artscapeレビュー
2022年06月15日号のレビュー/プレビュー
新田樹「続サハリン」
会期:2022/05/31~2022/06/13
ニコンサロン[東京都]
報道/ドキュメンタリー写真のピークというべき1950-70年代には、多くのフォト・ジャーナリストが世界各地に足を運び、戦争や災害といった出来事を撮影し、雑誌や新聞などに発表していた。まさに「一枚の写真が世界を動かす」ということが、写真家にも読者にも信じられていた時代があったということだ。だが1980年代以降、フォト・ジャーナリズムは「冬の時代」を迎え、作品の発表の場も次第に失われていく。新田樹(にった・たつる)が独立して、写真家として活動するようになったのは1996年であり、彼はまさに「冬の時代」における報道/ドキュメンタリー写真のあり方を、徒手空拳で模索していかなければならなかったのではないだろうか。
新田がテーマとして選んだのは、第二次世界大戦後にロシア領となったサハリン(樺太)に取り残された在留日本人、朝鮮人である。約35万人といわれる日本人、2万~4万3千人とされる朝鮮人も、戦後数十年が経過する間に、その多くは帰国し、高齢化によって亡くなっていく。新田は、いわばその最後の生き残りというべき人たち(主に女性たち)にカメラを向けていった。2010年から本格的に開始されるその撮影の仕方は、まさに正統的なドキュメンタリー写真のそれといってよい。彼女たちの家を何度も訪ね、丁寧にインタビューし、室内やその周囲の風景を含めて、細やかなカメラワークで写真におさめていく。その成果は2015年の個展「サハリン」(銀座ニコンサロン)で発表され、今回の「続サハリン」展に結びついていった。われわれにはあまり馴染みのないドーリンスク(旧・落合)、ユジノサハリンスク(旧・豊原)、ブイコフ(旧・内灘)といった地名の場所、木村文子さん、奥山笑子さん、李富子さんといった名前の女性たちの姿が、まさに固有名詞化されて、それらの写真に写しとられている。
いま、サハリンはロシアのウクライナ侵攻によって別な意味で注目されるようになった。だが、新田の写真を見ていると、歴史に翻弄されつつも生き抜いてきた人たちを、抽象化することなく個々の存在として捉えることが、いかに大事であるかがわかる。やや地味ではあるが、厚みと重みを備えたドキュメンタリーの仕事といえるだろう。写真展に合わせて、「サハリン」「続サハリン」の2回の展示の写真をまとめた『Sakhalin』(ミーシャズプレス)が刊行された。テキストを英訳した小冊子付きの、とても丁寧な編集とレイアウトの写真集である。
2022/06/06(月)(飯沢耕太郎)
フリードリヒ・シュレーゲル『ルツィンデ 他三篇』
翻訳:武田利勝
発行所:幻戯書房
発行日:2022/02/09
2019年6月に刊行開始された〈ルリユール叢書〉(幻戯書房)が、先ごろシリーズ30冊に達したという記事を読んだ
。その玄人好みのラインナップもさることながら、たったひとりの編集者が、月に一冊を超えるペースでこの叢書を切り盛りしているというのは驚異的というほかない。ところで数ヶ月前、その新刊書のなかにひときわ目を引く表題を見つけた。それが本書、フリードリヒ・シュレーゲルの『ルツィンデ』である。フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)といえば、兄アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(1767-1845)とともに雑誌『アテネーウム』を立ち上げるなど、多彩な活動で知られる初期ドイツ・ロマン派の作家だ。そして、この学者肌の作家による唯一の小説作品が、かれが27歳のときに発表した『ルツィンデ』(1799)なのである。
これは翻訳にして140頁ほどの中篇小説であり、ドイツ・ロマン派に格別の関心を寄せる読者を除けば、本書の存在を知る読者はそう多くはないだろう。ただ、『ルツィンデ』はけっして「知られざる」作品というわけでもない。戦前には1933年と34年に二種類の(!)翻訳が出ており、文芸同人誌『コギト』第30号(1934年11月号)には、かの保田與重郎による『ルツィンデ』論が掲載されている。すくなくとも戦前の日本では、本書は──おもに日本浪曼派を通じて──それなりに知られていた作品であった。戦後に目を転じてみると、1980年代から90年代にかけて刊行されていた『ドイツ・ロマン派全集』の第12巻に、やはり『ルツィンデ』の新訳が収められている(平野嘉彦訳、国書刊行会、1990)。そしてこのたびの『ルツィンデ 他三篇』は、当該作品に加え、関連する「ディオテーマについて」「哲学について」「小説についての書簡」の三篇を収録した、いわば決定版とでも言うべきものである。
そもそも本書はいわくつきの小説である。哲学および文学に深い造詣を示した若きフリードリヒ・シュレーゲルは、本書『ルツィンデ』が引き起こした一大スキャンダルによって、アカデミズムへの道を永久に絶たれることになった。それは、本書がシュレーゲル本人と、8歳年上の人妻ドロテーアの恋愛をただちに想起させる「モデル小説」だったからだ。本書におけるユーリウスとルツィンデは、その数年前、すでにベルリンのサロンで噂になっていたフリードリヒとドロテーアを明らかにモデルとしたものだった。本書の解説によると、『ルツィンデ』をめぐる騒動は、1801年に行なわれたシュレーゲルの教授資格審査の場にまで及んだという(293-294頁)。その小説としての内容の評価以前に、本書はそうしたスキャンダルとともに受容されたのだ。
だが、『ルツィンデ』の本当の「スキャンダル」はそこにはない──かつてそのことを指摘したのが、批評家のポール・ド・マンであった。ド・マンは「アイロニーの概念」(『美学イデオロギー』上野成利訳、平凡社ライブラリー、2013)において本書『ルツィンデ』を取りあげ、ヘーゲルやキルケゴールといった錚々たる哲学者たちが、この小説をなぜかくもヒステリックに論難するにいたったのかを説明する。ごくかいつまんで言えば、その理由は次のようになる。この小説──とりわけ「ある省察」と題されたパート(124-129頁)──では、性愛と哲学をめぐる議論がほとんど不可分なかたちで繰り広げられる。つまりこの小説では、性愛的描写と哲学的思弁が、明らかな意図をもって同じ平面のもとにおかれているのだ。ここに読まれるのは、「性愛のコード」と「哲学のコード」のアイロニカルな混淆であり、そのことが本書を読んだ哲学者たちを激しく苛立たせた原因だ、というのである。
実際に本書を読んでみると、このド・マンの立論にはそれなりに理があるように感じられる。つまり『ルツィンデ』が挑発的なのは、おのれの秘すべき恋愛をモデルにしたという表層的な次元にはおそらくない。むしろ読者は「小説(ロマン)」というこの文学形式に依拠した文学的かつ思想的な挑発にこそ着目すべきなのだ。本書に収録された「小説についての書簡」をはじめとする小品は、そうしたシュレーゲルの意図をうかがい知る助けとなるだろう。巻末の充実した註や訳者解題とあわせて、本書は日本語における『ルツィンデ』の決定版と言える一冊である。
2022/06/07(火)(星野太)
カール・ゼーリヒ『ローベルト・ヴァルザーとの散策』
翻訳:新本文斉
発行所:白水社
発行日:2021/11/10
本書は、スイスの伝記作家・ジャーナリストであるカール・ゼーリヒが、作家ローベルト・ヴァルザー(1878-1956)との40回以上におよぶ散策の記録を書き留めたものである。本書は晩年のヴァルザーの人となりを伝える書物として長らく知られてきたが、たとえヴァルザーの作品について何も知らなくとも、本書はそれ自体できわめて興味深い読み物として成立している。
ごく個人的な話になるが、わたしはかつて、エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、2008)を通じて、このローベルト・ヴァルザーという作家に大きな関心をもった。ハーマン・メルヴィルの小説中の人物「バートルビー」に類する人物を文学史のなかに探っていくこの驚嘆すべき書物は、まさしくこのスイス人作家をめぐるエピソードから始まる。そこで描き出されるヴァルザーの実人生は、カフカやゼーバルトを魅了したその作品と同じく、あるいはそれ以上に興味をそそるものだった。
本書の主役であるローベルト・ヴァルザーは、この「散策」が始まった時点ですでに文学的には沈黙し、スイス東部ヘリザウの精神病院に収容されていた。かたや、編集者でもあった本書の著者ゼーリヒは、この散策に先立って──世間がヴァルザーにあらためて目をむけるべく──その作品をふたたび世に問おうとしていた。そうした背景のもと、1936年以来、ゼーリヒはヴァルザーのいた精神病院をたびたび訪れ、本書に収められた長期間にわたる「散策」を敢行する。本書の初版が世に出たのは1957年、ヴァルザーが亡くなった翌年のことである。
したがって本書はまず、晩年に沈黙したこの作家の言葉を伝える貴重な資料として読むことができる。しかし同時に、本書には「著者」ゼーリヒによる数多の脚色が施されていることに注意せねばならない。訳者あとがきでも指摘されるように、本書の端々にあらわれる箴言めいた言葉のなかには、どこかこの作家には似つかわしくないものも含まれる。この『ローベルト・ヴァルザーの散策』は2021年にズーアカンプから出た最新版の邦訳だが、その編者のひとりであるペーター・ウッツの指摘によれば、本書には「後見人」ゼーリヒの政治的な身振り、さらにはひとりの「作家」としての介入が数多くみとめられるという。
だが、それを単純に本書の瑕疵と考えるべきではないだろう。本書が、ローベルト・ヴァルザーという謎めいた作家との散策を伝える貴重な「資料」であり、それをもとにしたカール・ゼーリヒという人物の「作品」でもあるということはいずれも事実であり、この二つは単純な排他的関係にはない。晩年に沈黙したひとりの伝説的な作家の「生」が、ここには幾重にも捻れたしかたで描写されており、そのことが逆説的にも本書を魅力的なものとしている。さらに本書には、ゼーリヒ本人によるヴァルザーの肖像写真が多数収められている。二人きりの散策の「真実らしさ」を強調するかのようなその数々の写真をいかに「読む」か──それもまた、このミステリアスな書物がわれわれに突きつける問いのひとつである。
2022/06/07(火)(星野太)
カタログ&ブックス | 2022年6月15日号[近刊編]
展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます
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ワタシの迷宮劇場 森村泰昌
京都市京セラ美術館にて、2022年3月12日〜2022年6月5日まで開催されていた展覧会「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」の図録。
彫刻刀が刻む戦後日本
町田市立国際版画美術館にて、2022年4月23日(土)~7月3日(日)まで開催されているの展覧会「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」の図録。
ヴェネチア・ビエンナーレと日本
世界最大級の現代アートの展覧会、ヴェネチア・ビエンナーレ美術展の日本公式参加70周年記念出版。
福島菊次郎 あざなえる記憶
被爆者、学生運動、公害問題――。戦後史の先端を活写した報道写真家・福島菊次郎を近くで四半世紀にわたり見つめてきた著者が、時代と切り結んだ「師」の姿と言葉を追い、その覚悟と葛藤、老いと死をつづる極私的フォトエッセー。
閉ざされる建築、開かれる空間 社会と建築の変容
脱「建築」――構築から接続へ。読売新聞連載コラム「建築季評」20年による建築・都市の読み解きから、空間の捉え方を考える。
創造とアナーキー 資本主義宗教の時代における作品 (シリーズ〈哲学への扉〉)
スイスの建築学校でおこなわれた連続講演をもとに、芸術作品の考古学、創造行為とは何か、我有化しえないもの、命令とは何か、宗教としての資本主義、という五つの主題をめぐり、諸学を横断しつつ概念の星座を探索する、アガンベンの思考のエッセンス。
ミュージアムの教科書 深化する博物館と美術館
ルーヴル美術館、万国博覧会、MoMA、ヴィクトリア&アルバート博物館、東京国立博物館、日本民藝館、セゾン美術館、森美術館、アイヌ民族博物館――国内外の重要なミュージアムや展示をピックアップして、各館の歩みや社会的な役割を丁寧に解説する。
田中信太郎アトリエ
没後のアトリエに残された「物」と空間をとらえた写真と本人のアフォリズム、中井康之による評伝から構成。
ディック・ブルーナ 永遠のデザインとことば
世界中で愛され続けているミッフィーの作者ディック・ブルーナの言葉と、あたたかくかわいいイラストが詰まった名著復刊!
誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論 (岩波ブックレット)
「排除アート」設置の歴史・背景をひもとき、日本の公共空間づくりの問題点を浮き彫りにする。
関連レビュー
名古屋の排除アート|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)
建築家の解体 (ちくま新書)
「スター建築家」から「顔の見える専門家」へ――。安藤忠雄、隈研吾、谷尻誠……「建築社会学」を探究する社会学者が、来たるべき建築家の職業像を示す。
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2022/06/14(火)(artscape編集部)