artscapeレビュー
井上孝治「『音のない記憶』写真展」
2013年09月15日号
会期:2013/08/20~2013/09/01
アートガレー[東京都]
井上孝治(1919~93)は1955年から福岡市でカメラ店を経営しながら撮影を続けた写真家。3歳のときに事故で聴覚を失うが、その聾唖のハンディゆえに逆に視覚世界に対して鋭敏な感覚を発揮するようになったのかもしれない。そのスナップショットの切れ味にはただならぬものがあり、被写体に対する素早く柔らかな眼差しの向け方は、多くの人たちを引きつけてやまない魅力を備えている。
1989年、福岡のデパート岩田屋の広告キャンペーンに写真が使われたのをきっかけにして、彼の写真の仕事が注目されるようになり、写真集『想い出の街』(河出書房新社、1989)が刊行されて大きな反響を呼んだ。また、井上の写真と人柄に魅せられたフリーライターの黒岩比佐子は、長期間にわたって取材を重ね、1999年に評伝『音のない記憶』(文藝春秋)を上梓する。これが、その後多くの力作評論を刊行し、2010年に惜しまれつつ亡くなった黒岩のデビュー作となった。今回の東京・神楽坂のアートガレーでの展覧会は、井上の代表作70点を黒岩の『音のない記憶』の記述と重ね合わせる構成になっていた。
あらためて井上の作品を見直すと、彼が写真を撮影することに注ぎ込んだ情熱とエネルギーの大きさに圧倒される思いを味わう。アマチュア写真家という範疇にはおさまりきれない写真家としての意欲が、ぴんと張りつめた画面にみなぎっているのだ。今回は福岡の自宅の周辺で撮影された路上スナップだけでなく、1959年の沖縄滞在時の写真や、1975年のヨーロッパ旅行のときの写真も併せて展示されていた。これらも含めて、テーマ別に井上の写真の世界を再構築してみるのも面白いかもしれない。
2013/08/25(日)(飯沢耕太郎)