artscapeレビュー
2009年10月01日号のレビュー/プレビュー
平沢豊/ポール・ヴァン・リール写真展
会期:2009/09/01~2009/09/14
新宿 Nikon Salon[東京都]
1969年の東大全共闘とアムステルダム大学占拠をそれぞれとらえた写真展。モノクロであわせて70点あまりが展示された。同時期に生まれた若者の叛乱を収めた写真を見比べてみると、いかにもフランス的、日本的としかいいようがない、差異に気づく。あちらが乾いた気候でおしゃれにのんびりと大学を占拠しているのにたいして、こちらでは湿った風土のなかで必死にがっつきながら闘っているとでもいえようか。このちがいは歴然としているが、昨今の新しい運動形態は、このあいだの距離を双方から縮めているように思われる。いま、同じような発想で写真を撮り比べてみたら、どうなるのか、興味深い。
2009/09/14(月)(福住廉)
ある風景の中に
会期:2009/09/15~2009/10/18
京都芸術センター[京都府]
日頃見慣れた風景を改めて見つめ直すことで、何かしらの発見を促す作品を集めた展覧会。キュレーターの安河内宏法はその方法を2種類に分類。風景のなかに元々何があるのかを気付かせる作家として岡田一郎、鈴木昭男、藤枝守を、馴染みやすい物や音と自分との関係を操作する作家として、梅田哲也、矢津吉隆、ニシジマ・アツシを招いた。いずれも質の高い展示を見せてくれたが、筆者が最も感銘を受けたのは梅田哲也のインスタレーション。ワークショップルームという、展示には向かない空間を逆手にとり、一体どこまでが作品でどこからが普段の室内なのかわからないマジカルな空間を創出させた。また、鈴木昭男の出世作である、大量の空き缶を階段から落とすパフォーマンスの再現(観客自身の行動により再現される)も憎い展示だった。一方、ニシジマ・アツシと藤枝守の展示には注文がある。作品解説が欲しいのだ。私はボランティアスタッフの説明を聞くまでまったく見当違いの理解をしていた。同様の観客が少なからずいるはずだ。作品には魅力があるだけに、その点だけが惜しい。それにしても、最近の京都芸術センターの企画展は見応えがある。今後もこの好調を維持してもらいたいものだ。
2009/09/16(水)(小吹隆文)
神戸ビエンナーレ2009
会期:2009/10/03~2009/11/23
メリケンパーク、神戸港会場、兵庫県立美術館、三宮・元町商店街[兵庫県]
2007年に第1回が開催された神戸ビエンナーレ。その売りは、貨物コンテナを大量に持ち込んで展示会場に流用するという、港町・神戸を意識したプランだった。しかし、引きが取れず照明設備が劣るコンテナでは、インスタレーションや映像ならともかく、絵画や立体をまともに見ることは難しい。そうした設備面での悪条件と、さまざまなレベルの作品が混在した配置もあって、多くの課題を残す結果となった。今秋の第2回では、招待作家を兵庫県立美術館に集中させ、主会場のメリケンパークと連絡船で結ぶ方式を採用。さらに海上でも作品展示を行ない、スケールとグレードの向上を図っている。メリケンパーク会場で昨年同様コンテナが用いられるのは、筆者としては残念。しかし、兵庫県立美術館と海上で質の高い展示が行なわれるなら、前回以上の成果が期待できる。また、街中の三宮・元町商店街と美大生・専門学生による共同企画も予定されており、地元との密着が強く意識されている点にも好感が持てる。主催者の構想が額面通りに機能して、見応えのある催しになることを期待する。
2009/09/20(日)(小吹隆文)
アート&テクノロジー展 高橋匡太/疋田淳喜/吉岡俊直
会期:2009/10/23~2009/12/04
京都工芸繊維大学美術工芸資料館[京都府]
普段は建築やデザインの企画が多い京都工芸繊維大学美術工芸資料館で、珍しくアートの展覧会が登場。光を自在に操る作品で知られる高橋匡太と、マッドサイエンティスト風の世界観が持ち味で、少年少女科学クラブの活動でも知られる疋田淳喜、そして近年はCGを活用した映像や立体を制作している吉岡俊直という、理系心を刺激する(?)3作家が選ばれている。本展のもう一つの注目点は、キュレーターが平芳幸浩(元・国立国際美術館)だということ。彼が同大学に移籍して約1年半。ようやくお目見えする企画なのだから、期待も高まろうというものだ。
2009/09/20(日)(小吹隆文)
鎌田紀子「torotorotoro…」
会期:2009/09/20~2009/10/12
湘南くじら館「スペースkujira」[神奈川県]
岩手県在住のアーティスト、鎌田紀子の個展。布製の人形やドローイングなどを発表した。肌色のメリヤスなどを縫い合わせた人形たちが天井から吊られながら辛うじて自立し、椅子に力なく腰掛け、階段にゴロンと横たわる異様な光景に圧倒される。いずれも頭髪はなく、肌着を素材としているせいか、ひょろひょろの身体の肌質が妙に生々しい。こぼれ落ちそうなほど大きな眼は焦点が合っておらず、虚空を見つめているようだし、わずかに開いた口の奥に垣間見えるギサギザの歯が秘めた凶暴性を物語っているようでもある。ふつう人形といえば、人間との親密性を体現するものだが、鎌田の人形たちには、人間を受け入れながらも、どこかで突き放し、拒絶する、頑なな意思が垣間見えるのだ。その隠された半身の闇が、見る者にどうしょうもない居心地の悪さを与えているのかもしれない。だが、人間のコミュニケーションとは、どんなに深く理解しあったとしても、そうした裏切りの可能性が残されているのだすれば、じつは鎌田の人形は、ほんとうの意味で人間の精神を宿しているといえるのではないだろうか。
2009/09/20(日)(福住廉)