artscapeレビュー
2011年02月01日号のレビュー/プレビュー
プレビュー:三瀬夏之介「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」
会期:2011/02/04~2011/02/26
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
若手日本画家のなかでも飛び抜けた存在感を放っている三瀬が、母校のギャラリーで個展を開催する。展示は2部構成で、第1部の「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」では、幅20メートル以上の大作を中心に、第2部「水墨考」では、近年の旺盛な活動意欲が見てとれる作品群が出品される予定。ますますスケールアップしているであろう彼の作品を楽しみにしている。
2011/01/20(木)(小吹隆文)
プレビュー:山本太郎 展「古典─the classics─チェリー」
会期:2011/02/12~2011/03/19
イムラアートギャラリー[京都府]
関西では3年ぶりとなる山本の個展。昨年に謡曲をテーマに制作した大作《桜川》と《隅田川》を展示するほか、源氏物語をベースにした《花下遊楽図(仮)》をはじめとする新作の小品も数点出品する。本展は昨年に名古屋、東京、金沢を巡回した展覧会シリーズの一環だが、上記の新作が含まれている分だけ特別感があり、関西の観客のモチベーションが上がりそうだ。
2011/01/20(木)(小吹隆文)
植田正治 写真展 写真とボク
会期:2010/12/18~2011/01/23
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
福沢一郎にとっての満州は、植田正治にとっての鳥取砂丘だった。地平線と白い砂丘、太陽の強い光などで構成される植田の写真にはシュルレアリスムの匂いが強く立ち込めているが、シュルレアリストの多くが画面のなかに架空の世界を描くほかなかったのに対し、その舞台を鳥取砂丘という現実的な土地の上につくり上げることができたという点が、植田の強みだ。家族や地元住民、都市から呼び寄せたモデルなどを砂丘の上に配置した写真は、奥行き感より平面性が優先され、そのうえ強い陰影と、何より画面を左右に貫く地平線のラインが、現実世界でありながら非現実的に見える両義性を巧みに強調している。植田の写真を見ていると、福沢一郎から引かれたシュルレアリスムの系譜が、北脇昇の《クォ・ヴァディス》や諸星大二郎の『遠い国から』など、美術や写真、マンガなど、じつに多様なジャンルに引き継がれているのが、よくわかる。
2011/01/20(木)(福住廉)
「アジア・デザイン・エンサイクロペディアの構築」プロジェクト
会期:2011/01/20~2011/01/21
国際高等研究所[京都府]
アジア・デザイン・エンサイクロペディアの構築という新しいプロジェクト(研究代表者:大阪大学大学院教授藤田治彦氏)が、国際高等研究所(京都)で始まっている。アジアのものづくりと歴史・社会文化・生活環境等や世界的影響などについて意見交換を行なうのがその目的。昨年、トルコやインドほかから研究者を迎えて南アジアや東南アジアのデザインの現状と課題が討議されたのに続き、この1月には英国からの研究者を交え、第2回目の研究会が行なわれた。一連の会議は、数年後に英国の出版社から刊行予定の『Encyclopedia of Asian Design』と並行して行なわれるもの。ここ数年、世界中でデザイン・ブームを象徴するトピックには事欠かない。西欧で、デザイン製品の百科全書が次々と発刊されていることは、その一例だ。しかし、そのなかでどれくらいのアジアのデザインが扱われているだろうか。私たちの住む東アジアだけをとってみても、それぞれのデザイン・生活文化・工芸の豊かな伝統が、相互に充分理解されているとは言えない。ましてや、欧米がデザインの主導を握る現在、西洋ではアジアのものづくりへの理解がどの程度進んでいるのか? このような課題について、世界的な視野から総合的に検討を行う場が、いままさに日本でスタートした。注目していきたい。[竹内有子]
2011/01/20(木)(SYNK)
大遠藤一郎展『未来へ』・ライブペインティング
会期:2011/01/21
island MEDIUM[東京都]
大遠藤一郎展『未来へ』と称する展示が、都内と千葉・柏の六カ所で催されている最中、遠藤一郎がライブペインティングを行なった。約50分。ギャラリーの壁一面に貼った板を柔らかくなでた後、突然会場を抜けると戻ってきた遠藤は、手にしたキャンバスを壁の中央に固定していった。はしごを登ってまず書いたのは「We are alive on the earth.」「We are family in the world.」「Let's make the big ring for our future.」。次に、カラフルな絵の具の缶に手を突っ込んで、板を叩き、さらに、的のような何重かの円を描いていった。けっして否定的な意味ではなく、遠藤のパフォーマンスにはオリジナルな要素はない。むしろ、篠原有司男?ジャスパー・ジョーンズ?ボイス?などと、美術史の意匠が想起させられる。あるいは、最後に黄色の文字で書いた「自由」は、あまりに手垢のついた言葉に思われる。「未来」というフレーズとは対照的に、遠藤の行為からは、さまざまな「過去」の記憶が呼びさまされる。きわめつけは、壁との格闘が一段落すると、観客に手拍子を求めたかと思ったら不意に歌い出した「ひょっこりひょうたん島」。遠藤は、過去の遺物(「レディ・メイド」と言い換えてもいいだろう)を取り出しながら、それらをあらためて活性化させようとする、それも〈ノーテク〉で。芸術を芸術らしく見せるアイロニーでもジョークでもなく、とはいえそれらをちゃんとかすめ通りながら、遠藤が現出させようとするのは、すべてをご破算にした後に残る本当に大事ななにかだろう。それがなになのかを明示することは遠藤の役目ではない。ただ遠藤の身体が発する熱気によって、その本当に大事ななにかを目にしたいという気持ちが刺激される、まるで魔法の起こる瞬間を期待するように。「自由」の一文字はそうした(蛇行を経た末の)真っ直ぐな思いへ向けられているに違いない。
2011/01/21(金)(木村覚)