artscapeレビュー

2017年03月15日号のレビュー/プレビュー

パロディ、二重の声 日本の1970年代前後左右

会期:2017/02/18~2017/04/16

東京ステーションギャラリー[東京都]

「パロディ」の展覧会ならパルコあたりでやってるだろうけど、「1970年代前後左右」という限定つきだと(左右ってなんだ?)わかる人にはわかるというか、50歳以上にはピンと来るものがある。それはマッド・アマノの「パロディ裁判」であり、赤瀬川原平の『櫻画報』であり、雑誌の『ビックリハウス』だったりする。同展はそのど真ん中を行く企画。まずプロローグとして、最初の部屋には山縣旭(レオ・ヤマガタ)によるモナリザのパロディが40-50点ほど並ぶ。作者は今年83歳で、作品の大半は昨年つくられたというから同展の主旨からそれる番外編だが、1978年に「日本パロディ展(JPS)」でパルコ賞を受賞した経歴から特別展示となった模様。それにしても80歳すぎても人真似(パスティーシュ=文体模写というらしい)に専念とは、見上げた根性だ。展示は、60年代の篠原有司男、赤瀬川原平、横尾忠則、立石紘一(タイガー立石)らネオダダ、ハイレッドセンター周辺から始まり、木村恒久のフォトモンタージュ、誌面が白紙の『週刊週刊誌』、つげ義春の『ねじ式』をパロッたつげ義悪(長谷邦夫)の「バカ式」と赤瀬川原平の「おざ式」、読者投稿で成り立った『ビックリハウス』の創刊号から130号まで全巻、といった具合に進む。
ここまで来て、ふと思う。60年代の前衛美術にはまだ社会批判や毒があったが(パロディという言葉はまだあまり使われてなかった)、70年代になると政治性や芸術性の薄いナンセンスなパロディが蔓延していくのは、なぜなのかと。それはおそらく、70年安保闘争の敗北に連動して過激な批評精神が後退し、「シラケムード」が漂ったことがひとつあるだろう。もうひとつは、同展のオオトリとして控えていた「ミスター・パロディ」ことマッド・アマノの、いわゆる「パロディ裁判」も影響しているのではないか。これは写真家、白川義員の写真を無断使用して訴えられ、法廷闘争の結果アマノの敗訴となったもの。最高裁の判決が出たのは80年代だが、その過程で権威や権力(実際は「著作権」だが)に楯突くとヤケドするぞと、みんなビビったのかもしれない。いわば自主規制が働いて、パロディの矛先が内側に向かったということは考えられる。余談だが、パルコが始めた「日本パロディ展」は1980年に「日本グラフィック展」に発展、そこから出てきたヘタウマやニューペインティングが80年代のアートシーンの一角を占めていく。そう考えると、60年代の毒のある前衛美術は、70年代にパロディとして毒抜きされて、80年代に再びアートシーンに還流したといえるのではないか。

2017/02/26(日)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00038569.json s 10133332

東北芸術工科大学卒業・修了展[東京展]

会期:2017/02/23~2017/02/27

東京都美術館[東京都]

数千いや数万匹の蚊をほぼ原寸大で描写した萩原和奈可の《ユスリカの光》、半円筒状の画面にヘビの抜け殻だけをデカデカと描いた横濱明乃の《呼吸する刻》、高橋由一と東北芸工大の接点を探る久松知子の《三島通庸と語る》、同じく久松知子の《藝術界隈のつくり方》、幅6メートルはありそうな画面いっぱいにバブリーな金魚みたいな泡を描いた小野木亜美の《Babble─想像のはじまり》、料理の絵を20枚の小さな画面にアップで描いてコメントをつけた立石涼子の《すずこバイキング》がすばらしかった。ちなみに最初の3人は日本画専攻の大学院生。

2017/02/26(日)(村田真)

TWS-NEXT @tobikan 「クウキのおもさ」

会期:2017/02/18~2017/03/05

東京都美術館ギャラリーB[東京都]

トーキョーワンダーサイト(TWS)の展覧会やレジデンス・プログラムに参加したアーティストから、青木真莉子、伊藤久也、友政麻理子の3人を選抜した企画展。青木は中央に壇を設けて3面のスクリーンを立て、映像を流しているが、なんか見る気しないなあ。食いつきにくいというか、すっと入っていけないんでね。伊藤は弟の死をきっかけに始めたという人体彫刻を、野原や渋谷の交差点、雪道などさまざまな場所に置いて作者とともに撮影。それらの2ショット写真を壁に並べ、向き合うように実物の彫刻を対置させている。これは明快。友政は床に椅子や机、ブルーシート、ほうき、タライなどを散乱させ、壁に映像を何本か流している。《お父さんと食事》シリーズは、松本やブルキナファソなどさまざまな場所でテキトーなオヤジを見つけ、食事しながら会話する様子を撮ったもの。《あれは、私の父です》は、そこらにあるものを「父」だと言い張るビデオ。どれも1時間前後あるので見てないが、見ないでもおもしろい。これが「食いつき」のいい作品。

2017/02/26(日)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00031821.json s 10133334

ルノワール展

会期:2017/01/14~2017/04/16

宮城県美術館[宮城県]

昨年、国立新美や名古屋ボストン美術館で見たものと違う別企画だった。第1回印象派展のバレリーナ、古典風、読書する女、周囲の風景と融合する裸婦像ほか、多幸感あふれる女性像を数多く紹介する。また宮城県美のコレクション展示では、東北の画家、勝平得之と小関きみ子を特集する。前者は竹久夢二に触発され、秋田を拠点に素朴な風俗版画を描き、後者は上京して大作の日本画を描くもキリスト教信者として清貧生活を送る。いかにも「東北らしい」作家だ。常設の最後はいつもの独墺作家、シーレ、ココシュカ、ペヒシュタイン他であり、このテーマの充実したコレクションぶりをうかがわせる。

2017/02/26(日)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00037929.json s 10133353

五線譜に書けない音の世界~声明からケージ、フルクサスまで~

会期:2017/02/26

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

京都市立芸術大学 芸術資源研究センターの記譜法研究会が企画したレクチャーコンサート。スタンダードな五線譜によらない記譜(図形的な楽譜など)をテーマに、声明(仏教の法要で僧侶が唱える音曲)と、ジョン・ケージやフルクサス、現代音楽における図形楽譜を架橋する試みが行なわれた。
第1部「声明とジョン・ケージ」では、声明の記譜法についてのレクチャーの後、ケージの《龍安寺》を天台宗の僧侶が声明で披露。伝統音楽・芸能と現代音楽、東洋と西洋の架橋が音響的に試みられた。第2部「記譜法の展開」では、現代音楽に焦点を絞り、足立智美、一柳慧、塩見允枝子の3作品が上演された。足立智美の《Why you scratch me, not slap?(どうしてひっぱたいてくれずに、ひっかくわけ?(1人のギター奏者のための振り付け))》は、ギター奏者の両手の動きを映像で記録した「ビデオ・スコア」を元に演奏するというもの。音を生み出す所作をインストラクションとして言語的に指示するのではなく、音を生み出す身振りの記録映像が楽譜として機能する。生身でなく、映像に記録された身振りではあるが、1対1で対面して「手本」の身体的トレースを行なう様子は、むしろ古典芸能の稽古・伝承に接近する。
一方、一柳慧と塩見允枝子の作品では、図形楽譜やインストラクションに従いながら、複数人がさまざまな楽器や声、身体の音を用いて同時進行的に演奏を行なう。楽譜のスタート地点の選択や音の出し方の幅は即興的な揺らぎを生み、「アンサンブル」として間合いの意識が発生することで、スコアに基づく「上演」ではあるものの、一回性の出来事に近づいていく。塩見はレクチャーの中で、「言語能力、記述の正確さが求められる」と語っていたが、指示の曖昧さを回避するそうした努力の一方で、スコアの規定のなかに、演奏者の能動的な関わりや創造的なリアクションを生み出す余白や伸びしろをあらかじめどう盛り込むかがむしろ問われるだろう。それは制限が課された中での逆説的な自由かもしれないが、記譜とパフォーマーの間にある種の相互作用や循環が起こることで、記譜が引き出す創造力が発揮されるのではないか。「五線譜」という近代音楽の制度化されたフォーマットへの疑い、オルタナティブな記譜法の開発・創造であると同時に、記譜と創造的振る舞い、「開かれ」のあり方について改めて考える機会となった。

2017/02/26(日)(高嶋慈)

2017年03月15日号の
artscapeレビュー