artscapeレビュー
2009年03月15日号のレビュー/プレビュー
『都市美──都市景観施策の源流とその展開』
発行所:学芸出版社
発行日:2005年5月30日
ヨーロッパ各国及びアメリカ、日本における「都市美」の源流と展開を、それぞれの専門家が掘り下げる。日本における景観行政のはじまりを契機として(景観法の施行は2004年12月)、都市美の概念を発展させてきた欧米各国の歴史や事例を明らかにしようとするもの。都市美に限らず、各国における異なる状況が見えてきて興味深い。そもそも各章の取り扱っている時代や内容がかなり多様である。概念自体を統一した視点から語ることが難しいという事実は、都市美の多様性を示すものであろう。「美」の公共性という言葉が挙げられていた。都市の公共空間をめぐる問題系のなかで、避けて通れない問題ではないだろうか。
2009/02/22(日)(松田達)
元田敬三「MOTODABLACK」
会期:2009/02/16~2009/02/28
森岡書店[東京都]
「MOTODABLACK」というのは、元田敬三の“黒”ということだろうか? 何だか意味が分からず見に行って、なるほどと納得させられた。
写っているのは自動車やオートバイの車体の一部。「CHEVELLE」「PONTIAC」「Harley-Davidson」といったエンブレムやエンジンカバーなどが金属的な光沢を放ち、あとの大部分は漆黒の闇の中に沈んでいる。いや違う。闇そのものが輝いているというか、その黒々としたディテールが、異様になまめかしい存在感を発して迫ってくるのだ。カーマニア、メカ好きにはたまらない被写体だろう。僕にはあまりそちらの趣味はないのだが、それでもその冷ややかな物質感にはぐっと来るものがあった。元田敬三といえば、新宿二丁目から歌舞伎町界隈の路上の住人たちを、正面から捉えたスナップショットの写真家という印象が強かった。今回の新作は相当の覚悟をきめた大転換といえるだろう。“黒”の厚みと輝きを出すため、カメラはあえて大型の4×5インチ判を使っているという。気合いが入った4×5のストロボ一発撮りという意欲的な試みは、まずは成功したといえるのではないか。
なお会場では、町口覚のアート・ディレクションによる写真集シリーズ「M」の第8弾として刊行された『MOTODABLACK』(マッチアンドカンパニー)も販売されていた。シンプルですっきりした装丁・レイアウトがなかなかかっこよく、売行きも上々のようだ。展覧会はこのあと大阪のNadar OSAKAにも巡回(3月3日~15日)。
2009/02/26(木)(飯沢耕太郎)
長谷川豪《狛江の住宅》
[東京都]
竣工:2009年
プロデュース:大島滋(Aプロジェクト)
長谷川豪の第4作目。住宅地の角地に建つ。地上に現われた天井高の高い一室と、地下に埋め込まれたヴォリュームが、断面で見ると斜めに配置。そして地下からの階段を上がった先の庭という三つの空間がこの住宅の主要な要素である。延床面積は86.70平米。決して大きくはないが、何か不思議な奥行きを感じさせる住宅で、その感覚に新しさを感じた。建ぺい率40%、容積率80%という条件だというので、通常なら総二階に近い2階建てとしそうなところ、長谷川の選んだ配置は地上と地下に斜めにヴォリュームを配置するというものだった。庭も含めて三つの空間が相互に繋がっており、円環状に空間の場面が転換していく。特徴的なのは、地下の居室の天井にあけられた4つの天窓。長谷川によればこれは空間同士をつなぐもので、開口部というより階段に近いものなのだという。実はこのことがこの住宅の建ち方を示す鍵になっている。本人の説明によれば、この住宅では「まち」と「にわ」と「地上」と「地下」の4つの空間が隣接関係を持ちながらつながっているのだという。そして、この天窓は、階段がそうであるように上下の空間をつなぐ「導管」的な役目を果たしている。一階に戻ろう。天井高が高く、周囲の環境に応じて5つの大きな開口部のあけられた1階のLDK。開放的なこの空間には、ヴォリュームから飛び出した曲線部分を持つエントランスで、まるでストローがささっているかのようにも見える。この一階と開口部の外(=「まち」)がつながれている関係は、一階と地下が階段によってつながれている関係と同形である。つまり、「エントランス」は一階と地下をつなぐ「階段」にほかならない。そして一階の5つの「開口部」は、地下空間の「天窓」に該当する。同様に、「庭」と「まち」もつながれている。「庭」に家具が置かれることが想定されており、そこが一種の居室として考えられていることを示している。「地下」と「まち」も、地下の壁面上部に空けられた5つの「換気窓」によってつながれている。それぞれの「空間」をつなぐ複数の「導管的開口部」は、時に「階段」であったり「エントランス」であったり「トップライト」であったり、または「庭」と「まち」をつなぐ「見えない開口部」であったりする。このことによって、この住宅は、「まち」とも手を結び、その中に隣接関係を持って位置づけられることになる。地上のヴォリュームは敷地外部の複数のヴォリュームとほぼ等距離に当たる位置に置かれている。角地であることによって「まち」との、つかず離れずの関係性がより高められる。駅からこの住宅に至る経路を歩きながら、住宅地の奥深くに入り込んでいく感覚があった。おそらく長谷川もそのことを感じたのであろう。住宅地の奥地にあって、建築家がつくる住宅を突出させるわけではなく、周囲の住宅地がもつ位置と力関係のなかで、微妙なバランスをとった場所に配置させ、その関係を結んでいる。「周りの住宅地と同じ土俵に乗らなければ」と長谷川は言う。住宅を住宅地に位置づけること。建築家がそのような住宅を建てたことは特筆に値するのではないだろうか。この考え方は、例えばスイスのディーナー&ディーナーの手法にも近いと感じた。このような「つかず離れず」的な関係性から生まれる関係は、住宅内部の作り方にも浸透していたように思われる。椅子の中に隠され天板を開いて受け取る郵便受け、バスルームから出たところに位置し、対角線状に大小二つの水栓を持つ洗面台など、細部までが「まち」とつながって決められているような感覚を受けた。「まち住宅」ともいえそうな、この住宅の原型として、建ち方を重要視していたアトリエ・ワンの《アニ・ハウス》や《ミニ・ハウス》を思い出したのだが、長谷川は塚本由晴の研究室出身であり、方法論として共通する部分もあるのかもしれない。一軒の小さな住宅が「まち」と「住宅」の関係を示しているという意味で、秀逸な作品だと思った。
写真提供:長谷川豪建築設計事務所
2009/02/26(木)(松田達)
大舩真言「Principle」
会期:2009.2.17~2009.3.1
neutron[京都府]
東京に続く京都での個展。偶然、友人が展示の記録撮影をしていたところに訪れた。入口から向かって正面の壁面に1点の絵画作品、左の壁面から飛び出るように設置された大きな半円形の作品が1点、そして高い位置に小作品が3点。会場は薄暗く、岩絵具独特の色合いの平面作品が闇のように深く沈んで見える。じっくりよく見ようと近づいたり離れてみたりしているうちに、見ている側の自分が、空間のなかで客体化していくような感覚を意識させられる。美しくて、極めて静謐な印象なのだが、それとは裏腹に、見つめているとなぜか胸騒ぎのように気持ちが動かされる。大舩の作品は見ているうちに印象やイメージがどんどん変化していくのだ。それに気持ちが共振するんだろうか。意外と落ち着かない、という不思議な魅力に満ちた作品だ。撮影をしていた友人に、撮るのが難しそうだと言ったら「でも大舩さんの作品を撮る時は三脚は立てないんですよ。空気が濁るから」という答えが返ってきた。それもよく解る。
2009/02/26(木)(酒井千穂)
高木こずえ展「GROUND」
会期:2009/02/27~2009/03/21
TARO NASU GALLERY[東京都]
今年は高木こずえの年になるのではないか。そんな予感もしてくる意欲あふれる展示である。高木は2006年、東京工芸大学在学中に写真新世紀グランプリを受賞し、今後の活躍が期待されている新進写真家だが、本展が商業ギャラリーでのデビュー個展ということになる。
今回発表されたのは「GROUND」と題する新シリーズ。赤く燃え上がるような雑多なイメージの集合体(自分で撮影した写真をCG処理してコラージュしたもの)が、分割された縦横3メートルほどの大画面に撒き散らされるように渦巻いている2点組がメインの作品である。ほかにコラージュの一個一個の要素を抽出して単独で見せるシリーズ、コラージュそのものを凝縮した火の玉のようなイメージが環のように配置された作品もある。つまり「GROUND」の全体は増殖し、伸び縮みする、流動的なイメージ群によって構成されているのだ。
これらの一つひとつの要素がそれぞれどんな意味合いを持っているのか。それを作者に問いかけても、きちんとした答えは返ってこないだろう。いま彼女のなかで起こっているのは、自分自身にもコントロールがきかない核融合や遺伝子の組み換えのようなもので、そこからどんなものが噴出してくるのかは「神頼み」のようなところがありそうだ。逆にいえばそういう状態こそ、アーティストにとっては、最もスリリングで生産的な表現の磁場であるともいえるだろう。しばらくはこの白熱するマグマのような衝動に身をゆだねていてもいいのではないだろうか。
高木はこのあと上野の森美術館で開催される「VOCA展2009」(3月15日~30日)にも出品予定。秋には赤々舎からこの「GROUND」シリーズを含む写真集が2冊同時刊行されるという。24歳の、普通に可愛い小柄な女の子のなかに潜む表現のマグマの埋蔵量は、まだ底が知れないところがある。
2009/02/27(金)(飯沢耕太郎)