2024年03月01日号
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artscapeレビュー

村川拓也『Fools speak while wise men listen』

2017年04月15日号

会期:2017/03/09~2017/03/12

アトリエ劇研[京都府]

気鋭の演出家、村川拓也による演劇作品『Fools speak while wise men listen』の再演(2016年9月の初演については、以下のレビューを参照)。本作は、日本人と中国人の「対話」計4組が、ほぼ同じ内容を4セット反復するという基本構造で構成される。同じ「対話」が発話の「間(ま)」や声・身振りのトーンを少しずつ変えて、「(演出家不在の)稽古風景」のように何度も繰り返されるなか、「対話」における不均衡な関係が露わになるとともに、「反復構造とズレ」によって「演劇(本物らしさ)と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造を鋭く照射する作品であった。
今回の再演では、初演と同じ2組に加えて、再演バージョンの2組の「対話」が新たに追加された。この変更は、「演劇と認知」「他者への想像力」という本作の2つの(根本的には同根の)主題に大きく関わるものであるため、以下では、再演での変更ポイントに焦点を当てて考察する。
『Fools speak while wise men listen』は、これまでの村川作品と同様、ごくシンプルな構造と舞台装置で成り立つ。床に白線テープで示された矩形のフレームの中で、日本人と中国人が対面し、マイクを手に持ち、初対面の挨拶と自己紹介に始まり、雑談めいた会話を日本語で行なう。話題は初演時の「結婚と国籍」「パンダ」に加え、「互いの国への好感度」「国歌」だ。ここで興味深いのは、再演で追加された「互いの国への好感度」について話す1組である。「日本社会はルールが多くて、圧力を感じる。でも、日本の大学の友達に中国の印象を聞くと、よく分からない、何か怖いってよく言われる」と話す中国人男性。日本人男性は、「時間をかければ分かり合えると思う。国家でなく個人どうしなら」と応答し、「日本、好きですか?」と問いかけるが、会話はそこでブツ切れになり、2人はマイクを置いて退場してしまう。この「対話」が真に興味深い様相を帯びるのは、後半の2セットだ。3セット目、中国人男性は退場するが、日本人男性はひとり、残された不在の空白に向かって、話し続けるのである。「やっぱり大事なのは想像力だと思う。生活は身体になじまないかもしれないけど、理解の手助けになるのは想像力だと思ってる」。そして4セット目は、中国人が不在のまま、同じ台詞がモノローグとして反復/再生されるのである。
ここにおいて、「コミュニケーション、意思疎通」をめぐる本作の2つの位相が重なり合う。1)表層的にはそれは、「日本人」と「中国人」の(しかも初対面という設定の)微妙な距離感、噛み合わなさ、よそよそしさ、気恥ずかしさ、遠慮やためらいである。2)構造的なレベルでは、「俳優を~(例えばハムレット)として見る」「ここに~があると仮構して見る」ように要請する、演劇の原理的構造への自己言及性である。対話相手が不在のまま、無人の空白に向けて「想像力の投企」について語る俳優は、他者と向き合う誠実な態度について語っているようで、「演劇(フリをすること)とは認知の問題である」ことそれ自体をパフォームしているのである。このとき床の白線のフレームは、二重性を帯びて立ち現われる。それは他者を国籍や民族でカテゴライズする思考のフレームであるとともに、演劇というフレームそれ自体をも指しているのだ。
このように村川は、徹底してフォーマリスティックな手つきで「演劇」それ自体を対象化する。本作について、「政治的なテーマを掘り下げていない」「日中関係について扱う必然性はどこにあるのか」といった批判があるだろう。そうした批判は、上述の2つのコミュニケーション(他者とのコミュニケーション/演劇的コミュニケーション)が重なるとき、つまり内容と形式が合致を見る一点で、解消する。だが、「想像力の投企」が他者理解の手助けになる一面で、むしろ逆に想像力が「(実体としては不在の)他者」を作り出す側面も否定できない。喋っていた「fools」はマイクを置き、フレームの外に立ち去った。彼らの会話を聞くだけだった私たちは、どうやって「観客」という役を降りればよいのか。

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劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/09(木)(高嶋慈)

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