artscapeレビュー

2015年12月15日号のレビュー/プレビュー

村上隆の五百羅漢図 展

会期:2015/10/31~2016/03/06

森美術館[東京都]

国内では久しぶりの個展である。和のポストモダン+アニメ絵+デジタルによる近年の作品群が一堂に会する。圧巻は、やはり震災を契機に集団制作された全長100mに及ぶ五百羅漢図だった。実はあいちトリエンナーレ2013の目玉にできないかと少し検討もしていたが、どうしてもカタールで現物を見る時間がとれず、また愛知で十分な展示場所も確保できないことから見送っていた。

2015/11/26(木)(五十嵐太郎)

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ギャラリートーク in「空気展 -what is “kuuki” in Architecture? 若手建築家5名による展覧会

会期:2015/11/27

東北大学 人間・環境系研究棟1Fギャラリー[宮城県]

東北大学にて、ギャラリー・間の展覧会に出品している中国人建築家チャオ・ヤンと空気展のメンバーとのギャラリートークを行なう。前半は、同じくU-35の世代である日本の若手建築家が作品を説明し、コメントのやりとり、後半は逆に中国の建築や土地の状況についても質問がなされ、相互に意見交換を行なう。続いて「アジアの日常から」展の関連企画として、チャオ・ヤンの講演会「Rural Intervention」が開催された。大都市ではなく、あえて地域で活動することで、テクトニックなアプローチからディテールも決めるデザインである。細かい環境の読み取りや使い手とのやりとりは、日本の建築とも共通していた。

2015/11/27(金)(五十嵐太郎)

吉本和樹「撮る人」

会期:2015/11/24~2015/12/06

Gallery PARC[京都府]

一眼レフカメラを構える西欧人男性。コンパクトカメラを構える、リュック姿の若い女性。中年の日本人男性もいれば、ベールをかぶったイスラム教徒の女性や、腕に入れ墨をした若い西欧人男性もいる。年齢、性別、人種も様々な彼らは皆、緑豊かな公園の中で、カメラをやや上方に向けて構えているが、視線の先にある被写体そのものはフレーム内から排除されている。
吉本和樹の写真作品《撮る人 A-bomb Dome》は、「原爆ドームを撮影する人」の後ろ姿を撮影したシリーズである。今年6月の二人展「視点の先、視線の場所」で見てとても気になっていた作品だが、本個展では同シリーズをまとまって見ることができた。《撮る人 A-bomb Dome》は以下の3つの観点から考えられる:(1)「撮影する人」のタイポロジー、(2)「ヒロシマ」を形成する視覚的イメージへの批評、(3)「盗撮」及びそのリスクを回避する身振り。
タイポロジーという視覚的文法は、同質性の中に差異を浮かび上がる構造を持つ。吉本の《撮る人 A-bomb Dome》の場合、「眼差しを向ける行為そのものを被写体とする」という入れ子状の構造の中に、年齢、性別、人種、カメラの機種、構え方といった様々な差異があぶり出される。一方で、同質性、つまり「眼差しを向ける行為」が集合化され前景化されることによって、この地が視線の欲望の強力な磁場であることが示される。ここで、吉村の手つきは二重、三重に両義的である。眼差しの過剰さに言及しつつ、視線の対象そのものはフレーム外へ排除することで、「ヒロシマ」という記号を視覚的に形成する力学を露わにしつつ、イメージの消費に陥ることを巧妙に回避しようとするのだ。また、一様に「原爆ドーム」というアイコンにカメラを向ける人々の後ろ姿を、真後ろから/左斜めから/右斜めからといった様々な角度から撮影し、空間的に並置することで、視線の均質なベクトルを解体し、多方向に拡散させてしまう。どこに視線を向け、何を撮っているのかが曖昧なまま、視線の過剰さだけが散乱する空間。撮影する彼らの姿を経由して、「何が視線の欲望を発生させるのか」「私たちは、いったい何を見ようとしているのか」という根本的な問いを吉本の写真は突きつける。
同時にまた、「後ろ姿を盗撮する」という行為は、予告なしに見知らぬ他人をイメージとして瞬間的に捕獲する路上スナップが、「肖像権」「プライバシー保護」といった論点から「盗撮」として断罪されることを巧妙にかわす、スリリングな身振りでもある。《撮る人 A-bomb Dome》は、視線の欲望、「ヒロシマ」の表象、「盗撮」といった、写真をめぐるアクチュアルな問題群を批評的に問い直す、優れたメタ写真である。

2015/11/28(土)(高嶋慈)

川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』

会期:2015/11/28

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

故・大野一雄の残された公演の記録映像から、川口隆夫が動きを分析して再現し、「完全コピー」を試みるという公演。土方巽の演出による大野の代表的な3作品、『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)、『私のお母さん』(1981年)、『死海、ウィンナーワルツと幽霊』(1985年)、そして1969年の映画『O氏の肖像』が参照された。
冒頭、劇場のバックステージに通された観客は、ブルーシートや木の枝、ホースや脚立、ペットボトルや雑多なゴミと戯れる川口の姿を目撃する。観客も巻き込んで無邪気にゴミと戯れる川口は、突然、服を脱ぐとゴミを身にまとい、着ぶくれしたホームレスのような奇怪な姿で劇場の中へ姿を消した。鳴り響くバッハのオルガン曲と「『ラ・アルヘンチーナ頌』 1977年 死と誕生」という字幕。観客は舞台上に仮設された席に案内され、空っぽの劇場の客席に向かい合う。その闇の中から、ゴミを脱ぎ捨て、生の身体を露わにした川口が現われる。『ラ・アルヘンチーナ頌』が約10年間、舞台公演から遠ざかっていた大野の「復帰」公演であったこと、ジュネの戯曲を参照して土方が与えた「年老いて病んだ男娼」という役柄、そして川口の身体へと再び召喚される大野……複数の「復活」の意味が重層的にはらまれた、印象的な幕開けだ。舞台上には、ラックに掛けられたさまざまな舞台衣裳、帽子や靴などの小道具、全身を映すスタンドミラーが用意されている。川口は、舞台上で着替えやメイクを行ないながら、各10分ほどの抜粋されたシーンを次々と踊っていく。手に持った一輪の花を力強く天に捧げる、磔刑のようなポーズでグランドピアノにもたれかかり、息絶え絶えに肺を上下させる、哀愁を帯びたタンゴの調べとともに無邪気な幼女のように軽やかに舞いながら、何かを探し求めるかのように両手を震わせる……。
ここで、「大野一雄の完全コピー」という企てに挑む川口は、それが単なる「精巧なモノマネ」の域に堕さぬよう、「作品」として成立させるために、いくつかのメタ的な仕掛けを戦略的に展開している。まず、観客自身を舞台に上げ、空っぽの客席に相対させることで、劇場という空間の虚構性を否応なしに意識させる。また、「冒頭で川口自身の肉体を観客の目にさらす」「衣装の着替えやメイクという変身のプロセスを舞台上で見せる」ことによって、「ここで踊っているのは大野一雄です(ということにしてあります)」と記号的に了解することを妨げる。つまり、「川口隆夫」という身体の固有性を消去して見るのではなく、「川口隆夫」という身体の肉体的現前とここにはいない不在の大野とを常に二重写しになった状態で見るように要請するのだ。だがそれは完全に一致することはない。大野という強烈な個性を持った肉体の特異性に加えて、即興性や「加齢・老齢」というファクターも存在するからだ。したがって川口の試みは、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いへと向かう。そのエッセンスを抽出するために、記録映像から川口が描き起こした、ポーズのデッサンに詳細なメモが付された舞踏譜も展示された。
振付の強度を抽出する川口の実験的な試みは、「大野一雄」を脱神話化しつつ、現実の時空間の中に再び受肉化するという両義的な性格をはらんでいる。本人からの「振り写し」ではなく、記録映像という媒体を通した客観化・解体の作業は、「魂」「宇宙」といった内面論・精神論や「大野自身の語った言葉」の呪縛からダンスを解き放つ試みでもある。それはまた、オリジナル/コピーという二元論(およびそこに付随する質的判断)を超えて、もはや映像の中にしか存在しない大野の踊りを、ふたたび今・ここへと受肉化する試みであり、生身の肉体的現前によってその都度命を吹き込まれる舞台芸術の原理性そのものを照らし出す。さらには、「型の反復や身体的トレースによる本質の会得」という点では、コンテンポラリーダンスと古典芸能の隔たりを架橋する観点を提出するものと言えるだろう。
このように、川口の作品は、「オリジナルとコピー」「型の反復、身体的トレース」「コンテンポラリーダンスと古典芸能」「振付という概念」「舞台芸術とアーカイブ(映像)」「一回性と複製」など、身体的パフォーマンスに関する広大な問題圏を提示するという意味で、優れてメタダンス的な作品である。

2015/11/28(土)(高嶋慈)

土木デザイン競技「景観開花。2015『活かす』」公開最終審査会

会期:2015/11/28

東北大学 青葉山キャンパス[宮城県]

「景観開花。2015」の公開審査。一次審査はこれまでになく票が割れたのに、プレゼを経た最終の投票では全員一致でトップ2が決定した。千葉の山を削って東京の建築がつくられたのをリバースし、解体して山を復元する三田恭裕・鈴木寛人が最優秀に選ばれた。そして縁石を活かすユニークな視点の富山大学チームが優秀賞となった。審査後は、八馬智と「まちの見方・歩き方~ドボクに驚き、ケンチクに惚れる~」のトークセッションを行なう。彼が用意したパリやオランダの建築と土木、あるいはヨーロッパの産業遺産やリノベーション事例を映し出しながら、なぜやんちゃなデザインが出てくるのか、逆になぜ残して活用するのかなどを語る。

2015/11/28(土)(五十嵐太郎)

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