artscapeレビュー
2015年04月01日号のレビュー/プレビュー
摺師 戸田正の仕事
会期:2015/03/07~2015/03/29
日本の伝統的木版画(浮世絵)の摺師である戸田正(1936~2000)は、1982年よりクラウンポイントプレス社(アメリカ)の日本木版画プロジェクトに摺師として参加し、ドナルド・ジャッド、フランチェスコ・クレメンテ、アレックス・カッツ、チャック・クロースなど、そうそうたるメンバーの木版画制作を手助けした。本展は彼の功績を再評価するもので、彼の工房(紫雲堂/京都市北区)に残された作品、校正摺り、道具類、新聞記事等の資料などを展示していた。出品物はどれも貴重なものばかりだが、作家の指定が入った校正刷りや、チャック・クロース作品の制作過程が分かる連作はとりわけ見応えがあった。日本の優れた職人技を顕彰する意味で、本展の開催は意義深い。
2015/03/08(日)(小吹隆文)
ミシャ・デリダー ジャパンスーツケースII
会期:2015/03/07~2015/03/28
ギャラリーギャラリー[京都府]
フランスのモード造形作家ミシャ・デリダー。彼女は服飾と立体を兼ねるような造形作品と、それをまとったパフォーマーによるダンスを作品としている。また近年は、スーツケースに作品を詰めて海外を訪れるスーツケース・プロジェクトも展開している。彼女は2013年に日本を訪れ、京都の丹後ちりめんや西脇の播州織など、日本各地の布地を入手した。本展の出品作はそれらを用いたものだ。大量のぬいぐるみと衣服が合体した作品、いくつもの袖を持ち、前後左右を問わず着用できる作品、無数の半球形の突起で覆われた作品など、彼女の作品はどれもユニークだ。動く姿を見られなかったのが残念でならない。リモコンで稼働する台座を作って衣装を着せれば、パフォーマーが不在でも動く姿を見ることができる。いや、無人劇のような新表現へとつながるかもしれない。次に来日する時に、彼女の表現はどのように進化しているだろう。その日がいまから楽しみだ。
2015/03/10(火)(小吹隆文)
大ニセモノ博覧会 贋造と模倣の文化史
会期:2015/03/10~2015/05/06
国立歴史民俗博物館[千葉県]
人魚と言えば、古今東西の神話や童話に登場する、伝説上の生き物。上半身は人間だが、下半身は魚というイメージが定着しているが、幕末から明治にかけて、見世物小屋では人魚のミイラが興行されており、大いに人気を集めていた。現在、それは猿の上半身と鮭の下半身を切り合わせたものであることが、ほぼ実証されている。つまり人魚のミイラは明らかに偽物である。
本展は、偽物や贋作、模造品を集めた展覧会。雪舟や酒井抱一、池大雅らの贋作をはじめ、徳川家康の偽文書、偽金、鬼のミイラなど、およそ300点の資料が展示された。いずれも一見しただけでは本物との区別ができないほど精巧で、本物と比較するかたちで展示されていれば別だったが、素人目にはその真偽の判断は極めて難しい。筆の運びや賛、印章などを手がかりにしながら偽物の根拠を説く専門家による解説文があってはじめて納得できるというわけだ。
興味深いのは、その解説文が、偽物を解説するという目的だからだろうか、徹底的に辛口であること。「技法をまねるのに精一杯で、技量が追いついていない」、「琳派らしさを出そうとしていますが、新聞広告の通販で買えそうな程度のニセモノです」、「まったく絵心を感じません。とてもプロの絵とは思えません。これを池大雅の絵と言い張ることに、別の意味で敬服できる作品です」などと、まるで容赦がない。一般的に研究者は価値判断を下さず、客観的な立場を固守すると考えられがちだが、こと真偽の問題に限っては、批評的な視線と言語を動員せざるをえないことを、これらの解説文は如実に物語っていた。
とはいえ、おびただしい数の偽物を見ていくと、真偽の境界線が明確になっていく一方で、ますます曖昧になっていくように実感するのもまた事実である。なぜなら仮に偽物であることが科学的に実証されたとしても、偽物ならではの価値が失われない場合もあることに気づかされるからだ。かつて地域の名家は自宅で接待のための宴会を催す際、たとえ偽物であることが明らかだったとしても、名の通った美術品を床の間に飾り、見栄を張ることを余儀なくされていたという。また、江戸時代の庶民は人魚の骨を解毒剤として服用し、人魚を描いた刷り物を無病息災を願うお守りとして軒先に貼っていたという。つまり、これらは科学的には偽物かもしれないが、民俗的には本物として庶民の生活で必要とされていたのである。
本展で浮き彫りにされたのは、真偽をめぐる問題について、私たちの社会には科学的な基準とは異なる、もうひとつの基準が存在しているという事実である。それは、民俗的な基準なのかもしれないし、芸術的なそれなのかもしれない。いずれにせよ、その重層的なレイヤーこそが、社会的な現実を構成していることはまちがいない。芸術が真理を体現するものだとしたら、それは偽物のなかにこそあるのかもしれない。
2015/03/10(火)(福住廉)
「クリエイションの未来展」第3回 隈研吾監修「岡博大展──ぎんざ遊映坐 映智をよびつぐ」
会期:2015/03/12~2015/05/23
LIXILギャラリー[東京都]
ギャラリー内部に仮設の映画空間が設えられている。空間の構造体は竹ひご。竹を割ってつくったひごを丸めて終端同士を結束バンドで締めて輪をつくり、三つの輪を重ねてゴムで結ぶと折りたたみ可能な球体ができる。その球体同士を結束バンドで連結して壁面をつくり、布の天蓋を掛けることで組立式の「モバイルシアター」が完成する。空間の設計は隈研吾氏。そして「ぎんざ遊映坐」と名付けられたこのシアターで上映されているのは、映画作家・岡博大氏が撮影を続けている隈氏の仕事。遊映坐とは旅する映画館を意味する。2008年に「湘南遊映坐」を設立した岡氏は、各地で映画祭映画イベントを主催すると同時に、2010年からは建築家・隈研吾氏の日常の仕事を追ったドキュメンタリーを撮影している。隈氏の事務所、プレゼンテーションの場、建設現場にともない、これまでに撮影した映像は200時間に及ぶという。特にプロットがあるわけではない。ただひたすら撮り続ける。海外まで追いかける。驚くのは、これを手弁当で続けていることである。なにが彼をそうさせるのか。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)時代に隈氏に学び、それまでビジネスを目指していた人生の方向を180度変えたという岡博大氏は、隈研吾氏を「諸国を行脚する漂泊の俳人」に、自身を「芭蕉の旅に同行した門人・曾良」になぞらえる。映像は日々の出来事の記録、個々の仕事の記録であると同時に、ひとりの建築家の旅の記録であり、共に仕事をした人々の記録でもあり、岡氏自身の人生の記録でもある。モバイルシアターも映像もまだプロトタイプだが、いずれ各地を遊映し、人と人の出会いの場となり、それぞれの場に映智=映像による叡智の枝を呼び接いでゆくことになるのだろう。[新川徳彦]
2015/03/12(木)(SYNK)
科学開講!京大コレクションにみる教育事始
会期:2015/03/05~2015/05/23
LIXILギャラリー[東京都]
京都大学総合博物館、京都大学吉田南総合図書館に保存されている歴史的な物理実験機器、教育掛図、生物学地質学関連の模型・標本約100点を通じて、明治期日本における科学教育の姿をひもとく展覧会。京都大学の前身である旧制第三高等学校(三高、1894年/明治27年発足)は、日本で最初の理化学校として1869年/明治2年に大阪に開講した舎密局(せいみきょく)を始まりとしており、科学教育に力を注いでいた。近代化を推進する人材を育てるために、こうした学校はヨーロッパ製の高価な機材を多数購入してきた。京都大学総合博物館にはこうした三高由来の多様な物理実験機器が約600点保存されている。これらの機器は教場の準備室の片隅で長い間埃にまみれて放置されていたという。現在は使われていない機器や、使用方法がわからない装置が多数あるなかで、永平幸雄・大阪経済法科大学教授らは残されている機器の購入記録やメーカーのカタログなどを渉猟し、品名や使用法、購入年、価格、納入業者や製造業者を同定し、機器の歴史的意義を明らかにしてきた。実験機器の詳細を明らかにすることは、三高の教育、黎明期の日本の科学教育の歴史を明らかにすることでもある。本展で個々の機器にわかりやすい解説が付されているのはこの調査研究の成果だ
。とはいえ、学術上の意義とは別に、これらの古い実験機器に独特の美を感じるのは不思議である。特定の実験のみに対応するために単純な構造を有する装置の機能美。真鍮などの金属でつくられた機器の質感と重量感。鉱物や宝石のレプリカ、生物標本、解剖模型、教育掛図も、そのビジュアルがじつに魅力的なのだ。本展を見た人は、東京大学の資料が展示されているインターメディアテクの展示を思い出すと思う。生物学・地質学関連資料が多いインターメディアテクの展示に対して、三高コレクションは物理実験機器が中心。LIXILギャラリーとインターメディアテクは徒歩で10分ほどの距離にあるので、両者を併せて見たい。[新川徳彦]2015/03/12(木)(SYNK)