2017年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

2017年04月15日号のレビュー/プレビュー

酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会

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会期:2017/02/09~2017/03/01

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催された、ドキュメンタリー映画の上映会。酒井耕・濱口竜介の共同監督による「東北記録映画三部作」全四編が4日間に分けて上映された。第一部『なみのおと』(2011)は、震災から約半年後、岩手から福島にかけての沿岸部で暮らす人々の「対話」を記録したもの。第二部『なみのこえ』(2013)は「気仙沼編」と「新地町編」から成り、震災から約一年後に同様の手法で撮影された。震災の体験談に始まり、「故郷とは何か」という問い、街や産業の将来への不安や希望、今の心情が語られるなか、夫婦、親子、兄弟、友人、職場の同僚、といった関係性や相手との距離感の遠近が次第に浮かび上がってくる。それは「被災者」という記号を解除させ、二人の関係性の中に浮き上がるその人個人の人柄や考え方へと見る者を引きつけていく。一方、第三部『うたうひと』(2013)は、「みやぎ民話の会」の小野和子を聞き手に、高齢の民話の語り手たちが民話を語る様子を記録した作品。民話語りの後には小野による考察が語られ、先祖たちの厳しい暮らし──女性が嫁ぎ先で味わう苦労、水の権利と貧富の差など──が背景にあることが示される。


『なみのこえ 新地町編』
© silent voice


ここで、『なみのおと』『なみのこえ』(被災経験者の語り)と『うたうひと』(民話の語り)が「三部作」としてまとめられた意味と、一見隔たった両者の関連性を考えるには、第三部の『うたうひと』から折り返して考えた方が分かりやすいかもしれない。子どもの頃、祖父母や親から繰り返し聞いた民話を受け継ぎ、今度は自分が語り手となることは、すなわち他者の記憶を生きる、(死者も含めた)他者の声を自分の身体に宿すことを意味する。そこでは、目の前で対面する身体から発せられる声はひとつの声ではなく、背後に無数の声が流れ込んでいる。では、「震災の記憶」を語り継ぐ人はいるのか? 民話がひとりの人生を超える命脈を保ち続けてきたように、「震災の記憶」も世代を超えて継承されていくのか? こうした危機的な問いが、おそらく制作の根底にある。長期的な避難や移住による離散、コミュニティの消滅により、予想される「震災の記憶の語り手」の不在。また、記憶の継承は、民話の口承伝達がそうであるように、「語り」だけでなく、「語る─聞く」共時的な関係がなければ成立しない。
そこで、本三部作が採用するのが、カメラワークの創造的/想像的な仕掛けである。固定カメラが真横から映していた2人の「対面」が、いつの間にか、話し手/聞き手の姿を「真正面」で捉えるショットに替わっている(つまり彼らは、実際には対話相手でなくカメラに向かって喋っていることになる)。撮影と編集上のトリックだが、見る者はあたかも映像の中の彼らと同じ空間に身を置いて対面しているような感覚を味わい、擬似的な「聞き手」の位相に転移させられてしまうのだ。このとき映像は、単に記録メディアであることを超えて、時空間の共有を擬似体験させる装置となる。
だからこそ、「わたし」と「あなた」という関係性を成立させる想像力の駆動のためには、鑑賞・受容のあり方も一考すべきではないか。巨大なハコの中で、屹立する大スクリーンを前に、匿名化した集合的な観客として受容する鑑賞体験ではなく、ほぼ等身大のプロジェクションとごく少数人で(理想的には1対1で)向き合う親密な受容体験が望ましい。その意味で本三部作は、「他者の記憶の継承」という点から記録メディアのあり方への再考を促すとともに、「映画」の受容・鑑賞の様態への問い直しも射程に含んでいる。


『なみのこえ 気仙沼編』
© silent voice

関連レビュー

みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/01(水)(高嶋慈)

吉岡専造「眼と感情」

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会期:2017/02/28~2017/03/26

JCIIフォトサロン[東京都]

吉岡専造(1916-2005)は、1939年に東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)を卒業後、朝日新聞社東京本社に入社し、以後、同社写真部のカメラマンとして1971年の定年退職まで勤めた。とはいえ、戦後はフリーの立場で仕事をすることも増え、『アサヒカメラ』などのカメラ雑誌にも次々に作品を発表して、大束元、船山克とともに、「朝日の三羽烏」と呼ばれることもあった。今回の展覧会には、遺族からJCIIに寄贈されたオリジナル・プリントのなかから、「生前に吉岡さん自身が選び、まとめていた」という代表作約60点が展示されていた。
むろん、フォトジャーナリストとしての意識が強い写真なのだが、そこには吉岡自身の被写体に対する感情もまた、色濃く滲み出ているように感じる。彼は「私の作画精神」(『アサヒカメラ』1953年4月号)という文章で、自分には「心の眼」と「写真のメカニズムの眼」の「二つの眼」があると書いている。撮影に際しては、「写真のメカニズムの眼」に従わなければならないのだが、それはあくまでも「心の中にあるカメラの仮の姿」にすぎない。そんな彼の写真家としての信念が、実際の作品にもきちんとあらわれていた。
特に、『アサヒカメラ』に1952年5月号から57年12月号まで69回にわたって連載され、そのうち吉岡が27回分を担当した「現代の感情」は注目すべき連作である。「傍聴席」(『アサヒカメラ』1952年5月号)、「運命の子ら」(同1952年6月号)、「鳩山退場」(同1957年3月号)などの名作を見ると、ヒューマニスティックな感情を基点にしつつ、カメラのメカニズムを巧みにコントロールしてその場の状況を的確に描き出していく、彼の「心の眼」の動きがいきいきと伝わってくる。

2017/03/01(水)(飯沢耕太郎)

「写真家金丸重嶺 新興写真の時代 1926-1945」

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会期:2017/02/18~2017/03/03

日本大学芸術学部芸術資料館[東京都]

金丸重嶺(かなまる・しげね、1900-1977)の名前を知る人も少なくなってきたのではないだろうか。日本の広告写真の草分けの一人であり、戦後は日本大学芸術学部写真学科教授として写真教育に携わり、日本広告写真家協会(APA)会長など、写真界の要職を歴任した。だが、生前の名声と比較すると、没後はやや忘れられた存在になっていたように思える。「没後40年記念展覧会」として企画された今回の展示は、その彼が写真の世界で頭角を現わしていく1920~40年代にスポットを当てるものであり、約100点の写真作品と資料が出品されていた。
展示は「東京」、「金鈴社」、「P.C.L」、「満州」、「ベルリンオリンピック」、「欧州風景」、「国策宣伝」の7部で構成されている。写真家としてスタートした時期の初々しい写真群から、1926年に鈴木八郎とともに設立した「日本最初の商業写真スタジオ」である「金鈴社」の活動、1936年のベルリンオリンピックの取材とその後の欧州旅行、そして戦時体制下の国策宣伝への関与などが、手際よく紹介されていた。初めて見る作品・資料も多く、1930年代のモダニズム的な「新興写真」の担い手の一人でもあった彼の、写真家としての活動ぶりがくっきりと浮かび上がってきた。今後は、代表的な著書である『新興写真の作り方』(玄光社、1932)をはじめとして、戦前・戦後の写真界とのかかわりをより広く概観する展示を見てみたい。
なお、本展のカタログとして『FONS ET ORIGO Vol.XX, No.1 Spring 2017 没後40年記念 写真家金丸重嶺 新興写真の時代 1926-1945』(日本大学芸術学部写真学科)が刊行されている。

2017/03/01(水)(飯沢耕太郎)

《赤羽台団地》

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[東京都]

東京へ移動し、『東京人』としては画期的なモダニズム特集の原稿で触れるので、《赤羽台団地》を訪れた。日本住宅公団による東京の大規模なプロジェクトである。だいぶ、真新しいヌーヴェル赤羽台に建て替わってはいるのだが、それでも3,373戸も建てていたので、まだ昔の団地や時代を感じさせる遊具を備えた公園なども残っており、当初の面影がうかがえる。仙台では似たような建築の官舎に住んでいるので、親近感がわく空間だ。

写真:上2枚=《赤羽台団地》、左下=ヌーヴェル赤羽台、右下=くらげ公園

2017/03/01(水)(五十嵐太郎)

手島浩之/都市建築設計集団/UAPP《路地にかかる大軒》

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[宮城県]

東北住宅大賞の現地審査のため、手島浩之が設計した《路地にかかる大軒》を見学した。五十嵐研出身の真田菜正が担当した物件でもある。外観は前面の道路に張り出す大きな軒を特徴とするが、一歩室内に足を踏み入れると、民芸品がセンスよく並べられた内路地、中心軸の奥にある台所、少し上がったリビングとデッキ、ロフト的な子供部屋など、内部の複雑で立体的な構成は想像をはるかに超えて豊かだ。さすが断面の魔術師である。

2017/03/01(水)(五十嵐太郎)

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