artscapeレビュー

2012年08月01日号のレビュー/プレビュー

川内倫子 展 照度 あめつち 影を見る

会期:2012/05/12~2012/07/16

東京都写真美術館[東京都]

川内倫子の写真展。70点あまりの写真のほか、映像作品も発表された。凡庸な日常風景を美しくとらえる色彩と構図、そして光。川内ならではの鋭利な感覚を存分に楽しめる展示だったが、今回改めて思い知ったのは、川内の写真がすぐれて絵画的であること。対象をフレームに収める構図はもちろん、光と色彩の調和など、それは写真でありながら同時に絵画のように見える。阿蘇の野焼きをとらえた《あめつち》シリーズの映像作品ですら、色面分割された熊谷守一の絵画のように見えてならない。かつて美術評論家の中原佑介は現代美術の大きな特徴として「メディアの転換」を挙げたが(『現代芸術入門』)、川内倫子は絵画の特質を写真に移し替えたのではないだろうか。もしかしたら絵画の窮状を写真によって救済しているのかもしれない。

2012/07/11(水)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00017258.json s 10041041

アール・デコ 光のエレガンス

会期:2012/07/07~2012/09/23

汐留ミュージアム[東京都]

19世紀のさまざまな技術革新は同時代の生活に大きな変化をもたらした。鉄道や通信、蒸気船の発達は人や物の移動と、情報交換のスピードを大きく改善した。ガスや電気の普及は都市の風景を変え、人々の生活スタイルを変え、人々が日常生活で必要とするものも変えた。そうした変化も19世紀の終わりにはまだ産業界や特定の階層のものであったが、20世紀に入りより幅広い階層へと拡大してゆく。家庭における室内照明も同様であった。19世紀の終わりに発明された白熱電球は、炭素フィラメントを使用していたために明るさが十分ではなく、またインフラ整備の問題からすぐにロウソク、石油ランプ、ガス白熱灯に取って代わるものではなかった。しかし金属フィラメントによって電球はより明るくなり、新たな照明器具が生まれ、人々の生活を変えはじめた。それが生じたのが両大戦間期、アール・デコの時代だった。
 「アール・デコ 光のエレガンス」展は、このような技術や社会生活の変化が新たなモノの誕生やデザインの様式の変化に与えた影響を考察する展覧会である。ヴォルフガング・シヴェルブシュは「アール・インディレクト」という言葉でこの時代に現われた間接照明と建築や装飾との関係に焦点を当てているが★1、石油ランプやガス灯とは異なり、直視することが困難なほど明るい人工的な光をいかにして生活のなかに取り入れていくかは、同時代の工芸家やデザイナーたちに共通する課題であった。展覧会第1章ではパート・ド・ヴェール技法による色彩豊かなガラスのランプが紹介される。第2章はサロンを飾った作品。磨りガラスや磁器製の照明器具[図1]は電球の強い光を和らげるために生まれてきたことや、明るい照明が室内の装飾品に与えた影響が示される。ローゼンタールやドームの照明器具、装飾品で構成された再現コーナーは、汐留ミュージアムおなじみの企画である。第3章では都市エリートに好まれたモノトーンの食卓がルネ・ラリックのガラス製品を中心に再現されている。貴金属ではなく工業的に生産されるガラスを素材とし、色彩ではなくカッティングや型を用いたラリックの食器や装飾品が、新しい光の使用を前提としていたことがとてもよくわかる[図2]。アール・デコの幾何学的な様式が工業的生産と調和的であったことはよく指摘されるが、この展覧会で特筆すべきは、技術の普及が人々の生活スタイルを変化させ、その変化が新しい装飾様式を求めたことを指摘している点にある。[新川徳彦]

★1──ヴォルフガング・シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー──20世紀における電気照明の登場』(小川さくえ訳、法政大学出版局、1997)。



1──国立セーヴル製陶所(デザイン:ジャン=バティスト・ゴーヴネ)《鉢型照明器具「ゴーヴネNo. 14A」》1937年、東京都庭園美術館
2──ルネ・ラリック《常夜灯「インコ」》、1920年、北澤美術館

2012/07/12(木)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00017646.json s 10041094

桑島秀樹 展「TTL(Through The Lens)」

会期:2012/07/14~2012/08/04

YOD Gallery[大阪府]

写真作品4点を展覧。それらは、グラスやデキャンタなどのガラス器を緻密に積み上げ、バックライトを当てて大判カメラで撮影、その画像をもとにデジタル技術で多層レイヤーをつくり、銀塩カメラと同様の方法でプリントしたものだ。ウルトラバロック建築や曼荼羅を思わせる超高密度な世界が眼前に広がる。しかもそこには、ガラス特有の透明感や陰影もしっかり表現されているのだ。桑島は大阪在住ながら関西以外での発表が多く、地元の画廊が彼を取り上げるのは珍しい。これだけの技量をもつ作家が地元で知られていないのはあまりにも惜しい。本展を機に、彼の個展が定期的に行なわれることを希望する。

2012/07/14(土)(小吹隆文)

乃村拓郎 展「Can you shed tears?」

会期:2012/07/11~2012/07/18

GALLERY 301[兵庫県]

板ガラスを割り、その美しいひび割れを提示した平面作品や、ガラスのコップを割って元通りに継いだ立体作品、錆びた部分と磨き上げた部分が連続する鉄柱など、物質の諸相をありのまま見せる作品が並んでいた。どの作品も見かけの手数は少ないが、完成までのプロセスには相当な手間とロスが生じているのではなかろうか。そうした作業工程での労苦を感じさないクールなたたずまいが格好いい。

2012/07/15(日)(小吹隆文)

さようなら原発集会

会期:2012/07/16

代々木公園一帯[東京都]

代々木公園を中心に行なわれた脱原発デモ。うだるような暑さのなか集まったのは、主催者発表で17万人。知識人や文化人によるスピーチの後、3方向に分かれてデモが行なわれた。
3.11以後、放射能の恐怖と原発の再稼動への危機感から全国各地でデモが拡大しつつあるが、このうねりのなかで明らかになってきたのは、デモが政治的主張をアピールする文字どおりのデモンストレーションの機会であると同時に、民衆による限界芸術が開陳されるある種の「展覧会」でもあるということだ。プラカードや横断幕に描写されたヴィジュアル・イメージはもちろん、口々に叫ばれるシュプレヒコールや鳴り物の数々、そしてなにより17万人もの人びとが一堂に会し、都内の街中を練り歩くという身体表現は、非専門家という群集による限界芸術の現われにほかならないからだ。
むろん、有名性に依拠した表現がないわけではない。今回のデモでは、奈良美智が「NO NUKES」というメッセージを含めて描いた絵画表現をダウンロードしてプラカードに転用した参加者が数多くいたし、奈良自身も集会でわずかとはいえ登壇したほか、デモの一部のコースに重なったワタリウム美術館のウインドーに同じ絵画作品のポスターを掲げた。
しかし、デモとはなによりも無名性にもとづいた文化表現の形式である。あらゆる人びとは本来なにかしらの専門家であるはずだが、同時に、ある局面においては、非専門家とならざるをえない。そのある局面に人びとを直面させながら結集させるのがデモであり、だからこそそこではありとあらゆる知恵と知識が動員されるのである。限界芸術が見るものだけではなくみずから行なうものだとすれば、限界芸術としてのデモを歩道から眺めるだけではあまりにももったいない。プラカードに描いた絵を持ちながら車道を歩き、声を上げ、歌を唄い、ダンスを踊る。限界芸術の展覧会はみずから楽しめるものなのだ。

2012/07/16(月)(福住廉)

2012年08月01日号の
artscapeレビュー