artscapeレビュー
2019年05月15日号のレビュー/プレビュー
中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』
会期:2019/03/02~2019/03/10
シアターコモンズ'19では三つの「リーディング・パフォーマンス」が上演された。個々の演出家による演出=セッティングのもと、その回ごとに集った参加者=観客たちで戯曲を読み合わせるという試みだ。私は映画監督・エッセイストの中村佑子演出による『アリス・イン・ベッド』のリーディング・パフォーマンスに参加した。
『アリス・イン・ベッド』は批評家スーザン・ソンタグの戯曲で実在の女性、アリス・ジェイムズをモデルにしている。哲学者ウィリアム・ジェイムズ、小説家ヘンリー・ジェイムズのふたりの兄と同様、アリスもまた才能溢れる人物だったが、若くして精神を病み、その後は長らく病床にあった。戯曲はアリスの日記をもとにした彼女の人生の断片らしき場面と、さまざまな女性、アリスの母、詩人エミリー・ディキンソン、女性活動家マーガレット・フラー、オペラ『パルジファル』の魔女クンドリ、バレエ『ジゼル』の精霊の女王ミルタらが登場する空想的な「ティーパーティー」の場面によって構成されている。
リーディング・パフォーマンスの参加者は座った順に役と場面を指定され、ほぼ全員が何らかの台詞を読み上げることになる。指定は機械的に行なわれるため、「役」と「役者」の性別・年齢は一致せず、また、場面ごとに「役者」が交代するので「役」の一貫性も薄い。
抑圧された女性の声をときに男性が読み上げることになるのも狙いのひとつではあるのだろう。だが、それ以上に興味深かったのは、複数の人間がひとつの戯曲を同時に読むことによって私のなかに複数の異なる声が立ち上がることだった。誰かが読み上げる言葉を自らも同時に「読む」ことによって、そこには戯曲の=「役」の声とそれを読み上げる「役者」の声、そして黙読する「私」の声が同時に存在する。それは例えば「私だったらそのようには読まない」という差異として浮かび上がるだろう。「役者」の交代もまたそこに別の声を加えることになる。
登場人物の多くは抑圧された女性という点で共通しているが、しかし互いに意見が一致しているわけではない。ときに共感を示しつつ、彼女たちの言葉はほとんど独り言のようにすれ違い続ける。それは「抑圧された女性」としてカテゴライズされ、個人が再び抑圧されることへの抵抗のようでもある。
戯曲という共有地=コモンズの上に差異を浮かび上がらせること。手法が主題を鮮やかに切り出す中村演出の『アリス・イン・ベッド』は、シアターコモンズの名を冠するにふさわしい新たな取り組みとなっていた。
公式サイト:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/
2019/03/02(山﨑健太)
Jamie Lloyd Company『Betrayal』
会期:2019/03/05~2019/06/08
Harold Pinter Theatre[ロンドン]
結末の見えた物語は味気ないものだろうか。いや、行き着く先を知っているからこそより大きく心揺さぶられる、そんなこともあるはずだ。ハロルド・ピンターの戯曲『背信』はエマとロバート、ジェリーとジューディスの二組の友人夫婦の9年間を、しかし時を遡るかたちで描く。それはエマとジェリーが出会い、不倫をし、そして決別するまでの9年間だ。観客は彼らの「未来」を知りながら「今」に立ち会うことになるだろう。目の前で交わされる約束が実現されないことを、かけがえのないように思えるその出来事がやがて忘れられ、あるいは誤った記憶に置き換えられてしまうことを知っている観客は、だからこそより一層、そこにある「今」の儚さに思いを馳せる。未来への約束も過去の記憶も不確かだ。その儚さを舞台上の彼らが知ることはない。
ハロルド・ピンター劇場でのジェイミー・ロイド演出による『背信』はエマ役にゾウイ・アシュトン、ジェリー役にチャーリー・コックス、そしてロバート役に日本でも『マイティ・ソー』『アベンジャーズ』のロキ役などで人気のあるトム・ヒドルストンを迎え、実力派俳優たちの演技を際立たせるシンプルな演出で上演された。
戯曲『背信』においてジェリーの妻であるはずのジューディスは名前しか登場せず、それゆえエマ、ジェリー、ロバートの三角関係が強調される。しかもそこには男同士の強い友情も関わっている。「実を言うと、昔から君よりもやつの方が好きな位なんだよ。そう、僕があいつと関係した方がよかったんじゃないかな、この僕が」(喜志哲雄訳、ハヤカワ演劇文庫『ハロルド・ピンターⅠ』より)というロバートの言葉からも読み取れるように、それは幾分か同性愛的な要素を含んでさえいるものだ。『背信』のほとんどの場面は三人のうち二人だけの会話による。愛情であれ友情であれ、そこには残るひとりへの「背信」の気配が濃厚に漂う。
この三角関係の複雑さ、微妙さを、ロイド演出は三人をつねに舞台上に置くことでよりはっきりと可視化してみせる。二人を見守る壁際のひとり。それは逢瀬を楽しむ二人の頭を過ぎる姿か、あるいはそこにいる二人こそが壁際のひとりの妄想か。壁に映る二人の影は、不在ゆえの存在感を強調する。舞台上につねに三人目の視線があることで、展開される出来事はむしろ客観的事実であることをやめ、各々の記憶という不確かなものへと結晶していくのだ。
しかしだからこそ、終盤に採用されたある演出には疑問が残る。劇中、ジェリーがエマの娘シャーロットを「高い高い」したというエピソードが二度語られる。それがエマの家の台所でのことだったと言うジェリーに対し、エマはその都度、「あなたの家の台所」だったとそれを訂正する。記憶の不確かさを象徴するエピソードだが、ロイド演出では二度目のこの会話のあと、舞台上にシャーロットと思しき子どもが登場し、ジェリーが彼女を「高い高い」してみせるのだ。もちろんそのようなト書きはない。シャーロットの登場は(それが唯一の「正解」を与えるものでないにせよ)、この戯曲と上演の「儚さ」を損なってはいないだろうか?
公式サイト:https://www.pinteratthepinter.com/
2019/03/07(山﨑健太)
福井裕孝『舞台と水』
会期:2019/03/21~2019/03/24
スパイラル・ガーデン[東京都]
学生クリエイターを支援するクマ財団クリエイター奨学金の給付を受けた奨学生たちによるショーケース「KUMA EXHIBITION2019」の一環として上演された本作は「デスクトップシアター」の「ワークインプログレス」と冠されている。デスクトップシアターとはその名の通り、机上を舞台に見立てた演劇である。俳優は指。人差し指と中指を交互に前に出すことでヒトが歩く様子を表現するようなものを思い浮かべればおおよそのところは正解である。机上にはほかに盆栽や灰皿、掌サイズの石などが置かれ、「舞台美術」の役割を果たす。観客は机の前に三脚並んだ椅子に腰かけ、あるいはその後ろに立ってそれを「観劇」する。
そこだけ切り出して見るならば単なる手遊びと言えなくもないのだが、指の「本体」たる俳優もまたその存在を主張してくるところがこの作品の面白さだ。机の向こうの黒子であるはずの「本体」は隠れる様子もなく、過剰に目につくと言ってもよいくらいである。観客の知覚は机上の指による「演劇」とその背後の俳優(?)たちとの間を行き来することになる。
いや、この言い方は正確ではない。指は手と、手は腕と、腕は俳優の胴とつながっているのだから、そもそも観客はそれらを一体のものとして知覚しているはずだ。手遊びの部分だけが切り出され「演劇」として認識されるのは、つくり手が用意したフレームに観客が「ノって」いるからだ。
用意されているフレームは指=机上とその背後の「黒子」だけではない。福井は演劇が上演されている空間、あるいは上演の外側の環境をもフレームとして利用する。あるいはそれこそがデスクトップシアターの意義であると言ってもよい。開かれた空間の只中に「劇場」を置くこと。
イベントの性質上、上演は展覧会の会場内で行なわれた。展覧会の会場自体もまたオープンスペースであり、隣接する空間には展示と無関係な人々が行き来する。舞台となる机の向こうにはカフェとその客が見える。上演が始まるとすぐに、椅子に座って「観劇」している私の目の前にアイスコーヒーが置かれた。「舞台美術」であろうそれは、いま目の前にあるのが舞台であると同時にカフェとひと続きの空間に置かれた単なる机であることを強く意識させた。
さらに「外」を意識させられる場面もあった。上演中、視界の端にコンビニ袋が入ってきたかと思えばそれを提げているのは出演者のひとりで、彼はそこからペットボトルを無造作に取り出すと机上に置いたのである。商品から舞台美術へ。何食わぬ顔で行なわれる「侵犯」がフレームの恣意性を暴く。コンビニ袋を下げた男は私の視界に入ってきた瞬間には間違いなく「出演者」だったが、ではその前、私を含めた「観客」に認識される前の彼はどうか。私は机上を動き回る指を「俳優」として見ていたが、そこにつながる掌は、腕はどうか。そう考え始めると、何か奇妙に落ち着かないモノを見せられているような、そんな気分にもなるのであった。
KUMA EXHIBITION2019:https://kuma-foundation.org/exhibition2019/
公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater
2019/03/23(山﨑健太)
ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツと日本人建築家
[ ベトナム]
今回、ベトナムの各地で日本人の建築家と会い、見学を手伝ってもらった。ホーチミンでは、実験的なリノベーションのプロジェクトに挑戦する西島光輔、東京理科大学で小嶋一浩に師事していた佐貫大輔、安藤忠雄の事務所から独立した西澤俊理、そしてハノイでは、現在もヴォ・チョン・ギア・アーキテクツ(VTN)のパートナーをつとめる丹羽隆志である。彼らに共通するのは、全員がヴォ・チョン・ギアに誘われて、ベトナムでいっしょに設計を行なったことだ。なお、ICADAの岩元真明も、元パートナーであり、ファーミング・キンダーガーテンなどを担当している。そうした意味では、ひとりのベトナム人が日本で学んだことがきっかけとなり、じつに多くの日本人がベトナムと縁を持ち、今も現地で設計活動を続ける建築家がいるほか、筆者のようにベトナムに足を運ぶ建築の関係者が生まれたと言える。
VTN+佐貫+西澤による《ビンタン・ハウス(Binh Thanh House)》(2013)は、西澤が設計と現場の管理を担当した二世帯の都市住宅である。下部に施主がそのまま暮らしているが、上部は住民が入れ替わったことにより、現在は地下の天井高が低いガレージを西澤のオフィスに改造しつつ、上層を彼の住居としている。全体の構成としては、宙に曲面をもつコンクリートのヴォリュームを浮かし、そのあいだに風を通す共有スペースを入れる。ベトナムの文脈において現代建築を実現させた力作だった。
佐貫が設計し、自らも暮らす《ビンタンのアパート(Apartment in Binh Thanh)》は、彼がベトナムでスペースブロックを探求したこともあり、細長い敷地において部屋数を抑えつつ、豊かな共有空間のヴォリュームによって、中庭やテラスをかきとる構成が印象的だった。
また彼の新作《NGAハウス(NGA House)》(2018)は、細い路地を進み、街区の真ん中に突如、ヴォイドが旋回しながら、予想外の大空間が斜め上の方向に出現する。ちなみに、ベトナムは施主が天井高を求める傾向があるという。また建物の角を斜めにカットし、直射光を制御する。ゲストルームの数が多いのも、ベトナムの特徴らしい。
2019/04/05(金)(五十嵐太郎)
ヴォ・チョン・ギアの作品を見学する
[ベトナム]
久しぶりにベトナムを訪れ、各地で現代建築を見学した。最大の理由は、ヴォ・チョン・ギアの作品を見学すること。彼は1976年に生まれ、東京大学や名古屋工業大学などで学んだ後、2006年に帰国して事務所を立ち上げ、海外からも注目される活動を展開している。その特徴は緑を抱え込む建築であり、とりわけ竹を使うデザインがよく知られている。例えば、ホーチミンの郊外に新しく建設した自社ビル《アーバン・ファーミング・ハウス(Urban Farming Office)》は、食べられる植物を含むプランターを大量に吊るしたインスタ映えするファサードで事務所スペースを覆う。一方、内部はシンプルで細かいデザインはなく、大きな吹き抜けを中心に挿入している。
初期の作品、《ウィンド・アンド・ウォーター・カフェ(Wind and Water Cafe)》(2006)は、ギアのトレードマークである竹を生かした建築だ。それが囲む水盤と大樹の組み合わせが、心地よい空間を生みだす。またぐるりと湾曲した屋根の構成は、ギアが学んだ内藤廣の《牧野富太郎記念館》も想起させる。この発展形というべき、ハノイの《バンブー・ウィング(Bamboo Wing)》(2009)と《ダイライ・カンファレンス・ホール(Dailai Conference Hall)》(2012)は、細かい竹を束ねていく、純正な竹構造であり、その魅力を引きだした空間に好感を抱いた。他にダナンの《ナムアン・リトリート・リゾート(Naman Retreat / Naman the Babylon)》(2015)で竹の建築をいくつか見学したが、こちらは装飾的な扱いを含む。
やや異色だったのは、大きな靴工場に附属する従業員のための幼稚園、《ファーミング・キンダーガーテン(Farming Kindergarten)》(2013)である。手塚建築研究所の《ふじようちえん》は、屋根に登ることができる楕円のリングによる平屋だが、それを二層化しつつ、ひねったループとし、立体交差させながら、多様で複雑な場をつくる。意外にありそうでなかった構成ゆえに、楽しい空間の体験をもたらす。ベトナムは暑いために日本の《ふじようちえん》と違い、休み時間に屋根の上を走るという感じにはならないようだが、代わりに農地を設けている。もっとも、訪問時にはあまり緑が育っていなかった。ともあれ、緑を使うことは共通しつつ、異なるタイプの作品が存在するが、それは彼が様々な日本人の建築家と共同して設計していることに起因するように思われた。
2019/04/05(金)(五十嵐太郎)