2017年05月15日号
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artscapeレビュー

山本聖子「色を漕ぐ:Swimming in Colors」

2016年10月15日号

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会期:2016/09/10~2016/09/25

Gallery PARC[京都府]

メキシコとオランダでのレジデンス経験を機に、近年、「色」を手がかりとした思考と制作を展開している山本聖子。本個展では、新作3点が発表された。
《からっぽの色》は、「“からっぽ”という言葉を聞いて何色を思い浮かべるか?」という質問を、日本・オランダ・メキシコなどさまざまな国の街頭で投げかけたインタビュー映像。「白」や「透明」という答えが多い日本人。国籍は異なっても、「空は何もない空間だから青」という答えも共通する。子供の頃に読んで怖かった本の記憶から「黒」と答える人、「血の色だから赤」と言うメキシコ人、平らな草原を見渡して「ここには何もないから緑だ」と言うオランダ人。「からっぽの色」という抽象的な概念だからこそ、各自が想像する答えの多様性は、文化、歴史、宗教、個人的な記憶、環境などが背後にあるのだろう。「継続中」という本作はまだ素材集めの習作段階と言えるが、より掘り下げた探究が作品として結実するのを待ちたい。
一方、《私の身体の一部は、私の生まれた国に行ったことがない。》は、作家自身を含め、空港や語学学校などで集めた「メキシコにいた外国人」の髪の毛を、「メキシコ滞在期間に伸びた部分(根元の方)/メキシコに来る以前から生えていた部分(先端の方)」に2分割して並べたもの。《からっぽの色》とは対照的に、国籍、人種や民族、性別、価値観といった多様性が、標本のように情報へと還元化されているが、「国籍」という規定の自明さが、「私の一部」であるはずの身体細胞によって、かくもあっけなく裏切られることを示している。この先にあるのは、「もし、全ての体細胞が『メキシコ生まれ』に入れ替わったら、その身体は『メキシコ人』と言えるのか」という、ナショナリティの自明性への問いである。


山本聖子《きみの内に潜む色》 2016、サイズ可変
ガラス水槽・映像・水・泥・プロジェクター・葉、木、他
写真:麥生田兵吾

また、出色だったのが《きみの内に潜む色》。茶褐色に濁った水槽の一面に、さまざまな人々のポートレイトが1人ずつ投影されるが、その映像は波に揺られる船のように上下に不安定に揺れている。彼らは船に乗っていたり、背景に水辺が映っていることで、旅や移動、海を越えて移動する移民の不安定な生やアイデンティティを連想させる。一方、濁った水槽には、枯葉や木の枝、泥が堆積し、さらに内部を見通せない物質的厚みが「沈殿した記憶の器」を想起させる。土や泥、落ち葉の断片、さまざまな色が混じりあった濁りと、船を「漕ぐ」ような不安定な揺動。私たちはそれぞれ、「記憶の器」を抱えながら、不安定だがフレキシブルな揺らぎを生きているのだ。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

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