artscapeレビュー
2015年12月15日号のレビュー/プレビュー
《十和田市民図書館》
[青森県]
竣工:2014年
十和田の官庁街通りには、最近、安藤忠雄が設計した《十和田市民図書館》もオープンした。街路に対して長いガラス面で閲覧者が見え、奥に引き込んでから、室内に入る。低層だが、細長いコンクリートのヴォリュームと、上部から採光するサンルームを抱えた大きな片流れの屋根の組み合わせが、印象的なシルエットをつくる。
写真:左上/左下/右上=安藤忠雄《十和田市民図書館》(外観)、右下=同(内観)
2015/11/21(土)(五十嵐太郎)
《十和田市民交流プラザ》
[青森県]
竣工:2015年
商店街を歩くと、近藤哲雄によるpodなどのストリートファニチャーも新しく点在している。そして隈研吾による《十和田市民交流プラザ》は、小さな家型の集合体を「鉄板」のルーバーで包む(鉄ではなく、杉を使う。念のため)。内部は、外観からは想像できないほど、小さな街のように複雑に空間が展開する。午後は、ここで恒例のJIA東北住宅大賞の公開審査を古谷誠章と共に行なう。今年は例年より多い35作品の応募があり、賞の継続ゆえに、そのレベルもさらに上がっている。学生の作品と違い、プロの建築家が設計した住宅。しかも本人たちの目の前で現地審査対象作品を絞り込む作業は大変である。
写真:左上=隈研吾《十和田市民交流プラザ》(外観)、左中/左下/右下=同(内観)、右上=近藤哲雄《pot》、右中=日高恵理香《商店街の雲》
2015/11/21(土)(五十嵐太郎)
現実のたてる音/パレ・ド・キョート
会期:2015/11/07~2015/11/23
ARTZONE[京都府]
「音」に関する展覧会/ミュージシャン、DJ、アーティストによる一日限りのイベントの二本立て企画。筆者は展覧会のみ実見したので、本レビューでは、長谷川新の企画による若手作家8名のグループ展「現実のたてる音」を取り上げる。
「現実のたてる音」という展覧会タイトルが冠された中、「現実」つまり現在の政治的・社会的状況に最も鋭敏に反応していたのが、百瀬文の映像作品《レッスン(ジャパニーズ)》。仮設小屋の中のスクリーンに、手話と日本語学習が混ざった教材ビデオのような映像が流されている。貼りついたような笑顔で、「これはわたしの血ではありません」「これはわたしの犬ではありません」「それはわたしたちの血ではありません」といった例文を淡々と反復し続ける女性。画面の下部には、ふりがな付きの日本語の一文とともに、ローマ字表記の発音と英訳が付けられており、「日本語学習者のための(架空の)教材ビデオ」を装っている。だが、手話のように見えるジェスチャーは実はデタラメであるとわかり、映像内の身振りと音声が伝える意味内容が次第に乖離し始めていく。その乖離はさらに、映像内の女性の表情と音声の間にも広がり、発話主体が曖昧化/複数化されていく。例文と(デタラメの)手話を機械的に反復する女性は終始、仮面のような表情を崩さないが、音声は別録りされたものがかぶせられ、喜怒哀楽を含んだものへと変化していくのだ。すすり泣きのような声で発せられる、「これはわたしたちの血ではありません」。あるいは、冷酷な含み笑いとともに告げられる、「これはあなたの血ではありません」。ここでは、血=民族と言語をめぐって、強制・抑圧された者たちの嘆きや悲痛と、強制・抑圧の暴力を行使する者たちの冷酷さや欺瞞とが、仮面的な表情の向こう側で、「声」の抑揚の変化によって絶えず入れ替わる交替劇が演じられている。「日本語」の学習が強制的に要請される場面、それはかつては植民地支配のプロセスの一貫であったとともに、近い将来、移民の滞在・就労規制に関する制度化の可能性を想起させる。ここで百瀬のとる戦略が残酷にして秀逸なのは、「日本語学習の教材ビデオ」の「正しい」文法を模倣しつつ、「これはわたしの血ではない=わたしは異なる民族、外国人である」ことそれ自体を行為遂行的に発話させることで、仮面の背後に存在する「国民と民族と言語の一致」という抑圧的な作用の根深さを露呈させているからだ。
2015/11/22(日)(高嶋慈)
Works-M Vol.7『クオリアの庭』 progress.4 Kyoto「past_」
会期:2015/11/21~2015/11/23
京都芸術センター[京都府]
Works-M Vol.7「クオリアの庭」は、「移動をつづけながらクリエーションを行う」というコンセプトのもと、三浦宏之が作・構成・振付・美術を手がけるダンス作品。昨年11月の神戸公演progress.1「lie_」に始まり、今年8月の秋田公演、10月の岡山公演を経て、京都でのprogress.4「past_」と、各地でワーク・イン・プログレス公演を重ねてきた。来年1月には横浜にて、最終成果として「クオリアの庭」の上演が予定されている。
音・美術・ダンス、つまり非物質的な現象と物質的存在と運動が、空間内に同一のレベルで共存しつつ拮抗する。ミニマルに抑制され、計算された演出の洗練からは、そうした印象を受けた。斜めにピンと張られたいくつもの赤い糸が空間を立体的に交差する。落下し続ける白い砂や振子の運動が、時間の流れを可視化する。様々に移り変わる音響もまた、時間の持続や断絶とともに、具体的/抽象的な風景を召喚する。ハーモニックに重なり合う声、規則正しい電子音、不穏なノイズ、外国語の飛び交う街頭の喧騒、木漏れ日や小鳥のさえずり、荒野を渡る風……。その空間の中に存在する5人のダンサーたちの身体は、時に共鳴してユニゾンを描いてはふっと離れ、同期とズレを繰り返す様子は音叉の共鳴や和音を思わせ、距離を隔てた伝播や共鳴を互いに見せながら、この空間自体を少しずつ調律していくように感じられた。音、身体、美術、どこかで生じた運動が他の要素を振動させ、ふっと風景が立ち上がってはたちまち消えていく。その生成と消滅の繰り返しの中に、それぞれの意志を持って空間を生きる5つの身体があった。
2015/11/22(日)(高嶋慈)
鴻池朋子「根源的暴力」
会期:2015/10/24~2015/11/28
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
展覧会場は一方通行になっているので順番に見ていく。皮革にオオカミやタヌキの絵を描いたマント、惑星や大地と一体化した子どもの顔、原始生物みたいな陶製の彫刻、色も艶もテクスチャーも人体の一部を連想させる陶片、故郷秋田の雪山の映像、おびただしい量のドローイング……。皮や陶など多彩な素材が使われている。最後の大きな展示室には高さ7メートル、全長20メートル近くありそうな皮革製の緞帳がかけられていてびっくり。とくに流れに沿ってストーリーがあるわけではなさそうだが、全体では大きな物語があって、ひとことでいえば「自然との交感」だろうか。会場が暗いせいもあるが、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画に通じる呪術的な動物との交信を思い出させる。渾身の展覧会。
2015/11/23(月)(村田真)