2017年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会

2017年04月15日号

twitterでつぶやく

会期:2017/02/09~2017/03/01

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催された、ドキュメンタリー映画の上映会。酒井耕・濱口竜介の共同監督による「東北記録映画三部作」全四編が4日間に分けて上映された。第一部『なみのおと』(2011)は、震災から約半年後、岩手から福島にかけての沿岸部で暮らす人々の「対話」を記録したもの。第二部『なみのこえ』(2013)は「気仙沼編」と「新地町編」から成り、震災から約一年後に同様の手法で撮影された。震災の体験談に始まり、「故郷とは何か」という問い、街や産業の将来への不安や希望、今の心情が語られるなか、夫婦、親子、兄弟、友人、職場の同僚、といった関係性や相手との距離感の遠近が次第に浮かび上がってくる。それは「被災者」という記号を解除させ、二人の関係性の中に浮き上がるその人個人の人柄や考え方へと見る者を引きつけていく。一方、第三部『うたうひと』(2013)は、「みやぎ民話の会」の小野和子を聞き手に、高齢の民話の語り手たちが民話を語る様子を記録した作品。民話語りの後には小野による考察が語られ、先祖たちの厳しい暮らし──女性が嫁ぎ先で味わう苦労、水の権利と貧富の差など──が背景にあることが示される。


『なみのこえ 新地町編』
© silent voice


ここで、『なみのおと』『なみのこえ』(被災経験者の語り)と『うたうひと』(民話の語り)が「三部作」としてまとめられた意味と、一見隔たった両者の関連性を考えるには、第三部の『うたうひと』から折り返して考えた方が分かりやすいかもしれない。子どもの頃、祖父母や親から繰り返し聞いた民話を受け継ぎ、今度は自分が語り手となることは、すなわち他者の記憶を生きる、(死者も含めた)他者の声を自分の身体に宿すことを意味する。そこでは、目の前で対面する身体から発せられる声はひとつの声ではなく、背後に無数の声が流れ込んでいる。では、「震災の記憶」を語り継ぐ人はいるのか? 民話がひとりの人生を超える命脈を保ち続けてきたように、「震災の記憶」も世代を超えて継承されていくのか? こうした危機的な問いが、おそらく制作の根底にある。長期的な避難や移住による離散、コミュニティの消滅により、予想される「震災の記憶の語り手」の不在。また、記憶の継承は、民話の口承伝達がそうであるように、「語り」だけでなく、「語る─聞く」共時的な関係がなければ成立しない。
そこで、本三部作が採用するのが、カメラワークの創造的/想像的な仕掛けである。固定カメラが真横から映していた2人の「対面」が、いつの間にか、話し手/聞き手の姿を「真正面」で捉えるショットに替わっている(つまり彼らは、実際には対話相手でなくカメラに向かって喋っていることになる)。撮影と編集上のトリックだが、見る者はあたかも映像の中の彼らと同じ空間に身を置いて対面しているような感覚を味わい、擬似的な「聞き手」の位相に転移させられてしまうのだ。このとき映像は、単に記録メディアであることを超えて、時空間の共有を擬似体験させる装置となる。
だからこそ、「わたし」と「あなた」という関係性を成立させる想像力の駆動のためには、鑑賞・受容のあり方も一考すべきではないか。巨大なハコの中で、屹立する大スクリーンを前に、匿名化した集合的な観客として受容する鑑賞体験ではなく、ほぼ等身大のプロジェクションとごく少数人で(理想的には1対1で)向き合う親密な受容体験が望ましい。その意味で本三部作は、「他者の記憶の継承」という点から記録メディアのあり方への再考を促すとともに、「映画」の受容・鑑賞の様態への問い直しも射程に含んでいる。


『なみのこえ 気仙沼編』
© silent voice

関連レビュー

みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/03/01(水)(高嶋慈)

▲ページの先頭へ

2017年04月15日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ