artscapeレビュー
2013年04月01日号のレビュー/プレビュー
岩淵多喜子『パフォーマンスキッズ・トーキョー:からだのキモチ』
会期:2013/03/24
ルネこだいら[東京都]
(以下の文はリハーサルとゲネプロを基にしている。見学を許可してくれたスタッフの方々に感謝致します)
子どものからだは面白い。筆者の家に暮らす3歳児のからだは柔軟で機敏で、ときに暴力的、ときに奇想天外だ。息子がポーズをとり親が2人でそれを真似する、なんて遊びがはじまると、超ユニークなポーズを真似できず四苦八苦する親たちの低スペックぶりにあきれながら、フレッシュなからだの面白さを痛感してしまう。泣けばからだ全体が泣く。文化の諸コードにどんどん呑み込まれていくと彼の涙も文化的になるのだろう。それは確かに成長である。何かを習得するとからだの能力は拡張する。けれども、その成長は同時に、過去の人間たちがつくった規範に縛られてゆくプロセスでもある。
岩淵多喜子が振付・構成を担当した本作を見た(以下は本番ではなくリハーサルとゲネプロを見ての文章である)「パフォーマンスキッズ・トーキョー」はNPO法人芸術と子どもたちらが主催して上演されてきたプログラムで、24年度は山下残、山田うん、セレノグラフィカなどダンス系や音楽系の作家たちが携わり、約10日間のワークショップの後で発表会を催してきた(学校の授業で実施されるプログラムもある)。ぼくは2011年の鈴木ユキオによる公演『JUST KIDS』をここで評したこともあるが、そのときもまた本作でも感じたのは教育(振付)というものの難しさだ。教育はできないことをできるようにする。その成長が、できるようになった子どもをどこへ導くのかにその真価かかっていよう。鈴木の場合は、彼のルーツである舞踏の暗黒性へと子どもたちを連れて行った。そうして、死や絶望を含んだ生活の暗部へと子どもたちを向き合わせた。岩淵の場合、例えば、自分の過去にあったこと、将来あったらいいと思うことなどをジェスチャーで表現している(ように見える)シークエンスなどがあり、子どもたちを自分自身へ向き合わせようとしていた。それもひとつの教育方法だろう。この向き合う「自分自身」が本人も自覚していなかった何かであれば、そこには驚きがあり、発見があるはず。今回の上演がまさにそんな自分自身(=「からだのキモチ」)に気づく機会であったらと思うのだが、上演の主たるベクトルはそうした気づきを大切にする方向よりも、上演の完成度を高める方向にあったように感じられた。一番正直な感想は、よくここまで大人数の子どもたちをまとめたというものだった。その努力はしかし、「からだのキモチ」とは別の方向への努力ではないかとも思ってしまうのだ。
「からだのキモチ」が現われるのはむしろ振付を逸脱する瞬間だった。例えば、ジェスチャーの動きがどんどん速くなってしまうとき。あせっているのとも緊張しているのとも異なる子どものからだらしいテンポ感が出てしまっている。間をとったほうがきれいだろう。けれども、そうするとからだの「キモチ」が消えてしまう。確かに子どもは異常なほど機敏なときがある。決まった台詞を読み上げるときなど、よくそれが現われる。脇にそれるが、NIbrollの速さを、そうした幼児的身体の「キモチ」と連関づけて理解することは可能かもしれない。
仮想の虫をキャッチしては誰かに投げるという場面でも、相手が投げきる前にキャッチしてしまう速い(早い)子どもが何人かいた。こうしたゲームは舞台の上ではなく、純粋に遊びとしてやると集中してでき、より実感をともなったものになるのだろう。そう思うと、観客の前で作品を完成した状態で披露する劇場空間という仕組みが「からだのキモチ」の現われを邪魔している気がしてくる。
ここまで書いてきてはたと気づいたのだけれど、ぼくが夢想しているのはNPO法人芸術家と子どもたちが掲げる「CHILDREN MEET ARTISTS」とは逆で「ARTISTS MEET CHILDREN」が起こる場なのかもしれない。整った大人の身体たちが構成する一般的な舞台公演の一様さとは異なり、子どもたちのからだはじつに多様で、スペックの違いが感じられ、面白いのだ。子どものからだという素材の面白さに気づいて、自分の作品作りが変容してしまうような作家が出てきたら、などと想像してしまう。ただ、子どものポテンシャルが引き出されても、子どもたち自身は日々生きている自分のからだを動かすだけで別段目新しくなく、楽しめないかもしれないけれど。
2013/03/24(日)(木村覚)
東京オリンピック1964 デザインプロジェクト
会期:2013/02/13~2013/05/26
東京国立近代美術館[東京都]
亀倉雄策が手がけた東京オリンピックのシンボルマークや公式ポスターは多くの人が知っているだろう。オリンピックの寄付金付切手を覚えている人も多いに違いない。原弘がデザインした入場券も有名である。バッジやワッペンは河野鷹思のデザインである。こうした東京オリンピックに関わるデザインが断片的に紹介されることはこれまでにもあった。しかし、本展覧会のように多様なグラフィックが一堂に会する機会はなかなかないのではないか。
本展はオリンピックとデザインの関わりを、準備・実施・記録の三つの段階に分け、デザインによる問題解決のプロセスを丁寧に紹介する。「第I章 東京オリンピックの準備」では、シンボルマーク案や決定案の版下、第2号から第4号までのポスターに用いられた写真のポジフィルムが見所であろう。また、募金活動に関わる記念切手やシール、記念たばこのパッケージは、人々のオリンピックに対する関心を高めるためにデザインが重要な役割をはたしたことを示している。「第II章 東京オリンピックの開幕」は、聖火リレーのトーチや入場券、競技や施設を表わすピクトグラムなど、オリンピックの会場で活躍したデザインのみならず、オリンピックと同時に都内の美術館・博物館で開催された「芸術展示」のポスターやチケットも出品されている。「第II章 東京オリンピックの記録」では、映画『東京オリンピック』の映像やポスター、記念グッズが取り上げられている。
東京オリンピックのデザインがその後に与えた影響はいくつか挙げることができる。ひとつは、シンボルマークの制定である。「僕の功績はシンボルマークをデザインしたことではない。作ろうと提案したことだ」と亀倉雄策が語った通り、それまでの大会では五輪マークはあるものの、大会独自のシンボルはなかった。もうひとつは、ピクトグラムである。世界中の人々が集う場には、特定の言語に依存しないコミュニケーション手段が必要となる。それが具体化されたのが東京オリンピックのピクトグラムである。そしてもうひとつ挙げられるのは、チームワークによるデザインである。シンボルマークをデザインし、ポスターのディレクションを担当したのは亀倉雄策である。そのほかのデザインも、関わった人々は皆その後の活躍で名前を知られるデザイナーばかりである。個々のデザインワークを拾い上げれば、担当したデザイナーの名前がわかるものもある。しかし、実際には東京オリンピックのデザインは、勝見勝をトップに置いたチームワークによる成果であり、誰が何をデザインしたのかよりも、何がどのようにデザインされたのかが、より重要な視点であろう。図録に収録されたデザイン関係者の証言に加え、野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』(小学館、2011)を読むとその実像がよく理解できよう。1964年の国家的イベントにおいてデザインが成し遂げた成功は、1970年の大阪万博、1972年の札幌オリンピックへと引き継がれてゆくのである。[新川徳彦]
2013/03/24(日)(SYNK)
『吾妻橋ダンスクロッシング2013 春』
会期:2013/03/29~2013/03/31
アサヒ・アートスクエア[東京都]
吾妻橋ダンスクロッシングは、浅草のアサヒ・アートスクエアを会場に桜井圭介が2004年からキュレーションしてきたパフォーマンス・イベント。最近は「ダンス」という括り方ではとうてい収まらないセレクションになっているのだが、今回はこれまで以上に特異な感触があった。コミカルさは後退し、代わりに暗さ、不安さが濃密に漂い、退廃的とでも形容したくなる「だめ」さが際立った。伝統的な価値に反対するジェスチャーを指すのに、いまぼくは「だめ」という言葉を使ったのだけれど、その意味で(いや、その意味を超えて)格段に「だめ」だったのは遠藤一郎のパフォーマンスだった。core of bellsはパンキッシュな演奏を変身をめぐる奇っ怪な小芝居とともに行ない、演奏がぐにゃりと変形してしまう仕掛けを見せた。これは「パンクをまじめに演奏するとパンクでなくなる」というディレンマに立ち向かい、その難問に解答を試みたまじめな「だめ」さだ。室伏鴻は何度もぶっ倒れ、舞台から落下し、素人的なダンサーたちが林立する中で四つん這いで徘徊した。これは知的で方法的な「だめ」さだ。悪魔のしるし(危口統之)は自虐的に自らの「腐った」(タイトルが「芯まで腐れ」)状況を嗤い、「長嶋茂雄」のバットで自らの死刑を執行した。これはアイロニカルな「だめ」さだ。東葛スポーツはチェルフィッチュに出演する女優二人が演劇とラップを融合したスタイルで無軌道に観客に向けてくだをまいた。この投げやりな様子はいらだつ女性の内心に潜む不安を滲ませていた。これらのだめさは知的だし反省的で反抗的──だからじつは自分はだめじゃないといいたげ──なのだけれど、遠藤一郎の「だめ」はそうした前置きなしのだめなのだ。ひょいと舞台にあがったその男は、観客に向けて「さあ」というかけ声を連呼し、力をためるような身振りを何度も繰り返した。その後、『展覧会の絵』をバックにガッツボーズを決めてみせた。彼がかけ声をかけ、こぶしを握りしめるたびに、観客席は気恥ずかしさで引いてしまう。「あいつ、なんなの」と冷笑すれば観客は遠藤に楽勝できる。けれど、この「引き」はここで自分たちが望んでいるものはなんなのかと観客に考えさせ、いろいろな既存の価値に縛られている自分に向き合わせる力をも有している。この「だめ」はその意味でダダ的だ。けれども、ダダのように見る者を無意味へ誘うのが遠藤の狙いではない。遠藤の行為はどれも青臭くマジだ。後半、ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』を絶唱すると、「気恥ずかしい遠藤」という存在にすがすがしささえ感じるようになる。core of bellsが賢明にも選んだ迂回路をさらに迂回する……、いやいや、これはやはりただの絶唱なのだ。王様は裸だと指さす側で平静を装うのではない、自分が裸であることを隠さず、情熱と不安をむき出しにした王様の絶唱。ほかの作家たちが「がれき」の話をしているのに遠藤は「さら地」の話をしていた、などと喩えるのは不謹慎か。ともあれ遠藤の出演にキュレイターの意志を感じた。「だめ」の進む先にある「未来」を遠藤は指し示そうとしていた。
2013/03/29(金)(木村覚)
プレビュー:SHOES DESIGNER 高田喜佐──ザ・シューズ展
会期:2013/04/18~2013/07/02
神戸ファッション美術館[兵庫県]
女性靴のデザイナーの草分け的存在、高田喜佐(1941-2006)の個展。1980年代に大学生活を送った筆者にとって、高田が設立したブランド「KISSA」の靴は憧れの的だった。『an・an』などのデザイン・コンシャスな雑誌に掲載されるKISSAの靴に、通常の靴商品にはない魅力を感じたものだ。事実、本展チラシによれば、高田は日本の女性靴に初めてデザインの概念を持ち込んだ人物として評価されているという。今回の個展は、神戸ファッション美術館に寄贈された膨大な数の靴やデザイン画、写真、映像等をもとに彼女の活動の軌跡をたどる。公立美術館で靴デザイナーの展覧会が開催されるのはきわめて稀だ。ましてや日本ではめずらしく、つねにアカデミックな視点からデザインを展示する神戸ファッション美術館の展覧会である。ぜひ内容に期待したい。[橋本啓子]
2013/03/31(日)(SYNK)
プレビュー:Crackers boat『flat plat fesdesu vol. 2』、『駆ける女』
ダンスと音楽を混ぜ合わせたフェスティバル『flat plat fesdesu vol. 2』が開催される(2013年4月23日~29日、こまばアゴラ劇場)。KENTARO!!らが結成したプロジェクトチームCrackers boatによる企画で、A、B、Cと分かれた三つのプログラムの公演が行なわれる。個人的には、最近偏愛中のQ(演出:市原佐都子)がどんなパフォーマンスをするのか気になるところなのだが、遠田誠(Aプロ)、岩渕貞太(Bプロ)、大倉摩矢子らコンテンポラリー・ダンスや舞踏の実力ある作家が踊るほか、フレッシュなアイディアでダンス表現を更新するAokid(たかくらかずきとのコラボ)にも注目したい。青葉市子など音楽のほうも面白そうな作家たちがラインナップされている。音楽の作家たちとの公演という点からしてもそうなのだけれど、これはライブハウスで音楽の作家たちが日々行なっているような「対バン」的な仕方でダンスを楽しむことになるのだろう。こういう企画が、ダンスの鑑賞習慣を変えていくのに違いない。
そのほか、黒沢美香が上村なおか、森下真樹を振り付ける『駆ける女』(2013年4月27日~29日、スパイラルガーデン)も見逃せない。乙女度の高い黒沢の世界を2人のダンサーがどう踊ってみせるのか、楽しみだ。
2013/03/31(日)(木村覚)