2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

2022年06月15日号のレビュー/プレビュー

森村泰昌:ワタシの迷宮劇場

会期:2022/03/12~2022/06/05

京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ[京都府]

京都では24年ぶりとなる森村泰昌の大規模な個展。ただし、展示されるのは、撮影現場でのテストや「ひとり遊び」としてポラロイド写真で撮られた、ほぼ未発表のセルフポートレイト823枚。森村は、2016年のデジタルカメラ導入以前はフィルムで撮影していたため、現場での確認や調整のためにポラロイド写真を用いていた。「完成作品」に至るまでのさまざまなプロセス──ときに「引用画像」を胸に貼り付けてのポーズや表情の確認、衣装や小道具、ライティングの調整、腕や上半身に及ぶメイクのテストなど──が提示される。そこには、背景スクリーンの後ろにのぞく舞台裏、撮影機材、アシスタントの手、メイク・衣装・カツラを着ける前の森村の素顔や身体、そして私秘的な欲望など、「作品から排除されるもの」がきわめて生々しく写りこんでいる。その「メイキング過程」は同時に、森村が1985年以来歩んできた作家活動の、もうひとつの記録でもある。また、ポラロイド写真はフィルムと異なり複製不可能であり、「一回性」が刻印されている。「作品未満」である存在が「唯一性を持つ」という逆説。普段は表に出ない作家活動の履歴、排除された「作品未満」の集積という意味で、いわば「回顧展のネガ」だ。



森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M132》(2009頃) [© Yasumasa Morimura]


展示会場には5つの入り口が用意され、決まった順路はなく、劇場の幕のようにドレープを描いて垂れ下がる重厚な布が、迷路のように配置される。その布の壁の前に浮かぶように展示された写真群は、「作品」と「資料」のあいだの宙吊り状態を暗示する。あるいは、布の壁は、「作品」の上演を待つ、開演前の舞台に降ろされた幕でもある。だが、その「幕」の向こう側をスリットからのぞくと、使用された衣装と靴、愛読書が並ぶ舞台裏のような空間(《衣装の隠れ家》)が広がっており、仮面を剥いでもその下に別の仮面が現われるようで、見る者を煙に巻く。迷路、見世物小屋、劇場のハイブリッド。また、写真群の配置にはシリーズごとのゆるやかなまとまりはあるものの、年代順や順路といった秩序の放棄は、アーカイブという迷宮を空間的に実装する。



「京都市京セラ美術館開館1周年記念展 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」 展示風景 [撮影:三吉史高]



森村泰昌《衣装の隠れ家》(2022) [© Yasumasa Morimura 撮影:三吉史高]


本展では、90年代の「女優シリーズ」に関連した写真が(インパクトの面でも)目につく。森村は、全裸のマリリン・モンローや緊縛シーンではあえて「つくりものの胸」を強調し、風ではためくマリリンのスカートの下に「勃起した偽のペニス」を装着するなど、「女性ではない身体」「男性の身体であること」を戦略的に露呈させていた。そこには、ヘテロセクシュアル男性の性的欲望に応えてつくられた女性像を、男性の身体で演じ直すことで、男性の性的消費の視線を無効化させ、返す刀で潜在的なトランスフォビアをあぶり出す批評性がある。さらに、「裸身や素顔のまま、女性の衣装やカツラをまとう」という「変身途中」のポラロイド写真の数々は、ジェンダーが「記号と演じられるもの」であることを示すと同時に、そうした批評の力を「作品」以上に有してもいる。



森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M010》(1994-95頃) [© Yasumasa Morimura]


ここで、本展を別の角度から見るならば、「ポラロイド写真で撮影したセルフポートレイトの膨大な集積が作家自身の人生という時間の厚みを示す」例として、今井祝雄の「デイリーポートレイト」が想起される。今井が1979年5月30日からライフワークとして継続している「デイリーポートレイト」は、「前日に撮影した写真を手に持ち、1日1枚撮影する」というシンプルな行為の蓄積だ。だが、「手に持った前日の写真」には入れ子状に「その前の日に撮った写真」が写りこむため、(目視できなくとも)「撮影開始日から流れた時間」が1枚=1日ごとに加算されていくことになる。写真を列柱状に積み上げた展示では、「時間の層」が物理的に可視化されるとともに、列を追うごとに、次第に年齢を刻んでいく今井の顔の漸進的な変化がうかがえる。本展もまた、「複製不可能な一回性の蓄積により、作家の人生に流れた時間が『作品』を形成し、あるいは『作品』に飲み込まれ、不可分のものとなる」事態を指し示して圧巻だった。

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art trip vol.3 in number, new world/四海の数|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年02月15日号)

2022/05/06(金)(高嶋慈)

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梁丞佑「B side」

会期:2022/05/06~2022/05/29

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

韓国出身の梁丞佑(ヤン・スンウー)は、第36回土門拳賞を受賞した『新宿迷子』(禪フォトギャラリー、2016)に代表されるような、被写体に肉薄した社会的ドキュメンタリーで知られている。だが、今回の展示にそのような写真を期待する観客は、やや肩透かしを食ったように感じるのではないだろうか。梁自身が展覧会に寄せたテキストに書いているように、「アンダーグラウンドな人や場所を撮った写真」を「A面」とするならば、今回は「B面」、つまり「撮りたいものを撮りたい時に撮ったものを、まとめた写真達」の展示ということになる。

だが、その「B面」の写真がとてもいい。梁のなかにあった思いがけない側面が輝き出しているというべきか、写真家としての彼のあり方をもう一度考え直したくなる写真群が並んでいた。「撮りたい時に撮った」写真だから、被写体の幅はかなり広い。北関東で仕事をしていた時期に撮影した写真が多く、そのあたりの、やや索漠とした空気感が滲み出ているものもある。だが、東京や九州の写真もあり、必ずしも風土性にこだわっているわけではない。むしろ強く感じられるのは「心がザワザワする」ものに鋭敏に反応する梁の感性の動きの方だ。

奇妙なもの、怖いもの、それでいて思わず笑ってしまうようなもの――とはいえ、それらをわざわざ探し求めて撮影しているというよりは、むしろ相手が発する気配をそのまま受け止め、定着したような写真が多い。須田一政の仕事に通じるものもあるが、梁の方がよりざっくりとしたおおらかさ、視野の広さを感じる。たしかに「B面」には違いないのだが、むしろ梁の写真家としての本来的な姿は、こちらに強く表われているようにも思えてきた。面白い鉱脈を掘り当てたのではないだろうか。

関連レビュー

梁丞佑「新宿迷子」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)

2022/05/06(金)(飯沢耕太郎)

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』

翻訳:雨沢泰

発行所:河出書房新社

発行日:2020/03/05

「パンデミック・ディストピア小説」ということで気になっていた一冊。原題は「見えないことについての考察」で、1995年に原著が刊行された。作者のジョゼ・サラマーゴは、1922年生まれのポルトガルのノーベル賞受賞作家。

ある日突然、交差点の車内で信号待ちをしていた男性が「視界が真っ白になり失明する病」を発症する。この「白い病」は、原因不明のまま、恐ろしい速さで無差別に人々に感染していく。発症した失明者と、感染が疑われる濃厚接触者は、家族から引き離され、医師も看護師もいないまま、元精神病棟に強制隔離される。兵士が昼夜見張り、脱走者は銃殺。送り込まれる失明者と濃厚接触者の数は増え続けるが、食糧の配給は次第に滞り、限られた食糧とベッドの奪い合いが始まる。元精神病棟は上下水道のメンテナンスもなされておらず、収容者たちは身体を清潔に保てず、排泄物は廊下にまで溢れ、悲惨な衛生状態に陥っていく。

だが、収容者のなかにただ一人、目の見える女性がいた。第一発症者を診察し、自身も失明した眼医者の妻である。「自分も失明した」と機転をきかせて夫を搬送する救急車に乗り込み、夫以外には秘密を打ち明けないまま収容所で暮らすことになったのだ。読者は、彼女の「眼」をとおして、この強制収容所=社会の縮図の闇を見つめることになる。社会から排除された者の人権を顧みない国家権力の発動。見えない者どうし、すなわち他人の監視の視線がなくなることで、盗みに始まり、良心や罪の意識が崩壊する。食糧の配分や遺体の埋葬をめぐり、人間の尊厳や倫理をどう保てるか。

ただし、「これは無秩序状態ではない」点に、本書の描く真の恐ろしさがある。「全員失明者」という平等性のなかに、自らの生存をより優位にするため、暴力で他者を支配しようとする者たちが出現する。左右の病棟と各病室という空間秩序が体現する支配構造は、仮の平等性を打ち砕く。最底辺の犠牲者となるのは、各病室への食糧の配分と引き換えに性暴力を強要される女性たちだ。「あちこちで本能のまま乱交状態になる」のではなく、各病室=社会集団内で男たちによる「集団的合意」の下で性暴力が遂行されることの方が、本質的な恐怖である。

登場人物の固有名がないことは、「個人としての尊厳も固有の顔貌も奪われた状態」を指すと同時に、寓話性を高める。「私たちには人間の本性が何も見えていなかった」という辛辣な批判/外見に惑わされず「真実の姿」に気づくというヒューマニズムを、「盲目状態」の両義性として本書は語る。

だが読み終えて強く感じたのは、本書は「ケアについての寓話」としても読めるのではないかということだ。なぜ、最後まで唯一失明しないのが「医者の妻」すなわち「女性」なのか。この疑問が導きの糸となる。「集団的な失明」が意味するのは、「監視の視線と道徳心の崩壊」と同時に、「自身のケアができない状態への強制的移行」である。収容所に医者も看護師も不在であること、つまりケアする者がいない環境設定の前半と、困難な旅路の末に自宅=私的な家庭領域に舞台を移した後半の双方において、「医者の妻」には、夫に加え、同じ病室の収容者たちに対し、食糧の確保、導線の誘導、傷の手当て、身体を洗う、衣服の洗濯から「就寝前の本の朗読」まで、あらゆるケア労働が降りかかってくる。そこには、自身も性暴力を受けながらも、被害者の女性たちの身体を洗い清めるという過酷な役目も含まれる。さらに作者は、「ケアする者」の(心の)ケアを担う存在にも目配りをきかせる。後半、さらに悲惨な状況に置かれる「医者の妻」の頬を伝う涙をなめ取り、無言で寄り添ってくれる「涙の犬」である。だが、この「涙の犬」も両義的だ。ケア労働の担い手とされるのは、性役割としての「妻」、そして見返りを求めず自身の言葉を持たない「従順な動物」なのだ。

「視界を覆う白い輝き」しか見えなくなった人々は、人間の本質的な闇の部分を「見ていなかった」と同時に、「他人のケアがないと人間的な生を持続できない」ことを「見ていなかった」寓話でもある。ラストで、人々は失った順番に再び視力を取り戻す。「医者の妻」は「今度は自分が失明する番だ」と恐れるが、彼女に失明は訪れない。なぜなら世界は「ケアを担う者」を永久的に必要とするからだ。失明から回復した人々は再び秩序や都市機能を取り戻すだろう。だが、「自分たちに本当に見えていなかったもの」が何だったか気づくだろうか。「医者の妻」がアパートの窓から視線を落とすと、「町はまだそこにあった」。これはディストピアの終わりを告げる希望ではなく、「ケアの終わりのなさ」の続行という絶望である。

2022/05/13(金)(高嶋慈)

石原悦郎への手紙 PartⅡ-AIRMAIL-

会期:2022/04/02~2022/05/14

ZEIT-FOTO Kunitachi[東京都]

ツァイト・フォト・サロンのオーナー、石原悦郎は、2016年に亡くなった。それにともなって、日本で最初の写真専門の商業ギャラリーとして1978年にオープンしたツァイト・フォト・サロンも、40年近い歴史を閉じた。だが、同ギャラリーの旧スタッフを中心に、東京都国立市の石原の自宅を拠点として、ZEIT-FOTO Kunitachiの活動が継続している。石原が遺した写真、絵画、クラシック音楽レコードのコレクションの整理、保存のほか、1年に2~3回のペースで、展覧会も開催してきた。今回の「石原悦郎への手紙 PartⅡ-AIRMAIL-」展は、2018年に開催した「石原悦郎への手紙─世界の写真家(アーティスト)から─」に続く企画である。

出品者の顔ぶれが興味深い。写真家では渡辺眸、鷹野隆大、尾仲浩二、井津建郎、楢橋朝子、郷津雅夫、安齊重男、柴田敏雄、オノデラユキらが出品している。ロバート・フランク、ビル・ブラント、ベルナール・フォコンの名前も見える。作品の近くに掲げられた石原宛の「AIRMAIL」の書簡やポストカードと併せて見ると、彼らと石原との緊密な関係、作品制作に取り組むときの影響の強さが伝わってくる。ツァイト・フォト・サロンのコレクションがどのように形成され、作家同士の関係がどう育っていったかが見えてきて、あらためてギャラリストとしての石原悦郎の存在の大きさを感じることができた。柴田敏雄の極めて珍しい「静物写真」など、思いがけない作品も出品されている。ZEIT-FOTO Kunitachiには、まだ写真600点、絵画700点が残っているのだという。これから先も、いろいろな切り口の企画展が考えられるのではないだろうか。

2022/05/13(金)(飯沢耕太郎)

植田真紗美「海へ」

会期:2022/05/03~2022/05/15

百年/一日[東京都]

東京出身で玉川大学文学部リベラルアーツ学科、日本写真芸術専門学校を卒業した植田真紗美は、2018年の第19回写真「1_WALL」展でファイナリストに選出されるなど、このところ存在感を増している写真家の一人だ。昨年10月に、ファースト写真集『海へ』(Trace)を刊行し、仲間たちと共同運営している東京・恵比寿のKoma galleryで同名の個展を開催した。今回の東京・吉祥寺の古書店「百年」とその姉妹店の「一日」での展示は、同展のアンコール企画である。

一点一点が力強く、鋭角的に結晶しているように見える写真が並ぶ。それぞれの写真の相互関係もよく考えられ、練り上げられており、高度な表現力の持ち主であることがよくわかった。ただ、「海へ」というテーマ設定が、やや抽象的すぎて、植田の生のあり方とどのようにかかわっているのかがうまく伝わってこない。宇宙的な広がりを感じさせるスケールの大きな写真と、身近な身体的なイメージとの落差を、埋め切れていないもどかしさも感じた。植田が2013年から、布川淳子、川崎璃乃らとともに刊行している写真同人誌『WOMB』(2021年の11号まで刊行)にも、「海へ」シリーズが掲載されているのだが、こちらにはパートナーの男性など、より具体的なイメージが入っている。写真集・写真展の構成にやや迷いがあったのではないだろうか。

とはいえ、植田のような発想力と行動力を兼ね備えた写真家は、殻を破れば大きく飛躍していくのではないかと思う。その潜在能力を活かして、むしろひとつのテーマにより集中していってほしい。「一日」の展示スペースで上映されていたスライドショーには、また別な可能性を感じた。写真の点数をもっと増やし、音楽との相性を吟味していくことで、よりダイナミックな物語性を備えた作品世界が構築できるのではないだろうか。

2022/05/13(金)(飯沢耕太郎)

2022年06月15日号の
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