artscapeレビュー
2016年09月15日号のレビュー/プレビュー
会田誠 展「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」
会期:2016/07/06~2016/08/20
Mizuma Art Gallery[東京都]
コンビニ弁当のプラスチック容器を支持体に見立て、着色した発泡ウレタンを塗布した「絵画」。それが重い鉄のドアを開けるとすぐに始まり、そのまま一直線にギャラリーをグルッと一周している。奥の小部屋の2段掛け3段掛けも含めれば50点以上ある。たまに同じ容器(支持体)もあるが、中身(色彩と形態)はすべて違う。コンビニ弁当をモチーフにした作品はこれまでいくつか見たことあるが、もともと容器自体3つか4つに仕切られ、抽象レリーフのように見えないこともない。その容器の色に合わせてけっこう周到に発砲ウレタンの色が選ばれている。幾何学的抽象と有機的形態の合体、食物容器に食べられないもの(ウレタンの形態はウンコを連想させる)の対比、大量生産と手作業、チープな素材の割にリッパな価格、など考えるところの多い作品だが、パッと見て思い出したのは岡崎乾二郎の《あかさかみつけ》だったりする。長ったらしいタイトル(岡倉天心からの引用らしい)もそれっぽいし。
2016/08/19(金)(村田真)
ブレイク前夜展
会期:2016/08/18~2016/08/28
スパイラルガーデン[東京都]
BSフジで「ブレイク前夜~次世代の芸術家たち」という番組があるそうだが、そこで取り上げられた期待される作家25人を紹介するもの。といっても現代美術は少なく、日本画、版画、陶芸、盆栽、人形といった伝統技巧に頼るジャンルが目立つ。そのせいか、共通するのはみんな仕事が細かく仕上げも丁寧で、ひとことでいえば工芸的なこと。ペインティングもいくつかあるが、加茂昂と佐藤令奈がいい。加茂は雪山と瓦礫の山、佐藤は赤ちゃんの顔とモチーフはまるで違うが、どちらも筆触が魅力的だ。
2016/08/19(金)(村田真)
Art Court Frontier 2016 #14
会期:2016/08/20~2016/09/24
ARTCOURT Gallery[大阪府]
Art Court Frontierは、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったアニュアル企画。筆者は、今年の推薦者として本企画に関わり、2016年6月15日号と2015年7月15日号の本欄で取り上げた、写真家の金サジを推薦させていただいた。本評では、「写真」をめぐる対照的なアプローチとして、金サジと迫鉄平を取り上げる。
金は、近年精力的に取り組んでいる「物語」シリーズから計7作品を出品している。血や炎の色をした赤い衣装をまとい、骨盤の骨を冠にかぶり、溶岩とつながったへその緒を手にした、性別が曖昧な巫女。セミの抜け殻の山から生え出た、一輪のハスの花。白いチマチョゴリに鮮やかな紐が映える3人の老女。切られた首から花を生み出すニワトリ。血の付いた斧を持ち、荒縄や紙垂(しで)のようなもので頭部を覆われた、半人半神の男。鳥の巣の奥に輝く、子宮へつながる裂け目。これらの、人間/神/獣、性別、生死の境界が混ざり合い、謎と象徴性を合わせ持ったイメージは、汎東洋的とも言うべき混淆的な世界を形づくる。金によれば、直感的なイメージや夢、かつて読んだ物語の記憶などが混ざり合った、自身のための「創世の物語」であり、叙事詩のように壮大な「物語」からワンシーンずつ写真化しているという。構想中の約1/3を作品化したばかりだという「物語」の全貌がこれから楽しみだ。
照明を浴びて暗い背景から浮かび上がる、正面性の強い彼らの姿は、マットな質感のプリント技法とあいまって、西洋の宗教絵画を思わせる。だが、絵画的な見かけを偽装することで、「写真」であることの生々しさがいっそう際立つ(とりわけ、老婆の皮膚に折り畳まれるように刻まれたおびただしい皺や、男性の身体に女性的なメイクがのっているという違和感は、絵画では表現しにくいだろう)。金は、虚構を実在化させる写真という装置の力を借りて、「架空の創世記」という内的なイマジネーションの世界を受肉化させるのだ。それらは極めて個人的なことを語るとともに、ディアスポラとしての生や歴史に触れながら、現在も人々の拠り所として存在する「巫女(ムーダン:巫堂)」の民俗文化ともつながっている。そこではまた、絵画的構図を模したピクトリアルな写真や、民族誌の記録写真といった複数の「写真」の歴史が含み込まれてもいる。
一方、迫鉄平は、街頭で撮影した映像作品と写真作品を出品。映像作品では、固定フレームで撮影された数分ほどの街頭ショットが淡々と流れ続け、凍結されず流れていく弛緩した時間のなか、写真の「決定的瞬間」が解体されていく。一方、写真作品では、商品スタンドにズラリと掛けられたサングラスの一つひとつの面に、カメラを構えた迫自身が微妙にズレながら写し出され、どこかの商業ビルの多面体の鏡でできた壁には、エスカレーターやポスターの像が幾重にも分裂・反射しながら万華鏡のような像を結ぶ。迫は、鏡やガラスの反映や反射を取り込むことで、写真は統一的な像を結ぶのではなく、むしろ裂開し続ける表面であり、同一性を撹乱させる複数性や分裂性であることを自己言及的に提示している。
2016/08/20(高嶋慈)
「直島建築+The Naoshima Plan」直島建築シンポジウム
[香川県]
2週続けての直島訪問を行なう。物理的に日帰りは可能だが、もったいない行程である。フェリーから浅田彰氏と合流し、船上で建築の四方山話をしてから、槻橋修が監修した直島建築展を契機に企画されたシンポジウムに登壇する。話題のひとつは初期の石井和紘による建築の再評価だった。そして新時代を象徴する三分一博志の位置づけである。彼の建築は目ではなく、肌で感じる空間だろう。しかし、瀬戸内国際芸術祭といい、あいちトリエンナーレといい、春秋ならもっと楽なのに、わざわざ酷暑のなか、こうアート作品をめぐる体験。ジャンルは違うけど、真夏の野外フェスに似ているかもしれない。若手の新人から大御所まで、いろんなアーティストをつまみ食い的にも体験できるところも同じだ。
2016/08/20(土)(五十嵐太郎)
《千年希望の丘》《玉浦西災害公営住宅》
[宮城県]
岩沼市へ。津波に耐えた石蔵などの震災遺構も残るランドスケープ=《千年希望の丘》を見てから、手島浩之による《玉浦西災害公営住宅》を訪問する。道路側ではない内側のデッキからのアクセス、田の字プランの回転による配置計画などによってコミュニティの形成を図る。玉浦の集団移転の全体は、地元出身の石川幹子が入り、貞山緑道が各エリアを貫く特徴的な計画がなされている。
写真:上=津波に耐えた石蔵 下=《玉浦西災害公営住宅》
2016/08/22(月)(五十嵐太郎)