artscapeレビュー
2022年08月01日号のレビュー/プレビュー
「木で創る─その蓄積と展開─」/金沢21世紀美術館コレクション展1「うつわ」
[石川県]
谷口吉郎・吉生記念金沢建築館の第5回企画展「木で創る─その蓄積と展開─」は、同館が2019年にオープンして以来、大型の模型がもっとも数多く集まった内容だった。導入部では、金沢工業大学の学生が制作した壁が出迎え、その向こうにやはりこれまでになく大きな断面図(1/10の妙成寺五重塔や1/100のW350計画=木造超高層建築物)、映像、そして実物の杉板材が控える。展示室の内部は、左側に「伝統木造の蓄積」、奥に震災や台風の災害を紹介する「都市化と木造建築」、右側に「新木造の展開」という構成だった。すなわち、石川県のチカモリ遺跡環状木柱列や福井県の一乗谷朝倉市遺跡朝倉館跡など、古建築から、金沢駅鼓門、金沢エムビル、ニプロハチ公ドーム(大館樹海ドーム)、スイスのSWATCH新本社など、現代木造の挑戦まで、北陸の事例を交えながら紹介している。とくに迫力があったのは、いずれも縮尺1/10の正福寺、南大門、光浄院の巨大模型である。所蔵は東京国立博物館だが、普段は金沢工業大学のキャンパスに設置されているものだ。近年、建築界では、木を使うことが注目されているが、改めて過去から現在、そして未来への展望をつなぐ試みである。戦災や震災がなく、木造建築が多く残る金沢ならではの企画だろう。実は金沢は、全国でもめずらしい金沢職人大学校が運営されており、各種の職人技や、歴史建造物の修復などを学ぶことができる。しかも学費が無料だ。
金沢21世紀美術館では、コレクション展1「うつわ」において、金沢らしい建築家の作品が展示されていた。奈良祐希による「Frozen Flowers」シリーズのインスタレーションである。彼は金沢に拠点を置く建築家であり、昨年は期待の若手が集うU-35の展覧会にも参加していた。そこでも陶芸作品を展示していたが、陶芸家としても活動している。東京藝大の大学院のときに休学し、多治見市の陶芸学校に行ったことがきっかけらしい。金沢21世紀美術館では光庭において炎のゆらぎをイメージさせる作品群を並べている。これらはCADを用いた造形だが、今回そのドローイングもとても美しいことに気づいた。会場では、白い壁にドローイングを貼っていたが、2次元だからこそ不安定な線が想像力を膨らませる。
第5回企画展「木で創る─その蓄積と展開─」
会期:2022年6月25日(土)~11月27日(日)
会場:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館
(石川県金沢市寺町5-1-18)
コレクション展1 うつわ
会期:2022年5月21日(土)~10月16日(日)
会場:金沢21世紀美術館
(石川県金沢市広坂1-2-1)
2022/07/09(土)(五十嵐太郎)
江之浦測候所
江之浦測候所[神奈川県]
なかなか行く機会がなく、ようやく訪れた江之浦測候所。相模湾を見渡すみかん畑の斜面を丸ごと作品化したそれは、美術館でもなければ博物館でもない、ましてやテーマパークなんぞでは断じてない。そこは宇宙の時間を観測する「測候所」であり、壮大な「アースワーク」とも呼ぶべきものだった。
JR根府川駅から朝一の送迎バスで15分ほど。バスを降りて坂道を上る途中、赤沢蜂巣観音という小さな祠がある。江之浦集落で信仰を集めた赤沢観音堂を再建したもので、中央には蜂が巣をつくった円空仏が祀られている。ヒェ~本物かよ。開門と同時に入場して、荷物を預けるため全面ガラス張りの待合棟に寄る。ここの大テーブルには樹齢千年を超える屋久杉が使われているという。少しも手を抜かないなあ。まずは夏至光遥拝100メートルギャラリーへ。その名のとおり夏至の日に朝日が真っ直ぐに射すように設計された細長い空間だ。その脇に光学ガラスを敷き詰めた舞台と、イタリアで実測し再現した古代ローマの円形劇場をしつらえ、その下を冬至光遥拝隧道が通る。円形劇場の上には能舞台の寸法に基づいた石舞台が築かれ、舞台の橋掛りには23トンの巨石が据えられ、その軸線は春分秋分の朝日が相模湾から昇る軸線と合致する。基本設計は古代遺跡と同じく天体の運行に合わせてあるのだ。
小道に沿って斜面を下っていくと、道端に各地から運び込んだ石柱や石仏、地蔵の類が置かれ、古い道具小屋を改装した化石窟に着く。内部にはアンモナイトや三葉虫、ウミユリなどの見事な化石のほか、古代ペルシャの青銅斧、楔形文字の刻まれた粘土板、この小屋に残されていた道具類などが展示されている。なんなんだこの数億年のタイムスリップは。さらに下ると、国東半島の五輪塔や信貴山の道標などに混じり、《数理模型0004 オンデュロイド:平均曲率が0でない定数となる回転面》《数理模型0010 負の定曲率回転面》といった杉本の幾何学彫刻が置かれている。見晴らしのいいみかん道を行くと、奈良円城寺の春日堂を再現した柑橘山春日社が建ち、この春めでたく奈良の春日大社より御霊を勧請したと「日曜美術館」でも紹介されていた。ほかにもそこかしこにいわれのある物件がさりげなく置かれ、無料のガイド本はウンチクまみれ。
先に「アースワーク」と述べたが、その理由は3つある。まず、山の斜面を文字どおり「土木工事」によって造成したこと。また、石や植物、化石など地球(アース)がつくった造形(ワーク)で成り立っていること。これを自然の「アースワーク」とすれば、ここはストーンサークルなどの古代遺跡や現代のランドアートのように、自然素材を組み合わせて人間がつくり出した芸術としての「アースワーク」でもあることだ。このアースワークはまだまだ現在進行形で続いているという。いわば「みかんのプロジェクト」。
2022/07/10(日)(村田真)
ACAO OPEN RESIDENCE ♯7
会期:2022/07/09~2022/07/10
ホテルアカオ[静岡県]
熱海のホテルアカオにおいて、5人のアーティストが約1カ月間滞在・制作した作品を発表するほか、これまでのレジデンスアーティスト20数人による作品も展示している。会場は、コロナ禍のためか昨年に宿泊営業を終了したニューアカオ館の客室や宴会場と、その上のアネックス(1階がニューアカオ館の15階につながっているほど高低差が激しい)のロビーやダイニングなどを使用。このプロジェクトは昨年3月に始まり、すでに7回目を迎えるので、2、3カ月に1回のハイペースで実施していることになる。主催はPROJECT ATAMIで、発起人に寺田倉庫前社長でホテルニューアカオの代表取締役会長の中野善壽氏、実行委員長にホテルニューアカオ代表取締役社長の赤尾宣長氏、総合ディレクターにアイランドジャパンの伊藤悠氏が名を連ねている。アート界とのパイプは太そうだ。
行ってみて驚いた。なにに驚いたかって、ホテルの立地。海に張り出して建つ17階建てのニューアカオ館の窓から望む太平洋や、階下のダイニングから眺める断崖下の洞窟などは、いっちゃあ悪いがそこに置かれた作品が邪魔に感じられるくらいの絶景なのだ。たとえば、3面ガラス張りの宴会場には海岸で採取した流木が並べられているが、観客の視線は作品を通り越してつい水平線に向けられる。逆に目に止まったのは、風光明媚とは対極的な場所に潜んでいる作品だ。そのひとつがゲームコーナーを作品化した小金沢健人による《ファンシーパニックラッキーウォーズ》。12台のゲーム機がひっそりと置かれたコーナーに行くと、いきなり1台が音を立て、光を発し始める。連鎖するように別のゲーム機も動き始め、無人のゲームコーナーが勝手に遊び出すという趣向だ。これは過去の作品らしい。
もうひとつは、旧大浴場における冨安由真の《Unison_Circle》。すでに閉鎖された大浴場の入り口に新たに壁をつくり、ドアを設置している。観客はドアを開けて解体中の更衣室を見ることはできるが、それより奥は立ち入り禁止で、浴室にあるはずの冨安の作品は見ることができない。消化不良のまま、もうひとつ冨安作品があるという階上の一室に行くと、VRのゴーグルを渡され、廃墟となった大浴場のインスタレーションを仮想空間で体験できるという仕組み(実際に見た順は逆だが)。いったい、廃墟の大浴場でインスタレーションしたかったのか(でも見せられないからVRを使ったのか)、それとも、VRでその場にはない作品を見せたかったのか(そのために立ち入り禁止の浴場に作品を置いたのか)。冨安がどちらを先に発想したのか知らないが、この場合は両者が過不足なくぴったり一致している。そこがすばらしい。
2022/07/10(日)(村田真)
間庭裕基個展「室内風景—camera simulacra—」
会期:2022/07/02~2022/07/18
本展に並ぶ写真作品《Liminal Photo》は、間庭裕基の祖父の家の壁が光や熱で焼けた跡を撮影したものだ。家に入りこむ光や屋内照明の紫外線、あるいは家電のモーターの熱は、壁に貼られたカレンダーや時計やプリントや電子レンジのようなものを取り除いたときに、ぽっかりと白く、あるいは、その物質を縁取るようにして溜まった粉塵で黒く、かつての存在を壁紙に焼き付けていた。物そのものが不在となった後も「何があったのか」をギリギリ感知させるほどに。
奥の部屋に入ると、玄関からの光の消失点かのような位置に《echo》(2022)という映像作品があった。窓からの光をあびるように佇む男が白んで浮かび上がっては僅かに動いて見える。モニターが焼き付きを起こしそうな緩慢な映像のあとには、水場と窓があって、そこに立てかけられたスマートフォンに映し出されている《sleep》(2022)。その映像には窓辺の朝日を感じさせる無人であっけらかんとしたベッドルームに、かつてMacOSで使用されていたスクリーンセーバーのモーションが重ねられていた。PCをはじめ多くのデバイスで使用されていたCRTモニターは、同一映像の長時間表示による画面の焼き付けを防ぐためにスクリーンセーバーが自動表示されていたが、現在はLCDモニターが席巻し、無用の長物となった。その横では、キャプションに記名はないがスタジオ撮影用のLEDライトが煌々と夕焼けのように光り、屋内の壁をガラス越しに照らしていた。この会期期間中の痕跡は、この程度の光では留まらないとでも言いたげなように。
というわけで、本展では、人が感知できないような建物の壁やデバイスの累積する物理的変化、デバイスの技術革新といった時間幅が扱われ、ゆえに人の網膜へ直に到達するブルーライトは主題から外されたのだろう。また、触れなかったが、会場に入ってすぐにあるステレオスコープカードを模した紙に二つの写真が組み込まれた《here and there》は、ドアの穴をピンホールカメラに見立て撮影した写真と、扉に映像を投影した状態で撮影した写真が並んだものだ。左右の視差が記録されていれば三次元が現われるはずのカードには、まったく違う景色が隣り合っている。その異種が混然一体と並ぶ様子からわたしはハンドアウトにあるような「ネットワーク化された写真」の「幻」を受け取ることはできなかったが、長屋独特の奥まっていくにつれ暗がりになっていく空間を上手く使用し、多層的な時間を閉じ込めた展覧会だったと思う。
なお、本展は300円で観覧可能でした。裏手には「あをば荘」があります。
公式サイト:https://camerasimulacra.com/
2022/07/10(日)(きりとりめでる)
完璧に抗う方法 - the case against perfection - 佐藤史治と原口寛子/関真奈美「2人だけでも複雑/はじけて飛び散り、必然的にそこにおかれる」
会期:2022/07/02~2022/07/18
あをば荘[東京都]
本展はアーティストである図師雅人と藤林悠によって企画された連続二人展の第4回目だ。二人は出展作家たちの生い立ちに触れるようなインタビューを行ない、そこから展覧会を構成した(4回目からは図師のみ)。展覧会の企画者が出展作家についてリサーチを行なうことは常である。ただし、本展においてそのリサーチは、作品はメディウムに関する視点だけで語ることはできないという立場から出発している。作品の鑑賞にそういった、作者の自伝性といった、ロマン主義的な観点をどのように挿入するべきかを見直す取り組みでもある。もっと言うと、人生というよりも日々の営み、技術、あるいは他者、作品を含めた物事との出会は、アーティスト(ひと)にどう影響するのか。
今回は、佐藤史治と原口寛子、関真奈美の二組展だ。二組はそれぞれ藤林と図師からインタビューを受けたあと、それぞれの過去作を受け、新作を発表している。本展の出発点となっているのは、佐藤と原口の《手のシリーズ》(2011-19)、関の《shadowing》(2011)だ。《shadowing》は語学学習のときに、ネイティブの発音を少し遅れつつ真似ながら口に出して学ぶシャドウイングに由来する、パフォーマーが公共の空間にいる人の身振りをなぞり続ける映像作品である。これは関の最初期の作品だ。後の、録音した発言をもとに行動も再現しつづける「サマータイム」シリーズ、関が他者に指示を出し、展覧会会場や公共の場でその通りにふるまってもらう「乗り物」シリーズと比較すると、関の作品には「真似とは何か」「指示する存在とは何か」「映像になっていない、映像のルールを決めるプロセス」についての問いが浮かび上がってくる。
というのも、佐藤と原口が《shadowing》を「真似」という方向で受け止め、新作である「SH」シリーズを制作したから、わたしはそれを考えることができた。
例えば、《SH#1》(2022)は紙に鉛筆で描かれたドローイングが2対あるものだ。片方は佐藤と原口のどちらかが《shadowing》について描いたもので、片方はそのドローイングを模したもうひとりのドローイング。前者にとっては意味のある文字と線も、後者にとってはただの形象かもしれないという状況。二人がどのような取り決めで実行したかによって、真似の産物であるドローイングの意味は鑑賞者にとって変わるが、それは開示されない。
こういった鑑賞を経たとき、佐藤と原口が2011年から2019年に制作した映像作品を組み直した《手のシリーズ》(2022)の視聴体験もまた変化した。《手のシリーズ》は、二人の右手がとある挙動を行なう様子だけが撮影された、無言の映像作品だ。それぞれの人差し指が照明のスイッチのオンオフを押し合い圧し合うような無限の拮抗、水の入ったバケツをいかに受け渡すかという相手の気配を察するようなリレーというように、その様子は調和的なものもあれば競争的なものまである。
しかし、関の《shadowing》への応答が入ることによって、佐藤と原口の映像のそと、制作の過程での二人の話し合い、間合いまで想像させられるようになる。どこまでが事前に決められていたのだろうかと。
関も二人の作品に応答し、影絵の写真作品を出展している。現在、関はフランス在住なのだが、作品の輸送は困難だ。そのとき、データと出力での転移のずれが少ないという理由もあって、本展では紙がメディウムに選ばれている。関は手の型紙を切り抜いて影絵をつくっている。型紙はスキャンされ、そのデータが出力されたA4用紙が展示されているのだが、フランスでの居住に際し、関は日常的に大量の書類の出力と入力が必要になり、渡仏後に最初に買った機材がスキャナということもあって、今回の作品に至ったとアーティストトークで明かしていた
。展示作品のうち、書籍である佐藤と原口の《私家版 日比谷公園の歴史》(2021)はほかの鑑賞者がいて読めなかったのだが、どうやら某公共図書館で借りれるものらしい。作品のできる前を鑑賞者に考えさせようとした本企画は、誰かの在廊による「実は」という語りが前提だったのだろうかどうかとふと考える。出展作家たちは、アーティストトークで生活の開示を行ない企画主旨に応えながらも、各々の過去作への応答のラリーによって、作品自体への着目──作品が人の命よりも長く、あるいは公開・収蔵により複数化する可能性の造形が、作品の鑑賞における思考の及ぶ範囲──を、作品が生まれてしまった後へも同時に引き伸ばすことを実現していたように思う。
なお、本展は無料で観覧可能でした。裏手には「文華連邦」があります。
公式サイト:http://awobasoh.com/archives/2251
2022/07/10(日)(きりとりめでる)