artscapeレビュー
2011年02月01日号のレビュー/プレビュー
大橋可也(構成・振付・演出)『驚愕と花びら』
会期:2011/01/08~2011/01/09
シアター・バビロンの流れのほとりにて[東京都]
ダンスワークショップ「疾駆する身体」から生まれた作品。舞台に登場した10人ほどのダンサーのほとんどはレギュラー・メンバーではなく、必ずしも大橋の振付に対して感度が高い者ばかりではなかった。しかしその分、大橋の方法論が汎用可能であることを確認できた上演だった。大橋の方法論の根底にあるのは、いうまでもなく舞踏である。舞踏は、能動的というよりも受動的なダンスである。動くというよりも動かされる動き。そこには、自分を動かすなにかが「気配」として舞台に存在していなければならない。そして、そうした存在が一体何者なのか、ひとつの解釈として呈示されていなければならない。例えば土方巽が「風だるまの話」のなかで「悪寒」と呼んだようななにか。大橋はときに、そこに「格差社会の不安」を読み込んだりもしたが、今作も夢遊病者のように舞台をうろつくダンサーたちによって、寄る辺のない若者の姿が立ちあがっていた。暴力的な印象も強い大橋作品だが、じつは繊細で美しい。ところどころで現われるダンサーのユニゾンは、偶然のもつ美しさを描き出していた。
2011/01/09(日)(木村覚)
フジイフランソワ展
会期:2011/01/10~2011/01/22
Oギャラリーeyes[大阪府]
彼女の作品を見るのは約2年ぶり。久々の再会だったせいかもしれないが、一段と絵がうまくなった気がする。作品も、大作2点に屏風に掛け軸などバラエティ豊かで見応えがあった。柳の葉がすべて蛙に置きかえられるなど、この人ならではの大人風味のユーモア感覚も健在。すっかり楽しませてもらった。
2011/01/10(月)(小吹隆文)
伊吹拓 展 あるままにひかる
会期:2011/01/03~2011/01/23
neutron kyoto[京都府]
300号近い大作3点を中心に、大小さまざまな作品をギャラリー、ショップ、カフェに展示。大作の3点は色遣いやタッチがそれぞれ異なり、そのたたずまいには威厳が感じられた。本来は単独で成立する作品だが、三幅対を思わせる今回の展示も素晴らしかった。それにしても、作家の充実ぶりが伝わる個展だった。今の伊吹の勢いはギャラリーのサイズを超えている。できることなら、美術館かそれに準ずるスペースで彼の個展を見たいものだ。
2011/01/11(火)(小吹隆文)
日高理恵子─見ること
会期:2011/01/11~2011/02/04
ギャラリー16[京都府]
アサヒビール大山崎山荘美術館で開催中の「山荘美学」展に出品中の日高が、同美術館と同じ京都にある画廊でドローイング展を開催した。学生時代の1970年代後半から近年まで、30年以上のタイムスパンを持つ作品を見比べると、描き方はもちろんだが、視線の移り変わりがよくわかる。対象を至近距離で見つめることから、対象を含む空間へ、そして対象の向こう側に広がる空間へと、対象との距離感が変化しているのだ。ドローイングのみの個展は初めてということでレア度も高く、小規模ながら見応えのある個展だった。
2011/01/11(火)(小吹隆文)
久保田弘成 個展「廻船仁義~北九州漁船大回転」
会期:2011/01/07~2011/01/18
演歌にあわせて廃車をぐるぐると回転させる久保田弘成の新作展。今回は、廃車ではなく廃船を回転させた北九州は門司でのイベントのメイキング映像のほか、ドローイングや立体作品などを発表した。撮影と編集を専門家に一任したからなのか、同画廊で催された前回の個展で見た映像とは比べ物にならないほど映像のクオリティが高まっていたが、久保田のパフォーマンスの本質そのものはつねに一貫している。それは、男気の過剰な自己演出だ。映像を見ると、褌や作業着、くわえタバコ、演歌といった職人気質を物語る記号や身ぶりがあふれていることに気づく。ただ、その男気が強調されればされるほど、どこかで違和感が残されるのも事実だ。屹立する男根を直接的に描いたドローイングはともかく、同じかたちの立体作品は不自然なほど直立しており、その人工性が久保田の「男気」の人為性を透かしてしまう。いってみれば、チンピラが悪人として振舞えば振舞うほど、善人の部分がクローズアップされてしまうのと同じ理屈だ。この逆説の論理を突き詰めることには多くの難問が待ち受けているはずだが、久保田はそれでもあえてその道を突き進むだろう。それが「男気」のもっとも健全なありようだからだ。
2011/01/11(火)(福住廉)