artscapeレビュー

2017年03月15日号のレビュー/プレビュー

岩瀬諒子/岩瀬諒子設計事務所《木津川遊歩空間》

[大阪府]

大阪の西長堀から《木津川遊歩空間》へ。水都大阪の水辺再生コンペで、岩瀬諒子さん(U-35参加)が選ばれ、既存護岸の外側に段状の親水空間を張り出す。通常の土木と違う建築的ランドスケープだ。現場で岩瀬さんと遭遇、春に道路側との連結部も完成という。今後の使われ方、街への影響が興味深い。

2017/02/24(金)(五十嵐太郎)

大西麻貴+百田有希/o+h《Good Job! Center KASHIBA》

[奈良県]

大西麻貴+百田有希による奈良の《GOOD JOB! CENTER KASHIBA》へ。コンペで設計者を選んだ、アートやデザインを通じた障害者の支援施設である。角地で大きく街に開く、明るくかわいい建築だった。構造を兼ねる互い違いに積まれた壁は、平面上においては斜めに配され、さまざまな場を生みつつ、奥に視線を引き込む。また2階はイケアのように、オープンな倉庫とみなし、空間を閉鎖させることなく、1階の回遊性を延長する。

2017/02/24(金)(五十嵐太郎)

あざみ野フォト・アニュアル 新井卓 Bright was the Morning ─ ある明るい朝に

会期:2017/01/28~2017/02/26

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

「あざみ野フォト・アニュアル」の7回目は新井卓の個展。新井の特徴は際立っていて、ひとつはダゲレオタイプ(銀板写真)を使うこと、もうひとつはおもに原発や原爆に関連するモチーフを撮っていること。今回はさらに見せ方にも工夫を凝らしている。《Here and There─明日の島》シリーズは、会場が暗いうえ銀板なのでなにが写ってるのか判然としない。そこで近づいてみると、センサーで天井から吊り下がった電球が灯り、六ヶ所村や原発事故周辺を写した風景写真が見える。この明かりを灯すエネルギーも原発だったら、とふと思う。と同時に銀板だから自分の顔も映し出され、否応なく自分が原発と向き合わざるをえなくなる仕掛けだ。一方、《明日の歴史》シリーズは広島と南相馬の子供を撮ったポートレートだが、こちらはセンサーではなく自動的に明かりが少しずつ移動していき、明かりが灯ってるあいだ、その子供のインタビュー音声が流れる仕掛け。そこまでやる必要あるか? とも思うが、新しい試みとして評価したい。ほかに記憶に残る作品が2点。《2014年3月23日、比治山公園より西北西に見かけの高度570mの太陽、広島》は、長いタイトルどおり、原爆が爆発した高度に太陽が見かけの上で達した瞬間を捉えたもの。画面の中心よりやや上に、いまだ核融合を起こし続けている太陽が刻印されている。恐ろしい写真だ。もう1枚、《2012年2月25日、陸前高田の松》は津波で1本だけ残った松を撮ったものだが、意図したものかどうか知らないけれど、これがキノコ雲に見えてならない。

2017/02/25(土)(村田真)

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とりのゆめ / bird’s eye

会期:2017/02/18~2017/03/05

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

「地域アート」と、資料のリサーチに基づく「アーカイヴァル・アート」、隆盛する両者を批評的に検証する好企画。会場の神戸アートビレッジセンターが位置する「新開地」という土地をめぐり、架空の神話の提示とそれを裏付ける各種資料の「捏造」の中に、実際の地形の考察や史実を織り交ぜ、虚実入り乱れる「ミュージアム」を擬態した空間をつくり上げた。出品作家は、解体された建築の廃材をウクレレ化する作品で知られる伊達伸明と、建築家の木村慎弥。また、木村が参加する建築リサーチ組織RAD - Research for Architectural Domainを立ち上げた建築家・リサーチャーの榊原充大がリサーチ&ドキュメンテーション担当として参加している。
本展は、「新開地」という土地の誕生を物語る架空の「神話」をベースに、絵本風のストーリーが展開される順路と、戦前の尋常小学校(風)の教科書のテクストに沿って展開する順路の2つに分岐し、最後のオチで両者が再び合流する、という空間構成も工夫が凝らされている。対象年齢(?)によって微妙に異なる語り口や解釈も、物語の受容の多面性を示す。神話のあらすじは、「カチン石」という石を山に運ぶ命を天の神から受けた「カブーク」という巨鳥が、山の神と海の神の争いを引き起こし、陸地はめちゃめちゃに荒らされるが、流された土砂の堆積が形づくった三角形の土地を「bird’s eye=俯瞰」で見ると、青い海=青空を背景にそびえる山の形になり、その天辺に置かれた「カチン石」が5つに砕けて「シンカイチ」になった、というものだ。この、地域に伝わる「神話」を裏付ける資料として、古文書、絵図、土偶といった物体の展示に加えて、「地域各所で信仰される巨石」の記録写真やレプリカ、「巨鳥の足跡が見つかった」と報じる新聞記事、教科書、年表など、真実性を保証する制度化されたフォーマットが総動員されて「偽造」されている。一方で、神戸の水害についての年表や新聞記事の複写パネルも配置され、単なる制度批判に堕すことなく、フィクションを経由して多発する水害の歴史や地形の特徴についても学べるようになっている。また、落語のオチのようなラストは、視点の転換による再発見や、物事の多面的な見方についても示唆的だ。
こうした「偽の資料のアーカイヴ」という手法は、例えば、「架空の画家が描いた絵画の展覧会」というフォーマットを採るイリヤ・カバコフの作品や、レバノン内戦に関するドキュメントを偽造したアトラス・グループの作品を想起させる。本展もまた、歴史そのもののフィクショナルな性格や、「アーカイヴァル・アート」が依拠する資料の真正さ、それを保証する制度への疑義を呈し、危ういもののうえに成立していることをメタな視点で問い直しつつ、想像力でもってどう地域へ還元できるか?という問いに応えていた。

2017/02/25(土)(高嶋慈)

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キリコ展「mother capture」

会期:2017/02/25~2017/03/25

ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]

会社を辞めてニートになった元夫との関係を綴った《旦那 is ニート》や、売れっ子の舞妓だった祖母の写真を再構成したインスタレーション、その祖母が娘によって介護される光景を「逆転した母娘関係」として介護用監視モニターの画面を切り取った《2回目の愛》。写真家のキリコはこれまで、家族や配偶者といった親密圏の中に身を置き、極めて私的な関係性を見つめながら、女性の生き方や家庭、コミュニケーションのあり方について作品化してきた。
本個展では、自身が不妊治療中であり、母となった友人たちへの複雑な思いが制作の契機になった《mother capture》が映像と写真で発表された。薄く透けるカーテンで仕切られた半個室には、壁に大きく映像がプロジェクションされている。こちらに背を向け、自宅の一室で、光の差す窓辺に向かって座る女性たち。一見、静止画のように動かない彼女たちは、授乳中であることが分かる。ふと髪をかき上げる仕草、わずかに動く赤ん坊の小さな足、風に揺れる窓辺のカーテン。授乳中の女性を背面から捉える固定カメラの記録映像が(無音で)淡々と流れていく。また、この動画から静止画として切り出した写真作品9点が、9人の女性のポートレイトとして展示された。
「授乳」という、母と子の最も親密な身体的コミュニケーションが、撮影者不在の固定カメラによって機械的に切り取られ、しかも背面から撮影されることで、表情や眼差しなど親密さの核心部分が隠されていること。「母子間の愛情に満ちたコミュニケーション」を定点観測的な固定カメラに委ね、「自分自身がその濃密な空間に入れず疎外されていること」を露呈させる手法は、前作の《2回目の愛》とも共通する。(《2回目の愛》では、食事や排泄の介護をする娘を「おかあさん」と呼んで依存するようになった祖母の姿が、介護用モニターの画面を再撮影することによって、ある種の「距離」の介在として表出されていた)。
《mother capture》も同様の手法を採りつつ、「女性像の表象」をめぐるより戦略的な転倒が仕掛けられている。「母子像」は、イコンとして聖化された「聖母子像」を常に内在化させながら、西洋美術における定番モチーフとして生産・消費されてきた(授乳中のマリア像も多数描かれている)。また、「窓辺に佇むポートレイト」も女性の肖像の定番である。キリコは、「母子像」「窓辺の女性像」という女性表象をあえて戦略的に用いつつ、後ろ姿として反転させることで、見る者の眼差しが期待する「最も親密な空間やコミュニケーション」を隠してしまう。クリシェを反転させて「裏側」から撮る、すなわち同性としての視線から眼差すことで逆説的に浮かび上がるのは、孤独さの印象、「背中を見つめる」視線の憧れやそこに辿り着けない焦燥感、手の届かない疎外感だ。またそれは、「母性愛」を「自然」なものとして肯定的に投影する態度を取り払った地点から、再び眼差すことは可能か、という問いをも提起している。
加えて、背景の空間がみな、「プライベートな室内風景(自宅の一室)」で撮影されていることにも留意すべきだろう。「女性の社会進出」がうたわれる一方で、授乳スペースの整備など、社会的なサポートはまだまだ十分とは言い難い。《mother capture》の沈黙の後ろ姿たちは、「なぜ彼女たちがこの限定された場所で撮影されねばならなかったのか」というもうひとつの問いをも喚起している。

2017/02/25(土)(高嶋慈)

2017年03月15日号の
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