2024年03月01日号
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artscapeレビュー

2016年10月15日号のレビュー/プレビュー

セレステ・ウレアガ/カクガワエイジ「doble mirada 2つの視点、そこから見える未来へ」

会期:2016/09/01~2016/09/04

ニューロ吉祥寺[東京都]

セレステ・ウレアガはアルゼンチン・ネウケン出身の写真家、ビジュアルアーティスト。ブエノスアイレスでスタジオ390を運営し、ロックミュージシャンのポートレートやオーディオビジュアル作品を中心に制作・発表している。彼女は2015年に来日し、東京・麹町のセルバンテス文化センターで写真展「アルゼンチンロックのポートレート」を開催した。そのとき、石黒健治の写真ワークショップ「真眼塾」を主催しているカクガワエイジと知り合い、意気投合したことが、1年後の二人展に結びついた。
吉祥寺・井之頭公園近くの会場には40点の写真が2列に並んでいた。上下2枚の写真のうちどちらかがウレアガかカクガワの写真だが、作者名は明記されていない。「愛、生、死」など漠然としたテーマ設定はあるが、写真の選択はかなり恣意的に見える。モノクロームあり、カラーあり。ウレアガのアルゼンチンの写真と、昨年の来日時に日本で撮影した写真が混じり合っており、カクガワも日本だけではなく、パリ、ロンドン、フィンランドなどでも撮影している。まさにカオス状態が出現しているのだが、それでも自ずとアルゼンチン人と日本人の写真を介したコミュニケーションのあり方の違いが浮かび上がってくるのが興味深かった。会場の最初のパートに展示された2枚の写真が象徴的だろう。「閉じたドア」(カクガワ)と「開いた目」(ウレアガ)である。それらはコミュニケーションの回路が内向きに閉じがちな日本と、底抜けに開放的なアルゼンチンの状況を明瞭に指し示している。
このような異文化交流は、継続していくことでさらなる実りを生むのではないだろうか。まったく正反対にかけ離れているからこそ、刺激的な出会いもありそうだ。次はぜひ「地球の裏側の国」アルゼンチンでも二人展を実現してほしい。

2016/09/01(木)(飯沢耕太郎)

『日輪の翼』大阪公演

会期:2016/09/02~2016/09/04

名村造船所大阪工場跡地(クリエイティブセンター大阪)[大阪府]

台湾製の移動舞台車(ステージトレーラー)を舞台装置に用い、かつての造船所の広大な敷地で上演された野外劇。演出・美術を手がけたやなぎみわは、中上健次の小説『日輪の翼』をメインに複数の小説からの引用を織り交ぜ、妖しくも美しい世界へと観客を引き込んだ。『日輪の翼』では、「オバ」と呼ばれる老婆5人(原作では7人)が、〈路地〉(中上作品で、故郷熊野の被差別部落を指す言葉)の立ち退きを迫られ、同じく〈路地〉出身の若者たちが運転する冷凍トレーラーに乗って、日本各地の聖地を巡る旅に出る。伊勢、一宮、諏訪、瀬田、恐山、そして皇居のある東京へ。行く先々で御詠歌を唱える老婆たちの巡礼と、女を漁り、性の享楽にふける若者たち。夜の高速道路を走るトレーラーは鋼鉄の男性器であり、路上に停止すれば子宮となって包み込む。両義性をもつトレーラーとともに、老いと若さ、男と女、聖と俗が交差する道中の物語に、中上の別の2作品から引用したシーンが交錯して舞台は進行する。『紀伊物語』の中の「聖餐」で描かれる凄絶な兄妹相姦と、『千年の愉楽』に登場する、〈路地〉出身でブエノスアイレスのダンスホールで歌手になった「オリエントの康」のエピソードである。
また、移動舞台車とは、トレーラーの荷台を舞台として使用するステージカーで、発祥元の台湾では歌謡ショーやカラオケ、寺の祭りや選挙運動のために使われている。この台湾製トレーラーを現地で見たやなぎは、自らデザインして台湾の工場へ発注し、日本へ輸入し、これまでヨコハマトリエンナーレ2014やPARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭(2015)で展示してきた。本公演では、初めは四角い箱であったトレーラーが、舞台の進行とともに大輪の花が開くように開帳し、内部に描かれた夏芙蓉の巨大な花が、明滅する電飾に照らされて妖しく輝き出す。
そこで繰り広げられるやなぎの『日輪の翼』は、全編にわたってさまざまな音曲で綴られる音楽劇である(音楽監督を務めたのは巻上公一)。江戸浄瑠璃新内節の語り手でもある重森三果が、三味線を弾きながら唄う〈路地〉の昔語りや道中は、深い余韻を残す。穏やかなギターの弾き語り。老婆たちの唱和する御詠歌。白スーツの「オリエントの康」の華やかなショー。「死のう団」を率いる青年が放つ、デスメタル調のシャウト。ディストーションのかかったエレキギターの引き裂くような調べ。さらにダンサーが加わり、ポールダンスや、ロープにぶら下がってサーカスの曲芸のような空中パフォーマンスを見せる。終盤のクライマックスでは、朝鮮半島の打楽器(チャング)のリズムに乗せて舞い踊る一団も登場する。また、開演前と休憩中に客をノせたり舞台に上げて「客いじり」をする出演者たちは、大衆演劇とそれを担う「旅役者」を示唆する。


『日輪の翼』大阪公演
撮影:仲川あい

ここで、舞台装置に移動舞台車が用いられた必然性が明らかとなる。それは、原作で老婆たちを運ぶ冷凍トレーラーに準拠するだけではない。ここには、〈路地〉を追われて流浪する老婆たちの祖先である「流浪の芸能民」の系譜が、国境も時代も超えてさまざまに流れ込んでいるのだ。仮設性、移動性、ノマド性をもつ移動舞台車に集う歌い手たち、サーカスや旅芸人の一団。彼らが歌い上げるのは、生(性)を寿ぐ祝祭の音楽と、死者を鎮める歌の力である。移動舞台車の行くところ、どこでも聖と俗、生と死の境界が混濁した祝祭的な場が花開く。
妖しい大輪の花のように開いたトレーラーは、最後には清濁すべてを飲み込みながら閉じていく。その時、外装に描かれた「蛇」と「鳥の翼」が、入れ替わるように姿を現わす。劇中で「蛇」は、忌み嫌われ地べたをはいずる〈路地〉の者に例えられる。一方、空を飛ぶ翼をもつ「鳥」は、自由や解放の象徴であるとともに、死者の魂を運ぶ存在として言及される。かつて女工として売られた身の上を語る老婆たちに対して、若者の1人は「織姫」「天女」であると言い、「マリア様」として天上の至高の存在に等しいと言う。これは、「卑しいもんが尊い/尊いもんが卑しい」という劇中で繰り返し語られる台詞とも対応し、賤/貴、聖/俗、生/死の両極が、陰陽のように反転してつながり合った円環構造を出現させる。
こうした「円や回転運動、循環」のイメージは、本作でたびたび登場する。老婆たちは輪になって踊り、ダンサーはポールやロープを軸にして回転し、トレーラーは最後にぐるりと円を描いて走り去る。老婆たちが冒頭で披露した鳥の鳴きマネは、終盤、音だけとなって頭上から降りそそぎ、死(あるいは転生)を暗示するが、老婆たちが消え失せてもトレーラーの旅は続き、暮れた空の下をエンジン音とともに遠ざかっていく。その光景は舞台でありながら、現実の工場跡地のがらんとした敷地とその先に伸びる道とつながり、虚実が渾然一体となった、野外劇ならではの終幕だった。
また、本作には、やなぎがこれまで発表した美術作品との共通項も見出すことができる。《My Grandmothers》の中の空想の老婆たち。本作に登場する「4つの乳房」を持つ「ララ」は、《Windswept Women》で巨大な乳房を見せて大地に立つ老婆像を思い起こさせ、歌い踊りながら流浪する老婆の一団は、テントをかぶった女性たちが放浪する映像作品《The Old Girl's Troupe》を想起させる。
そうした過去作からの糸を引きながら、中上の原作を元に、複数の文化圏における流浪の芸能民の系譜を織り交ぜ、移動舞台車という必然的な舞台装置において、祝祭と鎮魂、悲哀と歓喜、性の愉悦と宗教的なエクスタシーが、電飾に彩られた大輪の花とともに夜空に噴き出すような公演だった。

2016/09/02(金)(高嶋慈)

MONSTER Exhibition 2016

会期:2016/09/03~2016/09/07

渋谷ヒカリエ 8/COURT[東京都]

渋谷ヒカリエにて、公募の審査を担当した「MONSTER」展のオープニングに顔を出す。今年は「ポケモンGO」と『シン・ゴジラ』の登場によって、ハリウッド映画から日本に怪獣を取り戻す重要なモンスターイヤーだったが、出品作のレベルも向上している。個人的には片山美耶のカービングの技術によるお化けスイカの作品が、いかにもという怪獣ではなく、日常的なモノが不気味に変容しており、トラウマになりそうで印象に残る。

2016/09/02(金)(五十嵐太郎)

杉本博司 ロスト・ヒューマン

会期:2016/09/03~2016/11/13

東京都写真美術館[東京都]

2年間の休館を経て、東京都写真美術館がリニューアル・オープンした。英語の名称がTokyo Metropolitan Museum of PhotographyからTokyo Photographic Art Museum(TOP MUSEUM)に替わった。エレベーターが2台に増え、展示室も改装され、より快適な環境での作品鑑賞が期待できそうだ。そのこけら落としとして2階展示室、3階展示室で開催されたのが杉本博司の「ロスト・ヒューマン」展(地下1階展示室では「世界報道写真展2016」を開催)。リニューアル・オープン展以外にはまず考えられない予算と時間をかけて、凝りに凝った大規模展を実現した。
3階展示室の「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は、2014年にパリのパレ・ド・トーキョーで開催された同名の展覧会をバージョン・アップしたものである。「理想主義者」、「比較宗教学者」、「養蜂家」から「国土交通省都市計画担当官」、「自由主義者」、「コメディアン」に至る、世界の終わりを記述した33のテキストにあわせて、トタン張りの小室をしつらえ、そこにさまざまな収集品、書籍、歴史資料、自作の写真作品などを配置している。質の高いコレクションとよく練り上げられたインスタレーションは圧巻であり、「漁師」のパートに展示された「歌い踊るロブスター」や、マルセル・デュシャンの「遺作」を意識した「ラブドール・アンジェ」の部屋など、絶妙な諧謔味もまぶされている。視覚的なエンターテインメントの展示として、上々の出来映えといえる。
2階展示室の「廃墟劇場」、「仏の海」では、一転して写真のテクニックの極致というべき作品を見せる。「廃墟劇場」は杉本の代表作である上映中の映画館のスクリーンを長時間露光で白く飛ばして撮影した「劇場」シリーズの延長上にある作品である。見捨てられて廃墟になった映画館で撮影するというコンセプトは、3階展示室のインスタレーションと呼応している。「仏の海」は京都・三十三間堂の千手観音像を、早朝の自然光で撮影した写真群で、8×10インチカメラの緻密な描写力で「荘厳の内に西方浄土が顕現する」瞬間を写し止めている。
これらの展示を見て、どうしても考えてしまったのは、写真美術館、そして写真という媒体が、この先どうなっていくのかということだ。リニューアル・オープン展には、今後の写真美術館の方向性が、メッセージとして託されていると考えるのは当然だろう。杉本の「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は、もはやコントロール不可能な現実世界(仮想現実も含めて)に撮影という行為を通じてかかわり、そこから新たなヴィジョンを引き出してくる「写真」の営みからは遠く隔たったものだ。それは彼の内なる構想(むしろ「妄想」)を、手際よく組み上げたインスタレーションであり、観客は杉本の掌の上を連れ回され、目の前に繰り広げられる仮想的現実に驚嘆することを強いられる。先に述べたように、展示の出来映えは見事なものだが、それは「写真のこと」ではないだろう。東京都現代美術館や国立国際美術館ではなく、東京都写真美術館がリニューアル展示として開催するのにふさわしい企画であったのかという点については、疑問を呈しておきたい。

2016/09/02(金)(飯沢耕太郎)

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とことん!夏のびじゅつ(じ)かん

会期:2016/07/16~2016/09/11

府中市美術館[東京都]

夏休みの子供向け企画。「美術館で美術の時間を」ということで「びじゅつ(じ)かん」になった模様。幕末生まれの中村不折から山本麻友香までコレクションを使って、クイズや体験装置を通して楽しもうという趣向だ。清水登之のパリで描いた《チャイルド洋食店》、高松次郎の「影」、三田村光土里のサウンド・インスタレーション、富田有紀子の大きな花の絵など、テーマ展では一堂に会すことのない多彩な作品が並んでいた。山田正亮のストライプ絵画などは「いろのじゅんばんをかえてみよう」なんてやられて立つ瀬がない。奥の展示室には、まるでミニチュア模型みたいに航空写真を撮る本城直季と、その写真から本当にミニチュア模型をつくった寺田尚樹の「スモール・ワールド」があって、大人でも楽しめる。

2016/09/02(金)(村田真)

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2016年10月15日号の
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