artscapeレビュー
快快『りんご』
2012年10月01日号
会期:2012/09/13~2012/09/16
KAAT神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉[神奈川県]
快快が劇団として唯一無二なのは、役者が「役者」であることから半分降りて当人として舞台に上がっているように見えることだ。逆に言えば、通常の演劇において役者というものは「役」を演じるのみならず、「役を演じる者」(「役者」)を演じているのである。快快がいることで、通常の演劇が二重に演技したものであることに気づかされてきた。たとえば、チェルフィッチュの役者は、「劇の役」を演じる前に「チェルフィッチュの役者」を演じている。「~の役者を演じる」とは、稽古の場で演出家が望む身体性を獲得することと同義だろう。その身体にはゆえに、演出家との(上下)関係が刻印されている。それに対して快快の役者たちは、そうした意味で快快の役者を演じているようには見えない。大道寺梨乃は大道寺梨乃であり、山崎皓司は山崎皓司のまま、限りなく当人に近い存在で観客の前に居る。この点で、彼らの舞台は正しくポスト演劇だった。自由で気取ってなくて演劇じゃないみたいだった。学園祭みたいな、ユートピアみたいな、嘘みたいな演劇だった。本作を最後に、主要メンバー数人が快快から離れるらしい。そのことも悲しかったが、本作は、脚本を担当する北川陽子の実話に基づく(らしい)母の死をめぐっており、他者の死を演じるという困難な課題を何度も交替し役者たちが実践してみせるさまは、おかしくて、悲しくて、切なかった。りっぱな演劇を成立させること以上に、彼らが演劇をとおしてやろうとしたことは、一貫して、他者に触れること、他者とともに生きることだった(千秋楽ではアンコールも出た「Be Together」(鈴木あみ)で踊るシーンはその点で象徴的だった)。その思いが他者の死を演じてみるというアイディアの内に、ほとんど奇跡のようにとてもピュアなかたちで結晶していた。
2012/09/16(日)(木村覚)