artscapeレビュー
2022年08月01日号のレビュー/プレビュー
Yui Takada with ori.studio CHAOTIC ORDER 髙田唯 混沌とした秩序
会期:2022/07/11~2022/08/25
ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]
本人の外見と生み出す作品とが一致しないクリエイターは多い。無骨な風貌の作家がとても繊細で美しい作品をつくり出すことはままあるが、グラフィックデザイナーの髙田唯はその逆だ。華奢で凛とした雰囲気に反して、どこか力の抜けた作品が多い。本展を観てますますそれを確信した。まず、会場1階で待ち受けるのは凧である。壁から天井にかけて、人の形を全面に記号的に描いた色とりどりの凧が網の目のように吊り下げられていた。「人と人とがつながり続ける世界」というメッセージがそこにはあるのだが、いかんせん手づくりの凧であるため、ゆるさを伴って伝わってくる。
地下1階にはさらに髙田唯ならではの「混沌とした」作品の数々が発表されていた。スポーツ新聞の記事や広告を小さく四角に切り取ったトリミング、駅や施設などで見られる黄と黒の縞模様のアテンションサインの写真、食品の成分表示の手書き模写など、さまざまなテーマのもとで収集や制作した結果や記録のようなものが並んでいた。彼は実験や観察を好むタイプなのだろう。街で自然発生している現象や人々の何気ない行為、痕跡を無視することができず、そこに人一倍の関心を寄せてしまう。もしかすると彼はそこにデザインの原初を見出そうとしているのではないか。
通常、専門教育を受けたり訓練を積んだりした人がプロのデザイナーとなるわけだが、非デザイナーでも人は身の回りのものを使いやすく加工したり、新たに何かをつくったりすることがある。プロではなくとも、そうした行為はデザインの一環と言える。髙田唯が着目するのは、そうした無意識や無作為の下で行なわれているデザインなのではないか。プロのデザイナーの目から見ると、そこに新たな発見や気づきがあるからこそ惹かれるのだろう。それは、どんなにプロとしての腕を磨いても決して到達できない未知の領域でもあるからだ。本展のタイトル「CHAOTIC ORDER」とは「混沌とした秩序」である。まさに混沌としていながらも、あるテーマで括ることで、そこに何らかの秩序が生まれるのを見て取れた。「混沌としたもの」への愛があるからこそできる試みだと痛感した。
公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000788
2022/07/15(金)(杉江あこ)
幸本紗奈「unseen bird sing」
会期:2022/07/09~2022/07/23
東塔堂[東京都]
幸本紗奈が2019年に刊行した『other mementos』(Baci)はクオリティの高い、とてもいい写真集だった。今回展示された「unseen bird sing」は、それに続く作品ということになる。だが、出品されている写真は最近のものだけではなく、かなり前、あるいは『other mementos』の時期に撮影されたものも含んでいる。というより、幸本の作品世界は、あまり時間的な経過には関係なく、むしろさまざまな時空の断片を拾い集め、組み立ててゆくものなので、過去作かどうかはあまり問題にならないのではないだろうか。
前作と同じく、今回もまたプリントのクオリティへの強いこだわりを感じる。ブルーのトーンを基調として、赤や緑を染み込ませるように配置し、手が届きそうで届かないような夢のような感触を与えている。鏡、水、鳥、植物などのイメージを相互に関連づけていく取り扱い方も、さらに洗練されてきた。
だがこのままだと、何を伝えたいのか曖昧なまま、居心地のよい世界に安住することになりかねない。幸本に必要なのは、個々の写真を結びつけ、つなぎ合わせていく骨格=テキストなのではないだろうか。展示を見て、写真が言葉を欲しているように見えてきてならなかった。幸本には文学への関心もあり、タイトルの付け方ひとつを見ても、言葉をしっかりと使うことができる能力を備えていることがわかる。むしろ断片的なものでいいから、各写真とテキストとを並置するような展示、あるいは写真集をぜひ見てみたい。
2022/07/16(土)(飯沢耕太郎)
土田ヒロミ『Aging』
発行所:ふげん社
発行日:2022/06/23
土田ヒロミの「Aging」シリーズは、まさに破天荒としかいいようのない作品である。土田は1986年7月に、すでに老化の兆しを感じ始めていた自分自身の顔を「毎朝の洗顔のように」撮影しようというアイデアを思いついた。区切りがいいということでいえば、翌年の1月1日からだが、そこまで待つと計画が流れてしまいそうに感じて、同年の7月18日から撮影を開始する。以来その営みは36年にわたって継続されることになる。今回、ふげん社から刊行された写真集には、1986-2021年撮影の全カットがおさめられている。何らかの理由で撮影ができなかったり、データが消失してしまったりした日もあるので、総カット数は約1万3千カットということになる。
土田はこれまで、この「Aging」を個展の形で2回発表している。撮影10年目の1997年に銀座ニコンサロンで、そして撮影33年目の2019年にふげん社で。この2回目の個展に展示した写真群に、その後の3年分を加えたものが、今回の写真集制作のベースになった。そこでは、これだけの量の写真を写真集という器の中にどうおさめるかが最も重要な課題になったのは間違いない。写真集のデザインを担当した菊地敦己も、だいぶ苦労したのではないだろうか。結果的に、写真を顔がぎりぎりに識別できる最小限の大きさまで縮小し(11.5×14.5㎜)、横18コマを21段重ねた27.2×28.7㎝の方形のフレームに、1年分の写真がおさまるようにレイアウトした。写真図版の対向ページには、撮影年月日を記したコマが並び、それぞれの写真と対応するようになっている。
現時点ではベストといえるレイアウト、デザインだと思うが、問題は「Aging」シリーズがこれで完結したわけではないということだ。土田は80代を迎えてもまだまだ元気であり、本シリーズもこの先まだ続いていくはずだ。あながち冗談ではなく「死ぬまで続く」はずの本作を、これから先どんな形で発表していくのか、おそらく土田のことだから何か考えているはずだが、どうなっていくのか興味は尽きない。
2022/07/16(土)(飯沢耕太郎)
中村ハルコ「光の音 Part II- echo」
会期:2022/07/07~2022/09/04
カスヤの森現代美術館[神奈川県]
中村ハルコ(1962-2005)は、2000年の写真新世紀展に自らの出産体験を撮影した「海からの贈り物」を出品してグランプリを受賞した。一方で、1993年から98年にかけてイタリア・トスカーナ地方をたびたび訪れ、その土地に根ざして生きる老夫婦と家族の写真を撮り続けていった。それらは、彼女の没後に写真展で展示され、写真集『光の音-pure and simple』(フォルマーレ・ラ・ルーチェ、2008)にまとまる。今回のカスヤの森現代美術館での展示は、その続編というべき企画である。
トスカーナ地方の人々、風物を捉えきった、生命礼賛、慈しみの感情にあふれる描写は、中村にしか撮れない世界ではないだろうか。日本からはるばる訪れたという距離感も、とてもうまく働いたのではないかと思う。農家の人々が、彼女をあたかもマレビトのように受け入れ、手放しで、心から歓待している様子が伝わってくる。何よりも、差し込む光と吹き渡る風の描写が素晴らしい。フィルムで撮影していることによって、プリントに微妙な揺らぎが生じ、それが見る者に快い波動となって伝わってきた。彼女が惜しまれつつ亡くなってから17年、前回の発表から10年以上も過ぎているわけで、より若い世代の観客に、このような形で中村の仕事を引き継いでいくのは、とても大事なことだと思う。
今回の展示には間に合わなかったが、『光の音 PartⅡ』を写真集として刊行する計画もあるようだ。中村のほかの仕事も含めて、あらためて、彼女の写真家としての軌跡をふり返ってみる時期に来ているのかもしれない。
2022/07/17(日)(飯沢耕太郎)
ゲルハルト・リヒター展
会期:2022/06/07~2022/10/02
東京国立近代美術館[東京都]
瀬戸内海に浮かぶ豊島(とよしま・愛媛県上島町)に恒久展示されているゲルハルト・リヒターの作品《14枚のガラス/豊島》を、一般公開される前に私は観たことがある。とあるNPOの仕事に携わっていた関係からだ。14枚のガラス板には周囲の竹林や目の前に広がる瀬戸内海、その遠くの島々がぼんやりした輪郭で映し出され、日本で言うところの「借景」が幻想的に表現されていた。単に景色が素晴らしかったのか、リヒターによるこの“仕掛け”が相乗効果をもたらしていたのか、いまとなってははっきりしないが……。
さて、日本の美術館では16年ぶりとなるリヒターの個展が開催中だ。会場には多岐にわたる表現方法の作品が並んでいたが、総じて観客に挑戦状を突きつけるような内容だったように思う。何より注目は4点から成る作品「ビルケナウ」だ。一見すると抽象絵画なのだが、タイトルが示すとおり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を主題としている。なんと抽象絵画の下層には、当時の囚人が隠し撮りした写真を元にしたイメージ画が描かれているのだという。しかし表面に表われているのは黒と白、ところどころに赤と緑を荒く塗り込んだ絵具のみ。もしタイトルも解説も知らずに観たならば、単なる抽象絵画にしか映らないのに、知ってしまうと、穏やかな気持ちではいられなくなる。いったい、そこに“本当は”何が描かれているのかと頭の中で暗い想像が巡るからだ。そうすると目に映る絵具ではなく、頭の中の風景がそこから滲み出てくるような感覚に襲われる。「どうだ、君らにこのイメージ画が見えるか」と、まるでリヒターに挑まれているような気持ちにもなった。しかもイメージ画の元になった同強制収容所の内部の写真(複製)が側で展示されていて、悲しくも、その暗い想像を助けた。
1932年にドイツで生まれたリヒターは、ナチス政権下で幼い頃を過ごしたことになる。ホロコーストを題材とすることは、おそらく自身のアイデンティティーに向き合うことと同義なのだろう。何度か取り組もうと試みたものの、この深刻な問題に対して適切な表現方法を見つけられず、晩年に差し掛かってようやくこの方法に到達したのだという。あくまでも観客の心の目に委ねたところが心憎い。豊島で観た同類のガラス作品も本展で展示されていた。当たり前だが、あの美しい瀬戸内海の景色はここにはなく、ガラス板に映るのは自分やほかの観客の影、周囲の作品だった。自分の目の前にある作品をどう観るか。どう捉えるのか。終始、それが試された展覧会だった。
公式サイト:https://richter.exhibit.jp/
2022/07/17(日)(杉江あこ)