artscapeレビュー
2015年06月15日号のレビュー/プレビュー
同時代の眼V「ブリンキー・パレルモ」
会期:2015/05/11~2015/06/26
慶應義塾大学アート・スペース[東京都]
ハミッシュ・フルトン、スタンリー・ブラウンとダニエル・ビュレン、ブルース・マクレーン、イミ・クネーベルと続いてきた、いささか偏りのある「同時代の眼」シリーズの最終回。パレルモは、サイズも形態もミニマルな作品ばかり残して33歳で逝ったドイツのアーティスト。悪い作品とは思わないけど、過大評価されてなくね?
2015/05/15(金)(村田真)
BankARTスクール2015 横浜建築家列伝vol.1 五十嵐太郎+磯達雄 ゲスト曽我部昌史
BankART Studio NYK[神奈川県]
BankARTスクールの横浜建築家列伝にて、みかんぐみの曽我部昌史さんを招き、横浜関係のプロジェクトを紹介していただく。2005年からみかんぐみは横浜に移転し、横浜トリエンナーレやBankARTなど、アート関係の仕事が増え、神奈川大学の研究室では、寿町や黄金町のプロジェクトも展開した。ただし、2009年の開国博Y150のパヴィリオンを含めて、仮設的なものが続き、最近、ようやく学校など公共施設の仕事も手がけるようになった。公共施設の仕事から地域への還元にシフトした飯田善彦とは、逆の順番である。
2015/05/15(金)(五十嵐太郎)
土田ヒロミ「砂を数える」
会期:2015/04/25~2015/06/07
Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]
Gallery TANTO TEMPO開設7周年記念として開催された土田ヒロミの写真展。1976年~89年にわたって国内各地で撮影されたモノクロの「砂を数える」シリーズが展示された。
被写体となるのは、海水浴場や観光地、お花見や初詣などの行事に集う人々。序盤の展示作品では、20~30名ほどであった群れ集う人々は、次第に数と密度を増していき、文字通り砂粒のように画面をびっしりと埋め尽くす。「集団」というほど統制されているわけでもなく、(学校や企業、家族の集合写真のように)アイデンティティの一貫性が明確にあるわけでもない。視線や身体の向きはバラバラで、身体を密着させつつもお互いへの関心は薄く、心理的な距離は隔てられている。何らかのイベントのために一時的に集まった群衆は、目的や欲望は共有しつつも、中心や連帯を欠いた「群れ」として蠢く運動体を成している。個々の輪郭は、オールオーヴァーに画面を覆い尽くす抽象的なパターンへと還元される手前で、ギリギリ踏みとどまっているように見える。
ここでは、固有の顔貌や名前を欠いた等価な存在として平均化・数値化されていく過程と、個人として辛うじて認識可能な輪郭とが瀬戸際でせめぎ合っている。シリーズ全体を通して見えてくるのは、均質な「国民」の出現だ。1976~89年という撮影期間も社会史的な役割を果たしている。つまりこの期間は、高度経済成長の終了から、昭和天皇崩御による昭和という一つの時代の終わりを指す。観光地や海水浴場に群れ集う人々の姿は、余暇や娯楽が「レジャー」として商品化された社会を写し出し、皇居の新年一般参賀や広島の平和記念式典に集う人々の姿は、「国民」という幻想の集合体を形成する。
一方、カラーで撮影された近年の「新・砂を数える」シリーズでは、群衆の密集性やダイナミズムは薄れて後退し、鮮やかだがどこか空虚な風景の中、互いに距離を取って点在する人々が写し出される。デジタル技術の使用も相まって、ミニチュアの人形が置かれたセットのように、人工的で模型的なイメージだ。ここでは、「群衆の形成が風景を変え、凌駕し、それ自体が一つの蠢く運動体としての風景を現出させる」のではなく、人々は風景の「中に」置かれた存在として、モノと等価になったかのようだ。2つのシリーズの対照のなかには、日本社会の変質が確実に刻み込まれている。
2015/05/16(土)(高嶋慈)
岡崎和郎展「御物補遺」
会期:2015/04/27~2015/06/14
ギャラリーあしやシューレ[兵庫県]
「御物補遺(ぎょぶつほい)」とは、岡崎和郎が1960年代に提唱した造形概念。英語表記の「supplements」(補足、補遺、付録)が表わすように、「従来の美術表現で見落とされてきたことを補う」を意味し、日常的な物体の表と裏、内と外を反転させてつくられているオブジェ作品が多い。
今回の個展で数点展示された《HISASHI》はその代表例。《HISASHI》は、日本家屋の外壁に取り付けられる庇をモチーフにしたオブジェを、ギャラリーの内側の壁に取り付け、「風雨をしのぐ」という本来の機能を剥ぎ取ることで、空間の内と外を鮮やかに反転させる。他にも、キューピー人形や招き猫の表と裏を反転させることで、輪郭が曖昧に溶けかけているようなオブジェも展示された。デュシャンのレディ・メイドやマン・レイのオブジェの系譜に連なりつつ、反転という操作によって外側から内側へ、取るに足りない部分から全体へと、侵入を企て、境界線を撹乱させ、区分を突き崩すような岡崎の作品群は、掌に収まるような小さく愛らしい見かけのなかに、空間に対する既存の概念や美術の制度に対する攻撃性を秘めている。小規模ながらも、岡崎のオブジェ作品をまとまって見ることができた良い機会だった。
2015/05/16(土)(高嶋慈)
《聖プラクセディス》
会期:常設展
国立西洋美術館[東京都]
フェルメールの《聖プラクセディス》を見に行く。この作品は2000年の大阪市立美術館で開かれた「フェルメール展」にも出ていたが、現在「フェルメール作」ではなく「フェルメールに帰属」になっているのは異論が多いからだ。しかしサインと年記(Meer 1655)が入ってるうえ、使われてる絵具がフェルメールの初期作品ときわめて近いらしい。でも同名の画家は17世紀オランダに複数いたことがわかってるので、決定打にならない。しかも、仮にフェルメールの真作だとしても、まだフェルメールらしさが表われてない初期の作品で、おまけにイタリアの画家フィケレッリの模写というから、ありがたみは薄い。そんな作品がなんで西洋美術館にあるかというと、もちろん美術館が購入したからではなく、だれか日本人が昨年オークションで10億円超で競り落とし、美術館に寄託したからだそうだ。でもまあフェルメールらしきものがあるというだけでも客は来るかも。
2015/05/17(日)(村田真)