2018年07月15日号
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artscapeレビュー

地点「スポーツ劇」

2016年04月15日号

会期:2016/03/05~2016/03/06

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇2本目。
「光のない。」(2012年初演)に続く、地点×三輪眞弘によるイェリネクの戯曲の上演第2弾。
「血管が破裂する、パパー!」「スタートです」「赤と緑のチョークで星印を描いてチーム分け」「いつだってプレイ」。そう、試合は既に開始されている。選手入場のパレードも華やかなファンファーレもない。プレイ=スポーツの試合/演劇/テクストとの遊戯的な戯れ、という多義性が告げられる。複数のスポーツの「舞台」を組み合わせた、奇妙な舞台空間が広がっている。部分的な要素は見知っているが、全体としては見たことのない空間。バレーボールやテニスのネット、サッカーの緑のピッチ、スキーのジャンプ台。7名の俳優たちは何度も急勾配の斜面を駆け上がり、転げ落ち、ネットに激突し、反復横跳びを繰り返し、激しく突き飛ばし合い、倒れ込む。

地点「スポーツ劇」
Photo: Takuya Matsumi

断片的な、抽象的な、比喩的な、官僚的な、卑近なほど日常的な、寓話の一部のような、扇動的な、自嘲的な、異議申し立てのような、嘆願するような、過剰なまでの言葉の奔流が、圧倒的な量とスピード感で肉体から放たれる。脈絡や整合性を欠き、ときに同時多発的で、言いよどみや反復を繰り返し、単線的には進まない声と時間。語り手と声の一致は解体し、無数の異質な声が溢れかえる。モノローグの並置、つまり多声と多層構造によってしか語れないこと。「スポーツ劇」の主旋律は、ナショナリズムや戦争の代替装置としてのスポーツ批判と、家族との愛憎関係である。最愛の息子を失った母親の嘆き。シュワルツェネッガーに憧れてボディビルダーの鍛錬に励む青年は、「強い肉体」の獲得によって母親に愛されることを望んでいる。ナチスに協力したため強制収容所行きを免れた、イェリネク自身の父親に対する告発。神経を病んだ父親を精神病院に追いやった母親との確執。それらは、父親を殺害した母殺しを実行するギリシャ悲劇の登場人物、エレクトラに重ね合わせられ、古代ギリシャに端を発するオリンピックにおけるスポーツ選手=兵士について語られる。「ママ」への憎しみは、取り替えがきかず、スター選手のものとは程遠い肉体を自分に与えた憎しみ、変更不可能な起源への憎しみでもある。肉体改変への強い願望と、同一化の絶望的な不可能さ。「強い健康な身体」への脅迫観念と男性中心主義。メディアを通して神格化されるスポーツ選手と、ヘラクレスなど神話上の英雄。栄光と名誉に包まれた死。「国家のために死んだ」栄誉ある兵士たちの死。メディアの中で反復される死。スペクタクルとして上演され続ける死。俳優たちは、激しいつばぜり合いを繰り広げるサッカー選手よろしく突き飛ばし合って倒れ、頭上を戦闘機の轟音がかすめる度に倒れ、発話を終えると力尽きてくずおれていく。

地点「スポーツ劇」
Photo: Takuya Matsumi

ここで浮かび上がるのは、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性である。有象無象の声、死者の声、引き受けきれない声たちの重み、「わたし(たち)」の不透明性が、俳優たちの滑らかな発話に負荷をかけ続け、どもり、言いよどみ、穴あき状態にちぎれた発話をもたらす。それは言語からの物質的な抵抗であるとともに、「自然な発話」とは程遠い、地点独特の発話─不自然なアクセントや分節化、音響的な発話や変速によって、「声」を一方的に所有・簒奪しないという倫理的な態度表明の遂行でもある。一方で、言葉遊びの挿入によってイェリネクのテクストと遊戯的に戯れ、変形させることによって、テクストの重みを解体しようとする抵抗が果敢に試みられる。ボディビルダーに励む青年は、マッチョポーズをキメて叫ぶ。「動きをうまくできターミネーター」「カーミ、神、カーミネーター」。死者への償いは、「もうはちきれんバカ、バカ、ばかりに」なっている。戦争責任、トラウマと精神分裂、家庭のTVの中に映る戦争、管理される身体、群衆心理の形成と「よそもの」の排除。

俳優たちは倒れ込んではゾンビのように何度でも起き上がるが、それでも供給できる身体の資源は限られている。次第に、緑の人工芝の平和なピッチが、死体の折り重なる戦場と多重化して見えてくるのだ。突き飛ばされて痛めた部位を大げさに指差し、相手のファールを取ろうとするサッカー選手の姿は、戦場で倒れた兵士と見分けがつかなくなる。しかし、ゲームの虚構性と現実の戦闘とを判別不可能にするものこそ、TVに流れる映像ではないか。メディアによって虚構化される現実。いったいなぜ、そして誰と、彼ら俳優たちは「戦って」いるのか。試合終了=終幕が一向に見えない中で、私たち観客はうすうす気づき始める。なぜ舞台前面にネットが張られているのか。なぜ緑のピッチが真ん中で途切れているのか。そしてなぜ、客席と舞台双方を見下ろす二階ボックス席に、「コロス」としての合唱隊がいるのか。なぜ合唱隊は、カラフルなチアスティック(スポーツの応援棒)=サイリウム(アイドルなどのオタ芸で振られる光る棒)=警棒を振って音を出しているのか。
彼ら合唱隊こそが、2時間に及ぶ、高密度の発話を発射し続ける俳優と無言のまま座席に身体を拘束された観客との「戦い」を高見から「応援」する「観客役」であったのだ。こうした「合唱隊」の身体性に対する意識は、舞台前面の床下に寝転び、裸足の足だけを舞台上に露出させて「転がる死体」を物理的に表象させた「光のない。」においても共通している。ただし「スポーツ劇」においては、合唱隊は硬直した足以外を床下に潜り込ませて視覚を遮断された状態ではなく、俳優VS観客の(しかし圧倒的に非対称な)対峙の光景を、高見から見守り、全貌を見渡せる特権的な位置にいる。しかし、私たち観客が客席に拘束された不自由な身体を引き受け続けざるをえないように、彼ら合唱隊もまた、音楽監督の三輪眞弘によって設定されたルールに従い、外部からプログラムされた身体の非自律性を引き受けねばならない。私たち観客には不明の「ルール」に従って、合唱隊は敬礼のように棒を掲げ、笛のように吹き、足踏みで盛り上げ、かすかに漏れる息の音で「君が代」の旋律をきれぎれに奏でるのだ。ここで、軍隊のように整然と規律化された合唱隊の身体が表象するのは、軍隊やマスゲームと、スポーツの応援やアイドルのオタ芸の身体との同質性である。

地点はこれまで、「CHITENの近現代語」においては、「わたしたち」の共同体の基底にある言語(日本語)を内部から解体することを企て、「ファッツァー」においては、「戦争」というモチーフを扱いながら、音と拮抗する身体の強度をつくり上げてきた。そして本作では、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性を俎上にのせるとともに、(メディアを経由して)スペクタクルを欲望する観客との「対戦」の構図を文字通り劇場空間に持ち込んだ。地点の舞台演出はしばしば、「観客」の身体的存在を(承認の署名を記す前に)勝手に「借景」に仕立て上げ、「あなたたちも共犯者なのですよ」という挑発を仕掛けてくる。「CHITENの近現代語」の幕切れで、観客に向かって俳優たちが浴びせる「拍手」と「ブラボー」、「コリオレイナス」で政治家に扇動される民衆との重ね合わせ。
では私たち観客には、抵抗する術はもはや残されていないのだろうか。幕切れの直前、俳優の安部聡子は嘆願するような声で呼びかける。「静寂を、ものともせず」(註:戯曲の翻訳(抄)では「静寂、物音もせず」と記されているが、私には「静寂を、ものともせず」と聞こえ、決意表明のように感じられた。聞き間違いかもしれないが、この受容体験自体が、「日本語」上演におけるイェリネク戯曲の多義性の発露だと考えてみても、面白いのではないだろうか)。静寂と沈黙、忘却と無関心に抗うこと。そのために、不可能に近い試みであっても、過剰なまでの発話の奔流を通して身体に負荷をかけ続けること。第一ラウンドは一方的な攻防の下に終了したが、観客が反撃を開始する第二ラウンドは、終幕後に初めて幕を上げるのではないか。

2016/03/05(土)(高嶋慈)

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