介する企画。彼らは、ドローイングや楽譜、文学作品などさまざまな記録媒体を映像と組み合わせ、時にフィクションを混在させる手法によって、「ドキュメンタリー」の揺らぐ界面を出現させるとともに、それ自体揺らぎの中にある記憶のありようへと接近を試みている。それは、生きた記録媒体としての身体が持つ「声と語り」の力によって、土地の記憶を再び召喚し、忘却に抗う抵抗となるとともに、非当事者性をどう引き受けるかという問いを考えることであり、被写体への窃視的な視線、支配や搾取の構造、単一のメッセージへの奉仕、フレーミングや編集の虚構性に対する批判でもある。


そのような「記述の技術」の新たな開発へ向けての道筋を、ここでは、「語る身体・声」からの乖離のグラデーションとしてたどってみたい。髙橋耕平の《となえたてまつる》(2015)は、三重県伊賀市島ヶ原にある観菩提寺に伝わる御詠歌「松風」を継承する村人たちを取材した映像作品。御詠歌は、本尊の秘仏が33年に一度、御開帳される際に唄われるもので、映像の前にはその譜面が並べられている。映像は、御詠歌について語る高齢の女性3名へのインタビューという体裁を、とりあえずは保持している。過疎の村では、御詠歌を唄える村人が減っていること、自分たちも先代の住職の妻に教わったこと。彼女たちはやがて、前回(33年前)と前々回(66年前)の御開帳時の思い出話に花を咲かせていく……。


髙橋耕平《となえたてまつる》 2015
テキスト(楽譜)、他、HD video(23分59秒)


だが彼女たちの語りは、無音の別カットの挿入によって、繰り返し中断させられる。33年前に撮られた集合写真が静止画として挿入され、今回の御開帳に向けての歌の継承稽古の様子が(ただし「無音」で)何度も挿入される。過去と現在の時空の往還。しかし、映像に対峙する私たちは、まだ「御詠歌」を音声的には体験していない。それは、老婦人たちがとりとめなく語る思い出話に耳を傾けながら、かつての継承時に起きた出来事の記憶を共有する時間を過ごしたのちに、初めて「音声」として姿を現わすのだ。映像の最後でやっと、稽古場面は有声になり、ぎこちなくも真剣な声の唱和に混じって、清澄な鈴の音が響いていく。髙橋の映像作品は、「編集」の作為性を顕在化させることによって、反復構造と分断・空白という、33年ごとに繰り返される御詠歌の継承を構造的に身に帯びている。それはまた、記憶の反芻と忘却のプロセスそれ自体の謂いであるとともに、口承によって世代から世代へと記憶が受け渡される、共同体の存続のありようを追体験させるものでもある。


一方、映像作家と画家・作家のユニットである小森はるか+瀬尾夏美がとる手法は、「当事者が語った記憶を文字に書き起こし、本人の声で語り直す(小森+瀬尾)/ドローイングとともに詩的なテクストとして再構成する(瀬尾)」という間接的なものである。とりわけ、2人の共同制作と言える映像作品においては、瀬尾が聞き役となって聞き取りを行ない、その様子を小森が撮影し、語られた内容を瀬尾が書き起こして再構成し、被写体となった人物自身に語り直してもらい、その声を映像に重ねるという手法が採られている。それは、被写体との共同作業であるとともに、「声を一方的に簒奪しない」という態度表明でもある。


小森はるか+瀬尾夏美《波のした、土のうえ》 2014
絵、ドローイング、テキスト、写真、映像(計68分)

小森と瀬尾は、東日本大震災以後、陸前高田に移住し、被災地に住む人々から聞き取った「声」を、映像やドローイング・文章というかたちで記録/記述してきた。本展では、沿岸部と山あいの村、それぞれの場所で終戦を迎えた高齢者たちの記憶を聞き取って再構成した《遠い火|山の終戦》(2016)を出品している。軍国少女だった自分と母親との確執。掘り出した石灰をトロッコで運ぶ、勤労奉仕。山奥の村から兵士を送り出す線路は、はるか遠くの海まで続いている。遠い南洋の海から帰還した兄が持ち帰った、お土産のバナナ。空想の中で海に浸かったそれは、塩辛い味がした。色鮮やかで詩的なドローイングと並置された瀬尾のテクストは、固有名詞を取り去って抽象化され、創作も交えた一人称の寓話的な物語として語られることで、想像力が入り込む間口を広げる「余白」を生み出している。一方、小森のカメラが捉えるのは、語られた場所の「現在の姿」である。その中に立つ、語り手たちと聞き手役の瀬尾の姿。両者が見ているのは、同じだが異なる風景だ。小森と瀬尾の作品は、内にいくつもの記憶の視差を抱え込んでいる。彼女たちの試みは、そうした困難を引き受けながら、自らが体験していない他者の記憶をどう内在化させ、身体化された記述として語り直せるかという問いへ向けられている。


また、佐々木友輔の作品《土瀝青asphalt / infinite loop 2》(2013/2016)では、手持ちカメラで撮られた揺れ動く映像の中で、語る声と映像は分離し、両者の接着面は揺れ動き続けている。約2時間にわたり、歩行の揺れを刻みながらカメラが捉えるのは、匿名的な郊外の風景であり、1910年に長塚節が執筆したリアリズム小説『土』を女性が朗読する声が、淡々とかぶさっていく。長塚の『土』は、茨城県の寒村に住む貧農一家の生活を克明に描いたもので、佐々木はその舞台となった土地を、徒歩や自転車で移動しながら手持ちカメラで捉えていく。映像(現在)と音声(過去)の遊離と多重化。ここで前景化するのは、語り手の身体ではなく、むしろあてどなく歩行する撮影者の身体である。酔いを覚えさせるその振動は、「カメラという装置と撮影者の身体」という物理的存在を絶えず顕在化させるとともに、しばしば映し出される「足元のショット」が、農民の耕す「土」(過去)/アスファルトで均質に舗装された道路(現在)という対比へと導く。


佐々木友輔《土瀝青asphalt》 2013
DV(186分)

ただし、映像と音声がふと共振を見せる瞬間もある。危うげに揺れるカメラが映し出す、郊外の大型ショッピングモール。朗読する声は、「小作農」が商品経済の構造の中で常に搾取される立場にあることを告げる。同時に映し出されるスマホの画面上では、ツイッターのタイムラインに表示された「長塚節bot」の呟きが流れていく。断片化された小説の一文は、「呟き」という一時的な存在にすぎず、生産されると同時にたちまち情報の海の中で消費されていくのだ。本作は、「郊外」という周縁化された土地をめぐって、映像/音声、土/アスファルト、過去/現在の乖離の中に、「消費と搾取の構造」という近代の根深い問題を照らし出していた。

2016/06/11(土)(高嶋慈)

竹中工務店400年の夢 ─時をきざむ建築の文化史─

会期:2016/04/23~2016/06/19

世田谷美術館[東京都]

近世の社寺建築から近現代の仕事までを一気に紹介する好企画である。やはり、国立劇場や二国のコンペに勝利したことは大きな扱いになっていた。図面や模型、1964年に創刊した竹中の季刊誌『approach』の全バックナンバーのほか、竣工当時のパンフ、美術館らしく建物と関連する絵画作品も含む、濃密な内容が楽しめる。が、詰め込みすぎになった展示デザインはやや粗い。また最後のメディアアート風のインスタレーションは全然いただけない。

2016/06/11(日)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00034965.json s 10125438

大石茉莉香個展 (((((事実のゲシュタルト崩壊))))))

会期:2016/06/07~2016/06/12

KUNST ARZT[京都府]

大石茉莉香はこれまで、崩壊する世界貿易センタービルや市街地を飲み込む津波など、メディアを通して大量に複製・流通した報道写真を極端に引き延ばし、銀色のペンキでドットを描いて覆うなど画像に物理的に介入することで、それらがドットやセルの集積でできた皮膜にすぎないことを露呈させ、不透明な物質性へと還元する絵画制作を行なってきた。本個展では、原爆のキノコ雲の写真を壁いっぱいに拡大してプリントし、オブラートで覆って、塩酸を塗りつけて溶かしていくライブペインティングが行なわれた。防護服とマスクを身に付けて臨む、危険な作業である。
塩酸によって溶けたオブラートは、ただれた膜となって表面にへばりつき、黒いインクも溶けて剥がれ落ち、紙の地色の「白」がところどころ露出している。その様は、熱線によって焼けただれた皮膚を想起させる(塩酸は、皮膚にかかると火傷の症状を引き起こす)とともに、それらが「インクの物質的な層がのった脆弱な表面にすぎない」という端的な事実をあっけらかんと露呈させている。痛ましい連想と、感情を挟む余地のない事実のあいだで、見る者は引き裂かれる。また、オブラートという素材の使用も示唆的だ。「オブラートに包む」という言い回しは、事実の婉曲的な表現、さらには情報の隠蔽や統制を連想させる。原爆投下の事実を当時の日本政府や軍部が隠蔽していたこと、そして3.11の原発事故においても情報の非公開があったこと。同様の構造の反復へと連想は広がっていく。大石は、原爆を投下した側からの特権的な視点でありつつ、既に私たちが慣れ親しみ、広く流通した「原爆のキノコ雲」という写真的経験を、文字通り溶解させ、不気味で「触れられないもの」へと再び変貌させることで、メディアに流通する映像の視覚的経験とは何かを問うている。
一方、何も描かれていない白いキャンバスをオブラートで覆い、同様に塩酸で溶かした作品は、戦後美術の反絵画的な試みを想起させ、美術史的な文脈への接続としても解釈できる。そこでは、炎で表面を焦がす、穴を開ける、切り裂く、破るなど、「絵画」という権威的・保守的な制度に対する攻撃が、キャンバスという物理的身体に直接的に加えられる暴力として顕現していた。大石によって溶かされた白いキャンバスは、そうした生々しい暴力性を増幅して見せるとともに、溶けて固まった透明なしずくがキラキラと光を反射する様は、「白」という単色の色彩とあいまって、審美的な静謐さを差し出してもいた。


会場風景

2016/06/12(日)(高嶋慈)

したため#4『文字移植』

会期:2016/06/10~2016/06/13

アトリエ劇研[京都府]

スゥーッと息を吸い込む音が、暗闇に響く。肺に息を吹き込む、発語の準備。闇の中から、口々に声が響いてくる。一つひとつの単語は日本語でありながら、順序の整合性を欠き、分裂した文章として差し出される。「において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての……」。本公演は、ドイツを拠点に、日本語とドイツ語の両方で執筆活動を行なう作家・多和田葉子の初期作品『文字移植』(1993、『アルファベットの傷口』より改題)を、「演劇」として俳優の発話する身体に「移植」する試みである。

多和田の『文字移植』の特異な点は、ある小説を「翻訳」するために、カナリア諸島の島に滞在した翻訳家(「わたし」)の視点から綴られる文章に、「翻訳」中の文章がたびたび挿入されるという二重構造である。かつ、「翻訳」中の文章は、原文のドイツ語の語順のまま、読点で区切って並べられ、日本語の安定した文法構造をかき乱す(一方、「わたし」視点の地の文には読点がいっさいないというねじれや圧迫感を抱えている)。「翻訳」という行為がはらむ力学や摩擦は、身体的な違和感となって翻訳する「わたし」の身体を脅かし、肌のアレルギー症状や奇妙な痛みとして感覚される。さらに、キリスト教徒に征服された島の歴史、バナナ農園、聖ゲオルクのドラゴン退治を扱った原文の小説など、『文字移植』には、ポストコロニアルと男性中心主義への批評が何重ものメタファーよって仕掛けられている。この多層的な小説を、どう演劇へと「移植」するのか。

本作が秀逸なのは、まず、美術作家・林葵衣による舞台美術である。林はこれまで、「声を保存する」というコンセプトの下、唇に絵具を付けて支持体に押し付け、発語した時の唇の形を魚拓のように写し取る作品をつくってきた。それは、発語された途端に消え去る声という儚く非物質的な存在を、唇の形の痕跡として変換・可視化する試みであり、それ自体ひとつの「移植」である。本公演では、4人の俳優と観客席を隔てて、4枚の透明なアクリル板が吊るされた。この装置は、舞台の進展とともに、複数の意味へと変容していく。それは、「わたし」が外を眺める「窓」であり、静止した俳優の身体を「肖像画」として切り取るフレームであり、ドアやバナナ園の壁など物質的な境界であるとともに、心理的な障壁にも変貌する。さらに、俳優たちは白い口紅を唇に塗ると、一音ずつ発語しながら、唇を透明な板に押し付けていく。 白い吐息のようにも見えるそれは、しかし息や声のようには消滅せず、時間の進展とともに、読めない波形の文字のように蓄積されていく。ここで、アクリル板は、発語された音の痕跡を残す透明な支持体であるとともに、擬似的な「鏡」の役割を果たす(実際に、光の反映によって観客の姿を映し出し、舞台上に取り込みさえする)。

異言語との接触がもたらす、テクストの構造的分裂。「わたし」もまた内部に分裂を抱え、それは4人の俳優の発語によって分担/分断されるモノローグによって加速される。異物として体内に侵入する異言語、言語からの物質的抵抗を受けた身体。それは滑らかな発語を妨げ、俳優の身体を硬直させる。「い、け、に、え、」と発音する唇が、アクリル板に押し付けられる。だが、「いけにえ」「犠牲者」とはいったい誰なのか。

ここで示唆的なのが、「バナナ」に込められたメタファーの重層性である。実物のバナナを用いた演出は、様々な連想を呼び起こす装置として機能していた。それは、かつてキリスト教徒の支配を受けた島において、ポストコロニアルな経済構造の中での外貨獲得のための「商品」であり、ドラゴン=異教徒を退治する「聖ゲオルク」が振り回す武器であり、彼が象徴する男性中心的なキリスト教西洋社会の支配原理の攻撃性であり、さらに、男性器を思わせるバナナの形状は、「わたし」を脅かす男性たちの代替物となる。


撮影:前谷開

「犠牲者」という単語は、ドイツ語では「O」の字で始まる(Opfer)。紙面を蝕む、「O」のかたち。それは、空虚な穴であり、犠牲者が沈黙の叫びをあげる口のかたちなのかもしれない。ドイツ語から日本語へ、書かれたテクストから生身の身体が発語する演劇へ、エフェメラルな音声から物質的な痕跡へ。何重もの「移植」が行なわれる本公演では、冒頭と終盤、この「O」の発語をめぐって、テクストへの介入と音声的な解体が企てられていた。「海は遠おぉぉぉぉーい」と異常に引き延ばされる母音。それは、「日本語」の中に「ドイツ語」の断片を暴力的に接続させ、意味を撹乱させるとともに、「わたし」が脱出を企てる海の、海鳴りの轟きをも連想させる。俳優の身体表現と声、舞台装置によって、テクストの密度が音響的・立体的に立ち上がり、「テクストは平面ではない」ことが身体的に了解された、優れた公演だった。

2016/06/12(日)(高嶋慈)

2016年07月15日号の
artscapeレビュー