artscapeレビュー
8.6東電前・銀座 原発やめろデモ!!!!!
2011年09月01日号
会期:2011/08/06
銀座・新橋一帯[東京都]
高円寺、渋谷、新宿に続く「原発やめろデモ!!!!!」の第四弾。日比谷公園から銀座、有楽町を周って、内幸町、新橋まで歩いた。原発の危機が早くも忘れ去られているのか、あるいは東京湾花火大会と日取りが重なったせいか、前回までと比べて参加者は激減し、しかも警察による行き過ぎた介入によってデモの隊列が大きく引き離されたため、デモならではの群集的な一体感や昂揚感はほとんど感じられなかった。あるいは、原発の是非にかかわらず、あらゆる異議申し立て運動がマイノリティからの発信であることを思えば、本来のかたちが露になったと考えられなくもない。けれども、かりにそうだしとても、今回のデモは今後の脱原発運動が考えるべき論点をいくつか示していたように思う。そのひとつは、警察権力との距離感。今回の警備体制は明らかに過剰だったが、それに対する挑発や反動がさらなる介入を呼び込むという悪循環を招きかねない危うさがありありと感じられた。そのようにして自滅していった政治運動を経験的に知っている者からすれば、適度な距離感を保つことを勧めるのかもしれない。けれども、「原発やめろ」という主張が長期的な時間を要する根深い問題であることからいえば、そもそも街頭におけるデモ行進という表現形式そのものを再考する必要があるようにも思う。険悪な顔つきの警察官に睨まれながら街を歩く経験は、単純にいって、ちっともおもしろくないし(すなわち、まったく美しくないし)、そうであれば、別のかたちを採用したほうが健全であり、なおかつ効果的だからだ。その新たな集団的表現形式の具体的なかたちはわからない。しかし、その中心的な原理が想像力にあることは、おそらくまちがいないと思う。かつて小野次郎はウィリアム・モリスを評してこういった。「欲望の解放はそのまま人間の解放にはならない。むしろ管理の体系にたちまち転化してしまうという事実は、今日のわれわれの出発点である。モリスは欲望の体系に置き換えるに想像力の体系をもってしたと一先ずいっておきたい」(小野次郎『ウィリアム・モリス──ラディカル・デザインの思想』中公文庫、p44)。モリスの思想がアーツ・アンド・クラフト運動や社会主義運動の只中で練り上げられたように、3.11以後の世界を生き抜く思想も、この想像力をもとにした運動から育まれるのではないか。
2011/08/06(土)(福住廉)