artscapeレビュー

2012年12月15日号のレビュー/プレビュー

森下大輔「名前のかたち」

会期:2012/10/29~2012/11/04

Gallery RAVEN[東京都]

森下大輔は1977年生まれ。2003年に東京綜合写真専門学校を卒業し、2005年からニコンサロン、コニカミノルタプラザなどでコンスタントに作品を発表してきた。だが初期の頃の、画面にパターン化された明快なフォルムの被写体を配置していく作品と比べると、今回の「名前のかたち」シリーズの印象は相当に変わってきている。
以前はブロイラー・スペースという名前で活動していたGallery RAVENの1階のスペースに11点、2階に12点展示された写真群は、白茶けたセピアがかった色調でプリントされており、その多くはピンぼけだったり、あまりにも断片的だったりして、何が写っているのか、何を写したいのかも判然としない。「名前のかたち」というタイトルにもかかわらず、それらは「名づけられたもの」を「名づけられないもの」あるいは「名づけようがないもの」へと転換し、再配置しようとする試みにも思える。
いくつかの写真には、彼自身のものらしい手の一部が写り込んでいる。だが、それがどこを、どのように指し示しているのかも曖昧模糊としている。それでも、逆に以前のきちんと整えられた画面構成にはなかった、写真によって世界を再構築しようという、止むに止まれぬ衝動が、より生々しく感じられるようになってきているのもたしかだ。今のところ、まだ中間報告的な段階に思えるが、この方向をさらに遠くまで推し進めていってもらいたいものだ。

2012/11/04(日)(飯沢耕太郎)

米澤隆/HAP+《公文式という建築》

[京都府]

京都にて、名古屋の若手建築家、米澤隆が設計した《公文式という建築》を見学する。雑誌では、とんがった屋根の造形や、ガラスのテーブルでつなぐ上下の空間構成の大胆さが目立つが、現地を訪れ、筆者も子どものときに通っていた公文式の学習形式を、いかに空間化するか、というプログラムから導かれた設えだということがよくわかった。教員が前にたち、一斉授業をするのではなく、それぞれの子どもが自分の到達度に合わせて自習するという独自の教育システムが建築として空間化されていた。これは家具的な建築でもある。

2012/11/04(日)(五十嵐太郎)

気仙沼

[宮城県]

仙台から気仙沼へ。昨年3月末にまわったときの風景を思い浮かべながら、港の周辺を歩く。黒こげになった街はなくなっていたが、所有者が不明か解体できない、あるいは解体しない建物がぱらぱらと残る。逆説的だが、あまりの惨状ゆえに、今やまっさらに片付けられた女川とは対照的だった。また地盤沈下のため、道路のかさ上げが半端でない。リアスアーク美術館にて、あいちトリエンナーレ2013の参加に関する打ち合わせを行なう。ここも昨年3月下旬、家を失った学芸員の山内宏泰さんがまだ美術館に住み込んでいる状態のときに訪れた。当時は閉鎖されていたが、美術館はすでに再開している。現在、来年オープンする震災の常設展を準備中だった。津波で襲われた街から収集した被災物のコレクションを見せていただく。大きな被災物は津波の破壊力を科学的に説明するが、小さなモノは生活の記憶を物語る。とくに汚れたぬいぐるみには、重油の匂いが残っており、直後の被災地で強く感じた嗅覚から、あのときの生々しい記憶がよみがえる。

写真:上=気仙沼市街、下=収集された被災物

2012/11/07(水)(五十嵐太郎)

野村恵子『Soul Blue 此岸の日々』

発行日:2012/10/05(金)

2012年4月にPlace Mで開催された野村恵子の同名の個展で、この写真集の刊行の話を聞いた。そのときから楽しみにしていたのだが、予想を超えた素晴らしい出来栄えに仕上がったと思う。まさに野村の1990年代後半以来の写真の仕事の集大成といってよいだろう。
写真集は、窓のカーテンから射し込む光を捉えた「The morning my mother ended her life, Kobe, 2009」から始まり、揺れ騒ぐ波間に漂う花束を写した「Sea funeral for my parents, 2012」で終わる。この2枚の“死”にかかわるイメージの間に、90年代以来野村が積み上げてきた写真群が挟み込まれている。デビュー写真集『Deep South』(リトルモア、1999)におさめられていた、若い女性のヌードや沖縄の風景などもあるが、中心になっているのは2010年以降の近作だ。かつての野村の写真といえば、生々しい、血の匂いがするような風景や人物が多かったのだが、今度の写真集はかなり肌合いが違う。森山大道が写真集に寄せたテキストで「パセティック(悲壮的)ではないが、そこはかとなくメランコリーな気配がただよっていて」と的確に指摘しているように、落ちついた眼差しで静かに眼前の眺めを見つめているような作品が多くなっている。とりわけ、横浜・日吉の自宅のマンションの窓から撮影した空やビル群の写真には「メランコリーな気配」が色濃く感じられる。このような日常的な場面を写真集に入れようという発送自体が、以前の彼女にはなかったはずだ。
むろんこの写真集は、野村の写真家としての経歴の行き止まりではなく、これから先も彼女は撮り続け、写真集を刊行していくはずだ。だがひとつの区切りとして、見事に次のステップへの足場を築いたことをまずは言祝ぎたい。編集の沖本尚志、アートディレクションとデザインの中島英樹とのチームワークのよさも特筆すべきだろう。

2012/11/08(木)(飯沢耕太郎)

秦雅則/村越としや/渡邊聖子「まれな石および娘の要素」

会期:2012/11/01~2012/11/30

artdish g[東京都]

「ギャラリー+食堂」というユニークなコンセプトで運営している東京・神楽坂のartdishが、新たな企画を立ち上げて動き出した。2012年8月からA PRESSという出版部門が活動を開始したのだ。A PRESSは「写真作品を中心としたart pressであり、私たちの見ている写真に纏わるさまざまな要素を今一度、明確に可視化するための媒体」である。秦雅則が企画を、秦とともに四谷で企画ギャラリー「明るい部屋」を運営していた三木善一が編集を、artdishの沢渡麻知が総括を担当して、8月に秦雅則『鏡と心中』が、今回第二弾として村越しんやの『言葉を探す』が刊行された。さらに2013年の初めに、渡邊聖子の『石の娘』の出版が予定されている。
今回の展覧会は、そのA PRESSの作家たちのお披露目というべき展示である。彼ら自身が認めているように、「三人の作風は、まさに三者三様」だ。秦はカラーフィルムを雨ざらしにして腐敗させ、その染みや傷をそのままむき出しに定着したプリント、村越は故郷の福島県で撮影したモノクロームの風景写真、渡邊は小石や人物を撮影した写真に、ガラスをかぶせたりテキストを付したりしたインスタレーション作品を出品した。たしかに被写体として石や岩が登場するということはあるが、バラバラな印象は拭えない。とはいえ、1980年代前半の生まれという世代的な共通性に加えて、言葉と写真とが相互浸透する関係を大事にしていこうとする志向を感じとることができた。それはA PRESSのラインアップにも表われていて、秦の『鏡と心中』も村越の『言葉を探す』も、テキスト中心に編集されている。渡邊の展示でも「うつくしく なる/わたしのキズだった(痛み)/わたしはキズだった(痛み)」といった詩的な言葉を写真と組み合わせていた。このようなユニークな立ち位置から、実り豊かな表現が育っていくことを期待したい。

2012/11/08(木)(飯沢耕太郎)

2012年12月15日号の
artscapeレビュー