artscapeレビュー
2012年08月01日号のレビュー/プレビュー
日本橋 描かれたランドマークの400年
会期:2012/05/26~2012/07/16
江戸東京博物館[東京都]
ポストモダン美学論の古典として読まれている『反美学』で、編者のハル・フォスターはポストモダニズムを次の2つに区別している。すなわち、「反動のポストモダニズム」と「抵抗のポストモダニズム」。フォスターのねらいは、前者に傾きがちなポストモダニズムの重心を後者に引き戻すことにあり、そのために集められたロザリンド・クラウスやダグラス・クリンプ、ジャン・ボードリヤールやエドワード・サイードらによる論考は、80年代以後のアートシーンに決定的な影響を与えた。
だが、この書物が発行されておよそ30年が経ったいま、フォスターが設定した二項対立の図式は、はたしてどこまで有効なのだろうか。とりわけ、東日本大震災によって近代の価値観と社会システムの破綻を目の当たりにした私たちにとって、その図式じたいが、なにやら疑わしいものに見えてならない。なぜなら、フォスターの言う「抵抗」は、今となっては彼が批判的に退けた「反動」のなかにこそ内臓されているように思えるからだ。より具体的に言い換えれば、「反動のポストモダニズム」──ハーバーマスの言う新保守主義や前近代への回帰主義を、いま一度冷静に吟味することによって、「反動のポストモダニズム」と「抵抗のポストモダニズム」という図式そのものを脱構築する必要があるのではないか。
本展は、400年にわたる「日本橋」の歴史的変遷を、それを描いた浮世絵や版本、絵巻、写真、数々の資料から解き明かした好企画。歌川広重や葛飾北斎らによって描かれた日本橋からは江戸の賑やかな文化が感じられる。美しく湾曲した橋の上を鮮やかな装いの人びとが行き交い、橋のたもとにある魚河岸にはおびただしい舟が接岸し、遠景には江戸城と富士山のシルエットが望める。やや平凡な言い方になるが、街の喧騒が聴こえてくるかのようだ。
描かれた日本橋を見ていて心に焼きつけられるのは、日本橋に代表される江戸文化の華やかな祝祭性である。それがやけに輝いて見えるのは、前近代へのロマンチックな憧憬にすぎないのかもしれない。だが、翻って考えてみると、これだけ幸福感に満ちた視覚文化を、現在の私たちは描き出すことができるだろうか。私たちは、江戸の人びとがそうしたように、この時代を肯定的に表現すること(そして、結果としてそのことを後世に伝えること)が、もはやできなくなってしまった。むしろ、豊かなイメージやリアリティは、もしかしたら「反動」や「伝統」、あるいは「保守」として十把一絡げに打ち捨てられてきたもののなかに残されているのではないだろうか。いま、「江戸ルネッサンス」ともいうべき回帰の潮流が生まれつつある。
2012/06/21(木)(福住廉)
康本雅子『絶交わる子、ポンッ』
会期:2012/06/28~2012/07/01
世田谷パブリックシアター/シアタートラム[東京都]
なによりタイトルがユニーク。奇妙に融合した言葉たちを分解すれば「絶交」「交わる」「わる(悪/割る)子」「ポンッ」。「交わる」とはひょっとして「性交」の意? 「絶交」と「性交」の関係は? 「ポンッ」ってなんの音? 会場アナウンスでこのタイトルを係員が読み上げたときの浮いた感じといったらなかった。これはなにか起きそう!と弾んだ期待。しかし結果は、その期待を何倍か凌駕するパワーとアイディアが詰まった、いや、それ以上に彼女個人の強い思いがたっぷり詰まった直球の剛速球(=傑作)と言うべきものだった。テーマはやはり「性」、というより「性交」で、例えば、男と女は不穏な物音のオノマトペを呟き、向き合えば腹に挟んだティッシュ箱から白い紙を飛ばす。そのほか「この角度以上に踏み出すとまずいみたい」といった自己規制を確信犯的に踏み越える表現がちらほら。なんて「わる(悪/割る)子」なんだ!と思っていると、たんに「性交」というより「男と女の生活」が互いの弱さも狡さも嘘も隠さず描写されていることに気づかされ、康本の狙いの深さに感嘆してしまう。それにしても、頭に包丁の刺さったカップルが現われたり、線香が刺さったバースデーケーキが舞台の隅で煙を上げていたりといった場面はさすがに強烈で、笑い飛ばせずシリアスな気持ちにもなる。そう、康本はいつも舞台をアンビバレンスな宙吊り状態に置くのだ。康本が男(遠田誠)をぎゅっと抱きしめた直後「違う」と投げ飛ばし、また抱きしめまた「違う」と絶叫するシーンはその代表例。複雑で曖昧な人間存在の深さにダンスの公演はここまで迫れるものなのかと唸らされる。ピナ・バウシュの作品から受ける感動に近いが、ダンスの面白さは康本独自のものだ。オオルタイチの音楽は康本を上手く刺激したようで、どのジャンルからも自由でユニークな動きが次々繰り出されて、ハッとさせられ続けた。最後に、精子/卵子を想像させる数百個のピンポン球が天井から落下した。そのうえでまた康本は踊った。これもまた、死と生と性という身体の芸術であるダンスならば扱うべきテーマが濃縮された瞬間だった。
2012/06/28(木)(木村覚)
安世鴻 写真展
会期:2012/06/29~2012/07/09
新宿ニコンサロン[東京都]
「従軍慰安婦」とされた朝鮮人女性たちの現在をとらえた写真。開催の反対を訴える抗議活動を受けて、会場を運営するニコンが写真展の中止を決定するも、写真家が仮処分を申請したところ、東京地裁が会場使用を命じ、ようやく開催された。会場の入り口には警備員が立ち、来場者は持ち物検査の後、金属探知機を通過してはじめて写真を鑑賞することができた。とはいえ、会場の物々しい雰囲気とは裏腹に、展示された写真は一見すると静謐そのもの。モノクロ写真のなかの老婆たちは、ゆるやかな時間に身を委ねながら、ある者は追憶し、ある者は激情を押し殺し、ある者は哀しみに暮れていたように見えた。展覧会の開催によって彼女たちに出会えたことの意義は大きい。
2012/06/29(金)(福住廉)
縄文人展 芸術と科学の融合
会期:2012/04/24~2012/07/01
国立科学博物館 日本館1階企画展示室[東京都]
縄文人の骨を見せた展覧会。さほど大きくない会場の中央には、男性と女性のほぼ全身の骨格がガラスケースの中にそれぞれ展示され、彼らの骨の細部をとらえた上田義彦による写真がその周囲に貼り巡らされた。おもしろいのは、解説文と写真、そして骨そのものをあわせて見ることによって、縄文人の暮らしや文化、時間、そして人生がまざまざと浮き彫りになるところ。それが、残された骨からさまざまな情報を読み取る研究者による解説文に由来していることはまちがいない。上田によって撮影された美しい写真も大きく寄与しているのだろう(丸い石かと思ったら頭蓋骨の頭頂部だった)。だが、それ以上に、印象に残ったのは、やはり骨という物質そのものである。この存在感と説得力はとてつもなく大きく、だからこそ私たちは、縄文人という人間が、かつて、確かに生きていたことに思いをめぐらせることができたのである。「芸術と科学の融合」というより、文字と写真、そして物質が有機的に統合されることによって、私たちの想像力を刺激した、きわめて良質の展覧会である。
2012/06/30(土)(福住廉)
ままごと『朝がある』
会期:2012/06/29~2012/07/08
三鷹市芸術文化センター 星のホール[東京都]
本作に限らず、柴幸男の脚本に出現する数字が柴作品の独自性を形作っているのは間違いない。本作は、三鷹市と縁のある太宰治の作品をモチーフに舞台作品を上演する、三鷹市芸術文化センター企画の演劇シリーズ(今回で第9回目)の最新作。太宰の「女生徒」がもとになっているとのことだが、出演は男性が1人。彼が語り手となり主人公(「女生徒」そのままではなく主人公は2001年の女生徒)になりすましもしながら進んでゆく話の中心には、主人公がくしゃみをする一瞬が置かれている。この一瞬がストップモーションのようになったり、同時に起きたあれこれに目を向けたり、その瞬間から時間を数えたりして、些細な物事がいくつものほかの出来事と、はては宇宙の運行ともシンクロしてゆく。そこで用いられるのが数字。この瞬間がリプレイされる度に「くしゃみ、10分後」「くしゃみ、4カ月後」などの台詞が中心との距離を測る。ほかにも「太陽で生まれた光は、8分19秒かけてこの星までやって来て」とか「2キロ上空にある雨雲」とか「65年後にわたしは死ぬし」とか、数字は世界についてのある決定済みの認識を明示するように、観客の想像力を喚起しながら同時に観客に客観的事実を告げる。気になるのは、そうすることで生まれる俯瞰的あるいは超越的な視点のこと。それは柴の芝居を堅牢なものにする一方、構造を閉じたものにする。いやいや、音楽のリズムや舞台美術(舞台の床面や壁面に映写される映像も含め)が役者の喋る言葉・身体動作の一つひとつと見事に対応し、全体がミュージカルのように協和しているさまは見事で、ままごとの力量を体感する時間であったことは間違いないのだ。そのうえで、すべてが連鎖し互いに共鳴していることの不思議さは、超越的なものの存在を自ずと意識させることになるけれども、その分、異質なものたちのノイジーな接触はきれいに回避されている、そう見えたのも事実。すべての連なりが「オン」ビート、だから「オフ」ビートが聞こえない。それ故に、と言うべきか、本作は美しかった。その美しさをただ絶賛することに、ぼくはちょっと躊躇してしまう。
2012/06/30(土)(木村覚)