artscapeレビュー
2016年08月15日号のレビュー/プレビュー
「禅─心をかたちに─」東京展に関する記者発表会
会期:2016/07/08
東京国立博物館[東京都]
春に京博で開催され、秋には東博に巡回する「禅」展の記者発表。なぜいま「禅」かというと、臨済義玄禅師の1150年遠諱と、白隠慧鶴禅師の250年遠諱を記念するものだそうだが、意味も読み方も知らずに資料を写しました。りんざいぎげん(?-866)は臨済宗の宗祖で、はくいんえかく(1686-1769)は禅画で知られるが、臨済宗中興の祖とされる。その没後、100回忌を過ぎてから50年ごとにおこなわれる行事を遠忌(おんき)というらしい。へー初めて知った。白隠は没後まだ247年で3年足りないが、細かいことには黙想するのが禅なのかもしれない。代表的な出品作品は、雪舟の《慧可断臂図》、白隠の《達磨像》、狩野永徳の《織田信長像》、大岳周崇の《瓢鮎図》、若冲の《群鶏図》など。つい絵ばかり挙げたけど、仏像やら仏具やら書やら陶芸やらもある。どうも書いてて熱が入らないな。
2016/07/08(金)(村田真)
聖なるもの、俗なるもの メッケネムとドイツ初期銅版画
会期:2016/07/09~2016/09/19
国立西洋美術館[東京都]
ケレン味たっぷりの「カラヴァッジョ展」の次は、ドイツ・ルネサンス期の知られざる銅版画家メッケネムの展覧会。ギャップが激しいなあ。しかも多くはキリスト教主題で、小さめのモノクロ版画が大半を占めている。こんなんで夏休みのチビッコたちを呼べるのか。いや、夏休みくらいガラ空きのスペースで知的な大人たちにゆっくり鑑賞してもらおうという美術館側の配慮かもしれない。そんな大人のための見どころは、オリジナルとコピー。メッケネムはデューラーやショーンガウアーら人気画家の版画をコピーしまくってるのだ。いまなら盗作、著作権侵害で訴えられかねないが、当時は写真も画集もなかった時代、安く版画が手に入るのだからコピーは喜ばれたに違いない。メッケネムは刷り上がった版画を見ながらコピーしたため、画像の左右が反転しているが、たまに左右反転してないコピーもあって、なぜだろうと思ったら、右手に剣を持つ人が描かれているからだ。
2016/07/08(金)(村田真)
KAC Performing Arts Program / LOVERS
会期:2016/07/09~2016/07/24
京都芸術センター[京都府]
裸体の男女のパフォーマーたちが、白く広がる床のエッジの上を歩み、駆け抜け、抱きしめる仕草をし、すれ違いと抱擁を繰り返しながら、背後の闇へ消えていく。電子的だがリリカルな音響と、ささやき声。故・古橋悌二のソロ・ワーク《LOVERS─永遠の恋人たち》(1994)は、極めて美しく静謐な映像インスタレーション作品である。本作には国内外に複数のヴァージョンが存在するが、2001年のせんだいメディアテーク開館記念展の際に再制作されたヴァージョンは、機材の劣化により、展示不可能な状態にあった。
これを受けて、古橋の卒業校である京都市立芸術大学の芸術資源研究センターでは、2015年度に、高谷史郎を中心とするダムタイプのメンバーの協力のもと、《LOVERS》の修復を行なった。今回の展示では、修復された《LOVERS》とともに、修復の関連資料も合わせて展示。筆者はこの修復関連資料の展示に関わっているが、その過程で見えてきた2つの点から本展を記述したい。
1点めは、映像、音声、コンピューターなどを用いて時間的な鑑賞経験をもたらすタイムベースト・メディア作品の修復における「オリジナリティ」の問題である。複数のヴァージョンが(再)制作され、過去の展示歴において、展示空間のサイズの揺れ(理想的には10m四方/実際には8m~14m四方が許容範囲)や天井から投影されるテクストの有無が見られたように、《LOVERS》という作品の物理的現われは常に揺らぎの中にあった。また、機器の技術的進歩が作品の美的質に関わってくる場合もある。制作当時は技術的限界だったプロジェクターの解像度や輝度の低さは、現在、技術的には改善可能だが、当時の「不鮮明な暗さ」「映像身体の亡霊的な質」を作品の美的質としてどこまで保持すべきかという問題がある。
さらに、今回の修復作業では、故障した機器の交換やアナログ映像のデジタル化に加え、本作をコンピューター上の仮想空間で再現する「シミュレーター」が制作された。《LOVERS》における各パフォーマーの映像の動きはコンピューターで制御されているため、映像を解析・数値化した情報を確認し、作品を動かしているプログラムを検証する作業が必要だからだ。このシミュレーターには、「Actual」と「Ideal」の2種類が存在する。「Actual」は、現行の《LOVERS》におけるパフォーマーの実際の動きを再現するもの。
一方、「Ideal」は、古橋が編集したヴィデオに基づき、彼が制作時に思い描いていたであろう理想的な動作をシミュレートするもの。それぞれの動きをグラフ化したタイムラインでは、「Actual」と「Ideal」の2本の線はわずかなズレを見せているが、その意味するところは大きい。「実現されなかった理想状態」を仮想空間で再現可能にし、視覚化して記録できることで、将来的な修復や再制作において、どちらに参照・準拠すべきか? という「オリジナル」概念の所在や有効性についての問いを提起するからである。
2点めは、「生身の身体による一回性の出来事としてのパフォーマンスをどう記録/再現するか」という問題である。今回の企画では、ダムタイプの過去作品の上映会(とりわけ《LOVERS》とほぼ同時期に制作されたパフォーマンス公演『S/N』(1994年初演))、《LOVERS》の展示、「シミュレーター」の展示、という3つが平行的に存在したことが大きい。それは、身体性が縮減されていく過程として記述できる。
『S/N』と《LOVERS》は、古橋のHIV+感染を基軸に、エイズ、セクシュアリティ、情報化と身体といった政治性に加えて、パフォーマーたちの身体がボーダー=境界線上を行き交い、背後の闇へと身を投じる構造においても共通点を持っている。「私は夢みる 私の性別/国籍/血/権威/恐怖が消えることを」というテクストが流れ、「外国人」と表示されたパスポートコントロールのモニターに映された女性が、「友達をつくるため、愛し合うためにはこんなものは要らない」とパスポートを破り捨てる『S/N』においては、終盤、壁の上で服を脱ぎ捨てたパフォーマーたちが壁の向こうへ身を投じる行為は、強制的な排除の執行であり、あるいはあらゆるボーダー=境界の向こう側への、身を賭した命懸けの跳躍である。弾丸のように高速で投影されるテクスト、つんざく爆音、歓喜と悲鳴の祝祭の中で進行する『S/N』に対して、《LOVERS》は極めて静謐で親密に、観客の身体と思考に対峙する。それは、パフォーマンス作品の時間的・空間的有限性や祝祭性を、記録映像とは別のかたちで抽出・変換して「再生」させているとも言える。
ほぼ等身大でプロジェクションされる身体、空間全体を包む全方位へのプロジェクション、背景のブラックアウトによる展示室の物理的な壁の消滅、そしてセンサーの作動により、古橋の映像が観客の動きに反応して振り向くインタラクティブ性。
これらの特質によって、《LOVERS》は身体的に経験されるのであり、単に映像インスタレーションというより、舞台上のパフォーマンスの「再現」に近づく。私たちは、振り向いた古橋と視線を交わし、彼が目の前で自分自身/他のパフォーマー/空虚を抱きかかえながら、背後の闇に倒れていく様を目撃するかのように感じる。しかしその感覚が幻影にすぎないことは、展示室中央のタワーに搭載された剥き出しのプロジェクターが視界に入る度に、その眩しい光に目を射抜かれる度に、そして機器の作動音が聴こえる度に、露呈される。人工的な装置によって、観客と映像身体は擬似的な交感を親密に交わし合うと同時に、絶対的に隔てられてもいる(そして「シミュレーター」の仮想空間においては、観客の身体はもはや存在せず、ただ神の視点があるのみである)。
ここで、シミュレーターとの比較によって逆照射されるのは、《LOVERS》における観客自身の身体性である。すべてを俯瞰する神の全能の視点とは異なり、現実の物理的空間で展開する《LOVERS》では、観客は四面で同時に生起する出来事すべてを一望できない。白い正方形の床のエッジを歩き、駆け抜け、逆走し、交差し合うパフォーマーの動き、その360度で展開されるさまざまな運動の交錯に誘導されるように、私たちの眼だけでなく身体が動き出し、空間内を歩き回るようになる。そのとき、四角い正方形の床は「舞台」に変容し、そのアクティングエリアの上を歩くのは、身体的存在として覚醒された私たち観客なのだ。スクリーンやモニターを見つめて没入する受動的な鑑賞者から、身体的に覚醒された体験者へ。同時にここでは、「見ること」をめぐる反転が起こっている。観客は、「舞台」を取り囲むエッジを歩くパフォーマーから(擬似的に)見つめ返され、その眼差しを全身で受け止めるのだ。
しかし、能動的な身体として要請された観客は、天井に設置されたセンサーの感知域内にいることで、監視され、動きを「制限」されることになる。センシングの範囲に抵触すると、「DO NOT CROSS THE LINE OR JUMP OVER」の円形を描くテクストに足元を包囲されるのだ。パフォーマーたちの身体をスキャンするように追いかける、「fear」と「limit」の2本の線。「censor/sensor(検閲/センサー)」のズレと重なり合い。《LOVERS》の構造は、四方の壁に映像を投射する中央のプロジェクター・タワーがパノプティコンの監視装置を想起させるように、監視の権力を濃厚に匂わせながら、その反転の企てへと向けられている。私たちに要請されているのは、受動的な傍観者ではなく、また神の全能的な視点に身を置くのでもなく、この隔たりを跳び越え(JUMP OVER)、来るべき誰かを待ちながら両手を広げる他者たちと抱擁し合う想像力の強度である。それはまた、物理的な/想像的な差異の境界線によって分割され、ますます細分化されていく社会に対する批評となる。
2016/07/09(土)(高嶋慈)
竹岡雄二 台座から空間へ
会期:2016/07/09~2016/09/04
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
大阪の国立国際美術館からの巡回。ぼくが竹岡さんに興味をもったのは、1992年のドクメンタⅨに出品された野外彫刻を見てから。2001年には国立国際で開かれた「主題としての美術館」展に出していたが、そのとき今回の個展が発案されたというから、実に15年越しの実現になる。彼のテーマは一貫して「台座」。かつて彫刻は抽象形態の台座の上に鎮座していたが、20世紀に入ってブランクーシあたりから台座がなくなっていく。ちょうど絵画が抽象化するにつれ額縁が徐々になくなっていったように、彫刻自体が抽象的になったため必要とされなくなったのだ。裏返せば、彫刻と台座が一体化した、あるいは台座が彫刻化したからともいえるのではないか。竹岡はその台座=彫刻を見せる。会場には平らな円柱や角柱、立方体の台座だけでなく、4畳半ほどもありそうなガラスケースや、マガジンラックのような棚、雑誌の詰まった陳列台、額縁のような壁掛けの展示ケースも並ぶ。また、壁の表層をはがしてコンクリートをむき出しにし、上から透明なケースを被せたインスタレーションもある。いずれもそれがもともと「本体」ではなく、なにかを載せたり入れたりする台または容器であり、それを竹岡は「本体」としているのだ。会場を一巡してなにか物足りなさを感じるとしたら、それは形態も色彩もミニマルだからというだけでなく、「本体」の不在感ゆえかもしれない。
2016/07/09(土)(村田真)
建築家・槻橋修+建築家・福屋庄子 講演会 建築と都市の未来へ向けて──「失われた街」模型復元プロジェクトに寄せて」
会期:2016/07/09
せんだいメディアテークで開催された東北工業大学50周年記念事業において、槻橋修の「失われた街」講演の後、堀井義博とともに対談に参加した。震災後、津波で破壊される前の街の白模型をつくるというアイデアを初めてメールで受けとったとき、まだ本当の意義はよくわかっていなかったが、これはおそらくいけると思ったことをよく覚えている。実際、その後、住民とのワークショップを通じて、全国の学生たちが制作した白模型は鮮やかな色彩を獲得し、さまざまな声が付加され、街の記憶を引き出すツールに発展した。
写真:ワークショップを経て、記憶に彩られた白模型
2016/07/09(土)(五十嵐太郎)