artscapeレビュー
2022年06月15日号のレビュー/プレビュー
沿岸部の被災地をめぐる
[宮城県]
せんだいメディアテークが推進する「アートノード」は、決して派手ではないが、ゆっくりと着実に動いている。アドバイザー会議にあわせて、川俣正による「仙台インプログレス」の状況を見学した。今年の春には、貞山堀の運河沿いに松林を一望できる小さな木造の《新浜タワー》(定員は5名まで)が完成している。構造材とは別にややランダムに斜めに配されたルーバーや、張り出した部材などのデザインによって、しっかりと川俣の作品になっていた。またその脇からは、2020年につくられた全長120mの《みんなの木道》が続く。もともとは運河にみんなの橋をつくる計画として始まったものだが、その前に木造やタワーができるというのも、いかにも川俣らしい展開だろう。
なお、こうしたプロジェクトのミーティングでは、《新浜のみんなの家》が使われている。公園の仮設住宅地において伊東豊雄が最初に設計した《みんなの家》(2011)を移設したものだ。このあたりは、東日本大震災後に指定された可住地域と非可住地域の境界に近い。アーティストの佐々瞬が、半壊になった住宅の傷ついた部分を残しながら改修しているのも、このエリアである。また貞山堀の運河に近い宮城野区岡田の新浜地区では、建築ダウナーズの《風手土農園の小屋》や、佐々による《盆谷地の小屋》なども制作され、2021年にみんなの家を拠点として小屋めぐりのイベントが開催された。
その後、震災遺構 仙台市立荒浜小学校を久しぶりに再訪したが、駐車場のためのアスファルトのエリアが拡張されていた。それなりに来場者がいるのだろうが、今後、近くで新しい施設の開発も予定されているらしい。またその向かいの居住禁止の区域にある自宅跡地をスケートパークに改造した《CDP》(2012)は、健在だった。2019年に公開された震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎は、コンクリートの基礎だけが残り、一帯がかつて住宅地だったことを伝える。ここからは、かつて海水浴場として賑わったエリアはすぐである。昔の状況に戻すことは難しいし、私有地のためか、いまだに瓦礫が除去されていない場所も残っているが、少しずつ新しい風景を獲得しようとしている。
2022/05/19(金)(五十嵐太郎)
岸幸太「Vietnam Street」
会期:2022/05/17~2022/06/04
岸幸太は、長期にわたって撮影していた釜ヶ崎、山谷、寿町などの「ドヤ街」の人とモノの写真群をまとめた大作『傷、見た目』(写真公園林、2021)を写真集にまとめてから、photograpers’ galleryで、カラー写真による「連荘」シリーズを発表し始めた(2021年7月、2022年1月)。だが、2017年からは、「Vietnam Street(ベトナム通り)」と題するもうひとつの写真シリーズにも取り組んでいる。
「ベトナム通り」といっても、ベトナムで撮影しているわけではない。「ベトナム通り」とは、沖縄本島の嘉手納基地を貫くように走る、沖縄市道知花38号の通称である。週末には道にフリーマーケットの露店が並び、ベトナムの街路を彷彿とさせるのでそう呼ばれるようになった。道の片側には基地のフェンスがあり、黙認耕作地と呼ばれる農地も広がっている。とはいえ、岸はこの道の特異性を強調して撮影しているわけではない。牛舎、豚舎、産業廃棄物処理工場、自動車関連工場などもある、そのどちらかといえば殺風景な光景は、むしろ日本のどこにでも見られるもののようだ。
会場には、横位置のカラー写真31点と、大判プリントに引き伸された黒白印画3点が淡々と並んでいた。このような素っ気ない撮り方の写真を積み重ねていくことで、厚みのある視覚的なアーカイヴが形をとっていくのではないかと思う。ある意味では日本の風景の縮図ともいえる「Vietnam Street」が、どのような眺めに組織されていくのかを、もう少し長いスパンで見てみたい。
関連レビュー
岸幸太「連荘 1」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
岸幸太『傷、見た目』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年06月01日号)
2022/05/20(金)(飯沢耕太郎)
田凱「モニタリング」
会期:2022/05/10~2022/05/22
中国出身で、2018年の第19回写真「1_WALL」でグランプリを受賞した田凱は、その後もコンスタントに個展を開催し続けている。その度ごとに、異なるテーマ、視点で作品を発表しており、写真家としての懐の深さを感じる。
今回は、監視カメラという現代的なテーマを取り上げた。田凱の認識によれば、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で言及したパノプティコン(全展望監視システム)に代表される「規律社会」は既に解体してしまった。それに代わって多視点的な「管理社会/監視社会」のシステムが強化されつつある。街角に設置されている監視カメラは、そのシンボルといえるだろう。今回の展示では、実際に監視カメラをクローズアップで、あるいは距離を置いて捉えた写真群に加えて、部屋の中を滑らかに移動するカメラ(明らかに監視カメラの動きを意識している)で撮影した画像を、小石をちりばめたスクリーンに投影するという映像インスタレーションも出品していた。
狙いはよくわかるし、日本よりさらに監視システムが大きな役割を果たしている中国出身の田にとっては、切実なテーマであることが伝わってくる。とはいえ、全体的にはまだスケッチの段階であることは否めない。より鋭角的、批評的に「管理社会/監視社会」を浮かび上がらせていく仕掛けを、多元的に構築する必要があるだろう。このシリーズは、まだ完結し切れていないところに、逆に可能性を感じる。
関連レビュー
田凱「取るに足らないくもの力学」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年10月01日号)
2022/05/20(金)(飯沢耕太郎)
Nature Study: MIST
会期:2022/05/14~2022/05/22
霧(きり)と霞(かすみ)、靄(もや)の違いをあなたは説明できるだろうか。霧は1km未満の距離で見通せる微小な水滴、靄は1km以上10km未満の距離で発生する微小な水滴のことで、霞はそもそも気象用語ではないという。その一方で、春に見えるものを霞、秋に見えるものを霧と呼び分ける文化が日本にはある。言われてみれば確かに「春霞」は春の現象だし、「霧雨」は秋の雨を指す。
そんな物事の根本を考えるきっかけを与えてくれたのが本展だ。最近、その名前と活躍をよく目にするコンテンポラリーデザインスタジオ、we+のリサーチプロジェクト「Nature Study」である。彼らは独自のリサーチ手法を「アーティスティックリサーチ」と呼び、ロジカルで多層的な思考に、フィールドワークや実験、感性的なアプローチを融合することを得意とする。今回、彼らがテーマにしたのが「ミスト」だ。驚いたのは、冒頭で触れたように「言葉と文学」からも丹念にミストとは何かのリサーチを試みていた点だ。言葉を大事にし、それをデザインの起点とするデザイナーを私はこれまであまり見たことがない。なんと感性豊かな人たちなのかと好感が持てた。
またフィールドワークでは長野県中部にまたがる霧ヶ峰や、神奈川県箱根町にある大涌谷に赴いてミスト現象を自ら体験し、実験では噴霧器や湯沸かし器、ドライアイスなどで起こる現象を観察。これらが動画に収められ、公開されていた。ほかにインスピレーション源となった素材や装置、文献、さらに色水を使用したミストや、ファンで制御したミストなど実験的なプロトタイプを展示し、彼らの思考すべてを“見える化”するというユニークな発表が行なわれていた。
そして奥のスペースへ進むと、インスタレーションが待ち構えていた。薄暗い空間の中に浮かび上がるミストはとても幻想的に映る。いくつもの彼らのリサーチを共有してもらった後だからだろうか、什器から沸くミストや壁越しに見るミストが格別に感じてしまった。彼らの目論見に見事にハマってしまったようだ。丁寧で複合的なリサーチは人々の共感を得やすい。デザイナーがデザインに向き合う姿勢として、今後、そうした姿勢が強く求められるように感じた。
公式サイト:https://naturestudy.jp
2022/05/21(土)(杉江あこ)
ケダゴロ『세월』
会期:2022/05/26~2022/05/29
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]
下島礼紗を主宰に2013年に結成されたダンスカンパニー、ケダゴロ。下島は、「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020」にて受賞し、今年度よりセゾン文化財団の若手支援枠であるセゾン・フェローⅠに採択され、海外公演も予定など、新進気鋭の振付家である。ケダゴロはこれまで、出世作『sky』(2018)では連合赤軍事件とオウム真理教事件、『ビコーズカズコーズ』(2021)では1980年代の整形逃亡殺人犯である福田和子と、センセーショナルな社会事件を着想源としたダンス作品を発表してきた。前者では、オムツ姿で両手に持った氷の塊をダンベル体操のように持ち上げ続け、後者では、頭上に格子状の装置が張り巡らされ、腕の筋肉のみでその上に登って身を隠す/耐え切れずうんていのようにぶら下がる運動が繰り返され、悲鳴や怒号、「ガンバレ」と激励しあう声が飛び交う。ダンサーの身体に過酷な負荷をかけ続けることで、さまざまな集団的暴力(日本社会の同調圧力、規律や権威への絶対的服従、ジェンダーの暴力、そして振付という暴力)を観客に突きつけてきた。
本作『세월』では、2014年に韓国で起きた大型旅客船「セウォル号」沈没事故を題材としている。304名(うち修学旅行の高校生250名)の死者を出したこの大惨事は、積荷の過積載、乗船員の経験不足、救命道具や避難誘導の安全教育の怠慢、そして乗客へ「待機」のアナウンスを繰り返すだけで避難指示が大幅に遅れたことなど、複数の要因が指摘されている。
開演前から、舞台の上手奥にはオレンジに塗られた平台が山型に積み上げられ、名前のゼッケンのように胸に「세월(セウォル)」と書かれたTシャツを着た出演者たちが、この「船」の両側に佇んでいる。頭上には大きな拡声器が4台吊られ、時折アナウンスが流れる。開演と同時に出演者たちが平台の山から降りると、危ういバランスを保っていた「船」は、「ドーン」という轟音とともに崩壊。拡声器が不穏に傾く。だが彼らは、オレンジの平台=救命ボートには見向きもせず、単調だが中毒性のある韓国語の歌に合わせ、ふざけたノリの振付を集団的統率のもと踊り続ける。交互に韓国語の歌が繰り返し流れ、同調したダンスと、でんぐり返り、腕立て伏せ、2人1組での倒立など、体操的な運動がひたすら遂行される。拡声器から断続的に「カマニイッソ(動かないで)」という韓国語のアナウンスが流れるたび、ダンサーたちは「静止」するが、曲がかかると条件付けのようにダンスを再開する。不気味なまでに規律と指示に従う身体の集団性がただただ提示される。彼らはたびたび「過呼吸」に陥るが、「ヒーッ、ヒーッ、ハァー」という息のリズムまで完全に同期しているのだ。
また、拡声器からは、「上演終了まであと○分○秒です」とカウントする別の声も繰り返し流れ、「そのまま客席でお待ちください」という指示は、「上演終了=沈没」までのカウントダウンの時間を「客席に待機を強いられた身体」として耐えねばならないものとして、観客を「上演」という出来事の共犯者に巻き込んでいく。私たちは、目の前で息を切らして汗だくになっていくダンサーたちを「見せ物」として安全に消費するのではなく、客電が落ちずに舞台と地続きになった明るい光のもと、姿の見えない不可解な「命令」が下す暴力の宛先となるのだ。
後半、オレンジの平台はダンサーたちの手で組み替えられ、階段状の斜面を「緊急脱出シューター」のように一人ずつ転がり落ちたあと、海面に浮かぶ「救命筏」となる。だが、平台は両側から持ち上げて激しく揺さぶられ、筏に乗る者たちは「大波」に足元をすくわれながらも振付を遂行し続けようとする。疲労の蓄積のなか、ランナーズハイのようにさらに熱気と祝祭性を帯びていくダンス。終盤では、平台を裏返すと「オレンジの地に白い十字架」が現われ、ダンサーたちはゴルゴダに向かうキリストのように、一台ずつ背負って重荷に耐え続ける。救命装置が命を奪う負荷になるという究極の皮肉。一人、また一人と耐え切れず床に落とした者が立てる、「ゴトン」という絶命の音。「ガンバレ」と口々に励まし合う声。なおも流れる待機と静止を命じるアナウンスに従ったまま、どこにも進めない虚しい足踏みの音が暗闇に響き、幕切れとなった。
このように、オレンジの平台というシンプルな舞台装置にさまざまな意味づけを与え、セウォル号事故への示唆を散りばめた本作だが、メタレベルで上演されていたのは、やはり過去作品と同様に、徹底して「日本」という構造的暴力と、(観客も巻き込んだ)「上演」という暴力にあると思う。誤解を恐れずに言えば、セウォル号事故という「題材」は、そのための「設定」にすぎない。土着的な日本の踊りを思わせる振付に一瞬顔を出す、土下座や切腹の身振り=「謝罪」や自己責任の圧力。何度も反復される腕立て伏せは、理不尽な「懲罰」であり、腕と連動した頭の上下は「土下座」でもある。ダンサーたちは頬をふくらませて「息を止めた」状態で振付に従事するが、それは水難と同時に、「ひょっとこ顔」で舞い踊る祝祭性、そして「自由な発言の禁止」でもある。彼らの口を塞ぐのは、水の浸入だけではないのだ。
本作の動機には、下島が昨秋、韓国国立現代舞踊団から委嘱を受けて滞在制作を行なったことにあるという。ただ、セウォル号事故を「日本」の文脈と関連づけて扱う必然性が、本作からは見えてこなかった。特に疑問の中心は、作中で流れた「独島は我が領土」の歌である。セウォル号事故との関連性からは唐突で違和感を感じたが、韓国語を解さない観客にわかるようにあえて「日本語歌詞バージョン」を用いたことは、潜在的な主題が「日本」であることを示す。「反日」に過剰に反応する排他的な集団心理が「われわれ日本人」の一体感を形成することを示したと解すべきだろう。
ダンスサークルや運動部の練習着のような衣裳をまとい、「ゼッケンに書かれた名前」さえも匿名化され、ルール=振付に絶対服従する者たちは、日本社会という集団的狂気を上演し続ける。そこではルールに従う限り快楽がもたらされ、同調を強いる暴力に反転し、規律への服従が再生産されていく。過去作『sky』では、「ルール」を命じる存在が「教祖」「集団のリーダー」として明示され、特権的な男性ダンサーにその役が割り当てられていたが、本作では「拡声器から流れる不在の声」によって、私たちが内面化している証左が突き付けられた。私たちが見続けていたのは、「日本」が「沈没」していく姿にほかならない。だが、なぜ誰も異議を唱えず従い続けるのか?「脱出」するためにはどうすればいいのか?「ダンサーに集団的な肉体負荷をかける」というケダゴロの体質上、何を題材にしても構造的暴力性に帰着してしまう点は否めないが、本作では、(観客も含め)「ルールの内面化」を「拡声器」として可視化させる進化を見せたからこそ、「その先」の方向性に期待したい。
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