artscapeレビュー
2014年10月01日号のレビュー/プレビュー
女子美染織コレクション展4「生命の樹──再生するいのち」
会期:2014/09/06~2014/10/19
女子美アートミュージアム[神奈川県]
生命力の源泉、豊饒や生産のシンボルとして古代オリエントで発生し、世界各地で染織の文様に用いられてきた「生命の樹 tree of life」をテーマとしたコレクション展。花を咲かせて人々の目を楽しませ、実をならせて生き物の飢えと渇きを癒す。岩の上に落ちた植物の種は芽を出し根を這わせ、やがて岩をも砕いて成長する。コンクリートやアスファルトの隙間に生えた草花に生命力の強さを感じるのは現代でも変わらぬ私たちの植物に対するイメージであろう。ただし地域によって生命力の象徴となる植物は異なる。旧約聖書では「生命の樹」はエデンの園で知恵の樹と並んで立つ聖樹として描かれ、仏教では釈迦は無憂樹の下に生まれ、菩提樹の下で悟りを開き、沙羅双樹の下で入滅する。ヒンズーの神クリシュナはカダンバの樹の下に立ち、古代エジプトでは無花果が死者に永遠の命をもたらす生命の樹とされた。日本でも巨木はそれ自体がしばしば信仰の対象となり、また松竹梅のように吉祥の象徴にもなってきた。出品されている「生命の樹」の染織品の産地はインドやペルシャ、ヨーロッパとトルコ、そして日本。時代としては、紀元4世紀から5世紀のコプト織り、18世紀から20世紀につくられた更紗や織物、刺繍である。興味深い作品としては、18世紀インドの「クリシュナ物語図模様更紗 壁掛」がある。クリシュナ神のさまざまな物語とともに、樹木や草花、動物や鳥、魚や虫たちが 235×253センチの大きな一枚の布に鮮やかな色彩で描き込まれているもの。ロビーではこの更紗に描かれた物語を元に女子美OGが制作したアニメーションが上映されている。インド・カシミール地方のショールに織り込まれた花模様を源泉として各地で展開された、いわゆるペイズリー柄の変遷も興味深い。
女子美術大学の染織コレクションは、旧カネボウが大正末から昭和にかけて蒐集してきたもの。コレクションはフランスの地質学者フーケ博士(Ferdinand André Fouqué, 1828-1904)の遺品であったコプト織を大正12年に購入したことから始まり、第二次世界大戦前には南米プレインカ帝国の古代染織品、ヨーロッパ・中近東の織物、日本の染織裂が、戦後は能衣装を中心に日本の伝統衣装が蒐集され、1980年からは大阪市の鐘紡繊維美術館で保存、公開されてきた。カネボウの解散を受けて約12,000点の染織品が2009年に女子美術大学に収蔵されて調査研究が行なわれ、定期的にコレクション展が開催されている。[新川徳彦]
2014/09/22(月)(SYNK)
山崎広太『Running』(「Tokyo Experimental Performance Archive」での上演)
会期:2014/09/23
SuperDeluxe[東京都]
アメリカン・ヒットチャートのポップソングたちが立て続けに10曲以上かかっただろうか、40分超のパフォーマンスはほとんど同じbpmの音楽が観客と山崎広太の耳を覆うなかで進められた。構成は大きく三つに分かれていた。冒頭、山崎は浴衣に白いつば広の帽子を被り、うつむき加減で踊った。舞踏にも映る。手の指が小刻みに揺れる。でも、せわしなく動く足が体を平行移動させるのは、舞踏というより黒人系のダンスのようだ。強烈に内側に籠るのではない。その分、軽い。軽いが足と腕が別系統で動いているように見えるときなど、スリリングな瞬間が頻発する。浴衣と帽子を取ると、スポーティな短パン姿で、山崎はファッションショーのウォーキングのように、舞台奥か前に歩いて来ては退く。何十回と繰り返しても、そのたびニュアンスが違う。頻出する動きもあった。それは身体に障害をもっているかのような引きつった動作。ウォーキングが崩れてくると、突拍子のない動きが連なる。連結は滑らかなのだが、それでも、意外なイメージが飛び込んできて驚かせる。山崎らしいスリリングでユーモアも漂うダンスがあらわれた。そう思ってみていたのだが、終幕に近づくにつれて、とくに曲がアップテンポになると、それに合わせて激しくなる分、山崎の動きがエクササイズに見える場面が出てきた。エクササイズが舞台に持ち込まれてもよいけれども、印象として残念なのは、音楽に山崎の動きが支配されているように見えたことだ。ポップソングの力を舞台に置いてみたかったということなのだろうか。そうなのかもしれない。けれども、ポップソングと対峙するならば、音楽に身体を合わせるのとは異なる、もうひとつ別のアイデアが置かれても良かったのではないか。そうすると、あえてアメリカのポップソングを用いる批評的な意味があらわれたのではと思う。
2014/09/23(火)(木村覚)
室伏鴻×ASA-CHANG&巡礼『アウフヘーベン Vol. 1』
会期:2014/09/23
CAY[東京都]
室伏鴻はけっして一人では立たない。室伏はつねに誰か「と」立つ。そのためには「誰か」はたしかに必要なのだが、問題は立つそこに「と」があること。室伏鴻と「○○」ないし「○○」と室伏鴻。この「と」が機能すること。それは室伏と誰かが歩調を合わせることを意味しない。息を合わせ、互いの思いを同じにしようとすることは、望ましいというよりむしろせっかくの「と」がもつ危うさや緊張を回避してしまう間違った狙いというべきだ。だからといって、それぞれがただ勝手に自分自身を主張している状態では、やはり「と」で立つ意味はない。さて、その微妙なパランスを模索しながら両者がどう立ったかという点がこの公演の見所となるのだが、その結果もまた述べるのが難しい。ASA-CHANG&巡礼の音楽は、多様な楽器が用いられているばかりではなく、音声サンプリングが多用され、にぎやかで、それ自体が多様な要素の共存する「と」の演奏だった。音楽演奏が始まった後から室伏が登場すると、まるで諸要素が絡まってできたひとつの束の上に、さらにもうひとつの要素を貼付けるみたいで、両者が拮抗するように見えてこない。一番気になったのは、3人の演奏者たちは、つい立ての裏でその姿が一切見えないことだ。気配はちゃんとするので、演奏へのリアクションを室伏は時折するのだが、反対に演奏者からの応答はない。少なくとも見えない。姿を見せぬ者たちと姿をさらした者とはかくも拮抗しづらいのか。いっそ、室伏も姿を隠して、どちらも姿を見せぬままで、声で3人の演奏者と向かい合ったなら、拮抗したのかもしれない。
2014/09/23(火)(木村覚)
木村恒介 展──光素(エーテル)の呼吸(「クリエイションの未来展」第1回:清水敏男監修)
会期:2014/09/04~2014/11/24
LIXILギャラリー[東京都]
ひとつ目の展示室には、天井まで届く縦長の鏡が6枚並ぶ。鏡に正対して置かれたベンチに腰をかけ、鏡に映る自分を見る。やがて映る姿が陽炎を通して見ているように歪み、変化していることに気が付く。鏡が息をするようにゆっくりとふくらんだりへこんだりしているのだ。6枚の鏡の呼吸の速度は少しずつ異なっていて、それがまた見る者の心にさざ波を立てる。「開港都市にいがた 水と土の芸術祭」(2012)で、木村は美容院に同様の呼吸する鏡を設置した。美容院という人々になじみのある空間。鏡は美容院の椅子の前に収まっている。しかしその鏡が呼吸することで、鏡に映る背景とともに建物のなかの空気がゆっくりと掻き回され、透明なはずのその存在が私たちの意識に上る。これに対して今回の展示はギャラリー。呼吸する鏡をただ一列に並べてもそこに映るのは白い壁だけで、そのままでは掻き乱されるものは何もない。だから、3枚ずつ並べた鏡が二つ、縁を接して互いに映り込むように立てられている。鏡に面したベンチに座ることで、正面に映る私も、側面に映る私も、その場の空気とともに掻き乱されるのだ。もうひとつの展示室には朝、昼、夜と時間を変えて撮影した3枚の写真が展示されている。銀座和光の前で、交差点に向けて三脚に載せたカメラをゆっくりとパンさせて撮影したものだという。5秒間の露出で写し出されたのはさまざまな色彩の光の軌跡。ある場の一瞬を切り取る「写真」に対して、この作品は時間と空間、すなわちその場の空気を記録したものだ。木村の言葉によれば、風景のなかにある雰囲気や空気感、見えない何か。本展の監修者・清水敏男氏によれば、空間を満たす光素(エーテル)。木村の「鏡」と「写真」は、いずれも見えない何かが確実に存在していることを感じさせる仕掛けなのであろう。
「クリエイションの未来展」は4人の監修者が順番に3カ月の期間でキュレーションする展覧会シリーズ。第1回目を担当する清水敏男氏は銀座・名古屋商工会館跡で開催される「THE MIRROR展」(2014/10/16~11/9)の総合プロデューサーでもあり、連動する企画として鏡を用いた作品を制作している木村恒介をフィーチャーしたとのことである。[新川徳彦]
2014/09/23(火)(SYNK)
So French Michel Bouvet Posters
会期:2014/09/03~2014/09/27
ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]
フランスのポスターアーティスト、ミシェル・ブーヴェ(Michel Bouvet, 1955-)の作品展。ブーヴェがおもに手がけているのは、演劇や音楽、美術、フェスティバルなど、公的機関の文化イベント。ジュール・シェレ(Jules Chéret, 1836-1932)、カッサンドル(A. M. Cassandre, 1901-1968)、サヴィニャック(Raymond Savignac, 1907-2002)ら偉大なポスター作家の系譜に連なり、イメージの大胆な構成を特徴とする。近年の作品は、たとえばアルル国際写真フェスティバルのカラー・ポスターの場合は、写真展にもかかわらずモチーフは太い筆で描かれた戯画的な動物。これにシルクスクリーンでヴィヴィッドな色彩を乗せている。モノクロームの演劇ポスターには写真によるイメージが用いられている。とはいえ、写っているのは役者や装置ではない。ドライバーの先端であったり、太い骨を組み合わせた十字架であったり、鉈であったり、内容を暗喩するオブジェとテキストが大胆に用いられている。象徴的なオブジェ。手書きのユーモラスな動物たち。人々の目を捉えるインパクトを持ち、一瞬でイメージを伝達し、関心を抱いた人にはさらに詳細な情報を送り出す。機能的かつ美的であり、街の風景をもつくりだすメディアとしての優れた仕事である。[新川徳彦]
2014/09/25(木)(SYNK)