artscapeレビュー
2016年09月15日号のレビュー/プレビュー
《浜脇の長屋》
[大分県]
別府にて、《浜脇の長屋》に泊まる。別府現代芸術フェスティバル2012「混浴温泉世界」の際、アーティストの廣瀬智央が制作した作品で、《天空の庭》(一階からの青い光に包まれた、強化ガラスの上の寝室)と《カボスの家》(リビング、キッチン、トイレなど)の向き合う二棟を贅沢に味わう。ただし、お風呂はなく、近くの温泉を使うことになる。
写真:上=《浜脇の長屋》 下=《カボスの家》
2016/08/27(土)(五十嵐太郎)
softpad/横谷奈歩「剥離と忘却と With detachment and oblivion」
会期:2016/08/27~2016/09/10
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w[京都府]
softpadと横谷奈歩、それぞれの個展が並置された「剥離と忘却と」展。本評では、横谷奈歩の写真作品《剥離された場所》について取り上げる。「大久野島、乙女峠、キリシタン洞窟」という地名の情報だけがキャプションに記された横谷の写真は、一見すると、ピンホール写真のように像が曖昧にボケて、ブルーがかった色調ともあいまって、夢の中の光景のような幻想的な光に満ちている。梁や階段が朽ち、窓や扉が破れ、ガレキの散乱した廃墟のような室内。暗い洞窟の中に差し込む、厳かな光の柱。別の写真では、円環状に組まれた石の傍らに柄杓が置かれ、小さな池や人工的な貯水池の名残だろうかと思わせる。これらのベールに包まれたような痕跡のイメージは、具体的な土地の固有名から半ば遊離するとともに、どこか不穏な違和感をかき立てる。
その違和感は、展示台に置かれたオブジェの存在によって、ある確信へと変わる。海岸で拾ってきたらしいサンゴのかけらや陶片とともに、ミニチュアの地球儀とコップが置かれている。そして、小指の先ほどしかない地球儀とコップは、写された廃墟の床にも転がっていたのだ。一気に反転する真偽の境界。展示台の密やかなオブジェたちは、横谷自身が現実の場所に「行った」ことの物的証拠であるとともに、写されたイメージの真実を覆す、二重の仕掛けを帯びている。
このように横谷は、歴史的痕跡をとどめる場所を訪れ、リサーチや伝え聞いた話を元に模型を作成し、写真化するという二重の手続きによって、虚実の曖昧な世界を出現させている。今回、参照された3つの場所は、戦時中の毒ガス製造やキリシタン迫害に関わる土地である。広島県の瀬戸内海に浮かぶ「大久野島」は、戦時中、毒ガスを製造していたため、軍の機密事項として地図から消されていた島。横谷は、今も残る巨大な発電所跡をモチーフに模型を作成し、写真イメージへと変換した。廃墟の中をあてどなくさまようように、少しずつアングルを変えて撮られた写真のシークエンスは、虚構の空間の中に、別種の時間の流れをつくり出す。また、長崎県の五島列島にある「キリシタン洞窟」は、船で海上からしか入れない険しい断崖の洞窟で、迫害を逃れたキリシタンたちが潜伏していた場所である。亀裂から差し込む荘厳な光の柱は、安藤忠雄の「光の教会」を連想させ、受難と救済の物語を匂わせる。島根県の津和野にある「乙女峠」は、流罪となったキリシタン百数十名が、棄教を迫られて拷問を受けた場所。池に張った氷を役人に柄杓でかけられた氷漬けの刑が最も過酷だったというエピソードが、作品の背景となっている。
模型をつくって写真化する行為が虚構をリアルへと反転させる構造は、例えばトーマス・デマンドとも共通するが、メディア報道によって流通・共有されたイメージを再虚構化するデマンドに対し、横谷の作品は、実証的な手続きを踏まえ、国家権力による抑圧と忘却の過程を扱いつつ、唯一の真実の回復ではなく、「真正さ」をどこまでも曖昧にズラしていく。それは、写真/歴史の真正性への疑義を呈しつつ、幻想的で極めて美しいイメージとして結晶化させている。そうした写真とリアリティの関係に加え、歴史の痕跡の(不)可視化、時間の積層と写真のシークエンスがつくり出す時間の流れ、「閉じた部屋の窓」や「光の差し込む亀裂」が暗示するカメラ・オブスクラの構造など、写真をめぐる重層的なトピックをはらんだ展示だった。
2016/08/28(高嶋慈)
石|溶けちゃってテレポート、固まってディレイ
会期:2016/08/26~2016/08/28
アトリエ劇研[京都府]
同世代の演出家と写真家、それぞれ2組が、演劇/写真/ダンスの境界を交差させて共同制作を行なう企画、『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』の1本目。俳優の言葉と身体の関係性に取り組む演出家・和田ながら(したため)と、写真イメージと物質の関係性を考察する守屋友樹が組んだ。印象的なタイトルは、2人が一緒に山に登り、鍾乳洞に潜った後、写真家の守屋から出てきた言葉であるという。出演者に課せられたのは、「ある写真について言葉で描写する」というシンプルな行為だが、写真イメージと言葉による記述を通して、語る主体と語られるイメージと身体が乖離/癒着していくプロセスが出現する、スリリングな作品だった。
冒頭、男女の出演者は、顔にトレーシングペーパーを押し当て、フロッタージュで写し取る。表面の痕跡を残したその紙を、仮面のように顔の前に吊るしたまま、2人はそれぞれ、別々の写真について説明し始める。参照された写真集は、鬼海弘雄の『東京ポートレイト』、石内都の『モノクローム 時の器』と大野一雄の肉体を写した『1906 to the skin』。鬼海の撮った奇抜で個性的な風貌の人々について、身振り手振りを加えて説明する2人は、服装や目鼻立ちなど外見的な特徴を説明するうちに、どれほど言葉を費やしてもイメージに追いつけない焦りが、振り回した腕や前後左右にドライブする上半身の動きとなって身振りの過剰さを加速させていく。あるいは、写された山の荒い岩肌や亀裂は、Tシャツの布地を寄せた皺や肩甲骨の盛り上がりと重ねられ、その形態的類似性は言葉を聞く観客の想像力の中で溶け合い、骨の陥没がマクロな大地となって新たなイメージを形成する。一方、「ここに木が生えていて、ここからここまで山肌が広がっていて…」と自身の肩や背中を指差しながら腕や肩甲骨を動かしていく行為は、やがて説明する言葉への従属をやめ、ダンス的な運動の自律へと接近する。
こうしたイメージと言葉、イメージと身体の融合や乖離に加えて、もうひとつ前景化するのが、「時間」の要素である。モノクロームで写された「1989年製の冷蔵庫」には、何枚かのシールが貼られ、いくつかは剥がれて跡だけになっている。「今」剥がれているシールはかつて冷蔵庫に貼られていたはずだし、「今」貼ってあるシールもいつかは剥がれてしまう、と顔の見えない声が告げる。写真に凍結された「今」と、それを言葉で記述している「今」との、埋めようのないディレイ。写真の中の「今」も、冷蔵庫が製造された年、誰かの手でシールが貼られた時、何枚かが自然に剥がれた時、そして写真が撮られた瞬間、といくつもの時間の相を内包している。写真を記述する行為は、どこまでも写真の「表面」をなぞりつつ、時間の襞を分割していく。
後半、向き合った2人は、シャッターを実際に切る代わりに、互いを「言葉で」補足しようと試みる。「今、あ、今」「今、シャッターを切っていたら、肩の窪みが写ります」「さっき、シャッターを切っていたら、腕がこうなっている人が写ります」。「今」と言った瞬間に後退する「今」、明滅するフラッシュが告げる暴力性、眼差しの主導権を取り合う抗争。「今」を暴力的に切り取り、所有しようとする欲望は、捉え損ねた「今」の切れ端しか手にすることはできない。発語にかかる時間が、写真の「決定的瞬間」を解体させていく。
シンプルな構成の中に、演出家と写真家、それぞれの思考が拮抗しつつ浮かび上がった公演だった。なお、この企画は公演だけで終わらず、2016年度内に展覧会も予定されているという。
2016/08/28(高嶋慈)
家族写真
会期:2016/08/26~2016/08/28
アトリエ劇研[京都府]
同世代の演出家と写真家、それぞれ2組が、演劇/写真/ダンスの境界を交差させて共同制作を行なう企画、『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』の2本目。「身体の展示」として展覧会も行うダンサー・振付家・演出家の倉田翠(akakilike)が、「家族写真」というフォーマットを足がかりに、写真家の前谷開と組んだ。前谷は、カプセルホテルの内部の壁に落書きしたドローイングとともに撮った全裸のセルフ・ポートレイトや、同居人の後ろ姿になりすまして撮ったポートレイト、床下の地面に掘った穴の中で行なった行為の痕跡を写真化するなど、自身の身体性を基盤としながらフィクショナルな要素を混在させた写真作品を制作している。
本作での前谷は、「家族」の一員を演じつつ、「写真家」としての外部の視線を行き来する、奇妙なポジションに身を置いている。舞台は、折り畳み式の机が運びこまれ、組み立てられるシーンから始まる。そこに集う6人の男女。机は、「マイホーム」のメタファーであり、その上でそれぞれがソロやデュオを踊る「もうひとつの舞台」でもあり、腰かける椅子やフローリングの床へと変貌する。無機質で仮設的な「ホーム」で繰り広げられるのは、同じ空間に同居しながらも、それぞれが違う次元に身を置いているかのような奇妙な「家族」の不調和なアンサンブルだ。「お父さんがもし、死んだら、皆はどないする? 今日、ライフプランナーっちゅう人のところに行ってきたんや。お父さんが死んだら、現金500万円、もらえるねんて。不思議な商品、めっちゃええやろ」という大阪弁のモノローグで、生命保険について淡々と語り続ける父親。チャイコフスキーのバレエ音楽にのせて、優雅な手足の動きを断末魔のように繰り返す母親。のたうちまわるように激しく踊りながら、盛大に血を吐く若い女性。幼い手足で一生懸命にバレエを披露する少女の姿は、張りつめた緊張感を和らげる微笑ましさを持っているが、彼らは度々動きを中断して静止ポーズを取る。少女と手を握り合う前谷は、兄の役だろうか。彼は家族の一員として舞台上で関係を結びながら、ふっと外に出ては、三脚のカメラで舞台上の出来事を撮影する。内部と外部を撹乱し、見られる客体としての身体と見る主体としての撮影者を往還するその様子は、記録撮影の写真家という「身体」が、ぬっと舞台上に侵入してきたように感じられて、出来事の不穏さをいっそう加速する。
渦中に身を置いて行為に参加しつつ、行為を記録する。フィクショナルな出来事(「家族」という単位自体がすでにフィクショナルである)を創出しつつ、そのドキュメントを同時に行なう。対象との距離感、二重性の担保、倫理性など、ダンス公演であることを超えて、「行為としての写真家」をあぶり出していた点で興味深い作品だった。
2016/08/28(高嶋慈)
Gallery街道 オープニング展
会期:2016/08/20~21、27~28、09/03~04
Gallery街道[東京都]
尾仲浩二が東京・南新宿の青梅街道沿いのビルの3階にGallery街道をオープンしたのは1988年。壁を銀色のペンキで塗り、のちに写真集『背高あわだち草』(蒼穹舎、1991)にまとめられる「背高あわだち草」のシリーズを28回にわたって展示した。1992年にいったん閉廊するが、2007年に南阿佐ケ谷のアパートを改装して第一次Gallery街道をオープンする。こちらは中断期間を挟んで2014年まで続いた。
写真家たちが自分たちで運営する自主ギャラリーには、どうやら抗しがたい魅力があるようだ。一度メンバーになれば、仲間たちと苦労をともにしながら活動を続けていくなかで、さまざまな出会いと別れがあり、ギャラリーの生き死ににも立ち会うことができる。尾仲もまた、そんな自主ギャラリーの引力に引き寄せ取られてしまった1人と言えるだろう。
そのGallery街道が、今回、中野駅北口近くにリニューアル・オープンすることになった。メンバーは尾仲のほかに岡部文、佐藤春菜、鈴木郁子、中間麻衣、河合紳一、小松宗光、酒巻剛好、本庄佑馬、藤田進である。そのお披露目の展示は、とりあえずの顔見せ展という感じだったが、尾仲とともに第一次Gallery街道を立ち上げた藤田進や、第二次Gallery街道のメンバーだった佐藤春菜など、自主ギャラリーの展示空間を熟知しているメンバーがいるのが心強い。彼らと新人メンバーとがうまく噛み合って、活気のある意欲的な展示活動を展開していってほしい。
9月からは岡部文展(9月10~18日)を皮切りに、メンバーの写真展が次々に開催される。メンバーだけだとマンネリになりがちなので、ゲスト作家の展示もうまく挟み込んでいくといいと思う。
2016/08/28(飯沢耕太郎)