artscapeレビュー

2016年08月15日号のレビュー/プレビュー

美術評論家連盟主催 2016年度シンポジウム「美術と表現の自由」

会期:2016/07/24

東京都美術館講堂[東京都]

最初に美術評論家連盟主催のシンポジウムを聞いたのは、たしか1980年代初めのこと。テーマも場所もパネリストも忘れたけれど、司会の岡田隆彦に促され、会場にいた斎藤義重が戦前の日本の構成主義について語ったことは覚えている。つーか、それしか覚えてない。とにかくなんでいま構成主義の話なんかするんだろう、美術評論家たちは時代を超越しているなあと感心したものだ。あ、もうひとつ思い出した。客席がガラガラだったこと。……あれから約35年、シンポジウムは毎年のように開かれているようだが、聞きに行くのは今回が2度目。おそらく毎回空席が目立ったのだろう、案内には「申込不要・当日先着順」と記されていたが、結果的に230席のところに約300人が押しかけるという大盛況だった。これだけ関心が高いということは、それだけ表現の自由に危機感を覚えている人が多いということでもある。ひょっとしたら美術評論家連盟始まって以来、初の時宜を得た企画かもしれない。と無駄話を書いてるうちに字数が少なくなってきた。
まず事例報告として、自分の性器の3Dデータを配布したろくでなし子がわいせつ物陳列罪などに問われた事件、東京都現代美術館の「ここはだれの場所?」展で問題化した会田家の作品撤去騒ぎ、愛知県美術館の「これからの写真」展でクレームがついた鷹野隆大の写真に対する対応、そして、昭和天皇の肖像を使った大浦信行の作品を巡る富山県立近代美術館の迷走などが挙げられた。パネリストは美術評論家の林道郎と土屋誠一、愛知県美の中村史子、栃木県立美術館の小勝禮子、川村記念美術館(元富山近美)の光田由里の面々。30年前に起きた富山を除けばここ1、2年の問題なので、みんな切実感がある。以下、議論を簡潔にまとめる能力がないので、耳に残った言葉を列挙しておく。林「『美術かワイセツか』ではなく『美術だからワイセツではない』でもなく、表現の問題として考えるべき」、土屋「現政権より現天皇のほうがリベラル」、中村「学芸員が作家に対して規制することもあるが、それは学芸員の務めであり、検閲との境は曖昧」「表現は絶対的善ではなく、暴力性がつきまとう」、小勝「図書館は『知る自由』を掲げているが、美術館も見習うべき」、(会場から)ろくでなし子「アメリカやカナダでは英雄扱いされたが、そうなると表現することがなくなる。抑圧されたほうが表現ができる」。表現の自由は、無制限にではないけれど、最大限守られなければならない。そこに美術評論家連盟の果たすべき社会的役割も見出せるだろう。

2016/07/24(日)(村田真)

マンスリープロジェクト リーディング公演「門」別役実作

会期:2016/07/24~2016/07/25

新国立劇場小劇場[東京都]

主に欠勤中の公務員と靴みがきの門番によるシンプルな設定から始まり、会話が続くなかで両者の立場と状況が変容し、だんだん物語がねじまがっていく、別役実の作品らしい展開だ。最後になって、カフカの小説「門」ともオーバーラップしていく。朗読劇ながら、ミニマムな舞台美術も効果的だった。

2016/07/24(日)(五十嵐太郎)

トーク 川俣正のアートプロジェクト

会期:2016/07/24~2016/07/25

仙台市営地下鉄東西線国際センター駅2階市民交流施設 青葉の風テラス[宮城県]

川俣正のトークで聞き手をつとめるために、仙台の国際センター駅へ。いつも通過していた駅だが、この場所は京阪なにわ橋駅アートエリアB1のように使えたらいいと思う。前半のレクチャーでは、初期の過激な造形から社会的プロジェクト、道、橋、塔、ツリーハウスのタイプへの展開を話し、近作はいわゆる「地域アート」と違う参加と見せ方を試みるという。せんだいメディアテークが新しくアート・ノードの事業を立ち上げるのに、皮切りとして川俣正のトークが行なわれたが、彼も仙台でプロジェクトを始めるべく、サイトのリサーチに着手するという。これも含めて、今後、全国で濫立する芸術祭とは異なる方法論が仙台で模索される。

2016/07/27(水)(五十嵐太郎)

ポコラート全国公募展vol.6─作品は、どこから来たのか。作品は、どこへ行くのか。

会期:2016/07/16~2016/08/08

アーツ千代田3331メインギャラリー[東京都]

応募作品1632点のなかから選ばれた入選作品154点を展示している。倍率は10倍以上、日展より狭き門だ。ポコラートとは「障がいのある人、ない人、アーティストによる自由な表現」のことらしい。ここからいえることは、まず、障がいのある人にプライオリティがあること、それからアーティストは「障がいのある人」でも「ない人」でもない「第3の人」であること、そして合わせれば全人類に適用できることだ。すると、審査基準はアーティストでも障害のない人でもなく、「障がいのある人」に合わせているんだろうか。いまひとつわかりにくい。そのせいか、作品の落差もハンパない。A4程度の紙切れ1枚に色鉛筆でサラッと描いただけの頼りない絵もあれば(けっこうあった)、天井から床まで届く長い紙10枚に絵を描き、幅10メートルにわたって壁を占拠した猛者もいる。また、同じ「なぐり描き」でも、額装したものと、そのままピンで止めたようなものでは見え方がまるで違う。不思議なことにポコラートの場合、額装したものより、ペラ1枚そのままのほうがスゴミを感じさせるのだ。さて、勝手に村田真賞は、田村貴明の《好きな人の絵》と《私の願い》のセット。《好きな人の絵》のほうは大島優子、大久保悠、武田祐子、加藤綾子という4人のタレントの似顔絵を並べたものだが、恐ろしいことに4人とも同じ顔をしているのだ。《私の願い》のほうは「私の名前は田村貴明です」で始まり、「コンサート、見に、行きましょう。行けたらいいですね」で終わる、彼女たちに宛てた手紙形式の文章なのだが、彼女たちの名前以外はすべて同じ文面、同じ書体で書かれているのだ。これを本人たちに送ったりしたら犯罪になりかねないが、このように「ポコラート」として公開すれば、すごい、すごいといってホメるヤツもいるのだから世の中は楽しい。

2016/07/29(金)(村田真)

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久村卓「家内制スカルプチャー」

会期:2016/07/23~2016/07/31

アイコワダギャラリー[東京都]

久村は数年前にケガして以来、体力を要する彫刻制作を控え、家のなかでもできる彫刻を模索してきた。これが「家内制スカルプチャー」だ。どんなものかといえば、ブランド物のシャツの胸に刺繍されたロゴマーク(動物が多い)の下に台座を縫いつけ、ロゴの動物を彫刻のように見せかけるとか、椅子やベンチにシャツをぴっちり着せるとか、高級ブランド物の生地に空いた穴に安いファストファッションの生地をツギハギするとか。家内制スカルプチャーというより手芸であり、彫刻制作から概念操作への移行というべきかもしれない。おもしろい展開が期待できそうだ。

2016/07/29(金)(村田真)

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