artscapeレビュー
2015年05月15日号のレビュー/プレビュー
岩井優「通りすぎたところ、通りすぎたもの」
会期:2015/02/21~2015/03/20
Takuro Someya Contemporary Art[東京都]
「清掃」をテーマとするアーティスト、岩井優の個展。諸外国で滞在しながら制作した3本の映像作品を発表した。いずれもクレンジングが通奏低音になっているが、今回発表された作品は「食」との関連性が強い点も共通していた。
巨大なまな板の上に規則的に立ち並べられた、おびただしい数の魚。それらは地元住民たちの手により次々とさばかれ、血まみれの臓物が広がっていく。魚は調理のために画面から消えていくが、まな板には黒々とした血糊が残される。カメラは頭上から見下ろす視角で撮影しているため、その文様はある種の抽象絵画のように見える。
対照的に、《赤い洗浄》は真下から撮影されている。大量の水が流れ落ちていることはわかるが、その先で何がなされているのか、当初はわからない。ときおり赤い液体が混じり、臓物と思われる陰が映り込むことから、どうやら食肉の解体処理場のようだ。前述した《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》が食べ物の事後的な拭いがたい痕跡を示しているとすれば、この作品は事前に必要とされるクレンジングを表わしているのだろう。
ベルリンで制作された《路上のコスメトロジー》は、路面に落とされた犬の糞を接写したもの。それに岩井は洗剤やクレンジングオイル、制汗スプレーを次々と振りかけ、色とりどりのビーズで彩る。面白いのは、どれだけクレンジングやコスメの粉飾を繰り広げても、さらにバーナーの炎を噴射しても、糞の形態は微塵も崩れないということだ。吹きつけられる気体をはね返し、振りかけられる液体を受け流し、糞は糞の形態を最後まで守り続けている。
食べ物の最終形態である糞の強靭な物質性。ここにはある種の倒錯がある。生物の口に合いやすいように人工的なクレンジングを繰り返した食べ物が、ひとたびその生物から排出されると、一切のクレンジングを受けつけないほど強固な物質として立ち現われるからだ。クレンジングとは、そのような肉体の内部でなされる変換の謎を知るための手がかりになっているのかもしれない。
2015/03/13(金)(福住廉)
phono/graph 音・文字・グラフィック
会期:2015/03/21~2015/04/12
神戸アートビレッジセンター[兵庫県]
藤本由紀夫、softpad、ニコール・シュミット、八木良太、城一裕、intext、鈴木大義のメンバーから成るアート/デザインプロジェクト「phono/graph」。その目的は「音・文字・グラフィック」の関係性を研究し、それらを取り巻く現在の状況を検証しながら形にすることだ。神戸アートビレッジセンター(KAVC)のギャラリー、シアター、スタジオを使用した本展では、メンバーが持ち寄った書籍、音源、作品などを自由に手に取って体験できるライブラリー空間と、音、文字、グラフィックを触覚的に体験できる2つのインスタレーションを構築。まずライブラリーで「phono/graph」を学習し、次にインスタレーションで五感をフル活用してもらい、最終的に観客一人ひとりが新たな知見を得ることが目指された。また、上記メンバーがKAVCのシルクスクリーン工房を約半年間にわたり使用し、さまざまな物にシルクスクリーンを施す実験を行なったのも興味深いところだ。「phono/graph」は過去に、大阪、ドルトムント(ドイツ)、名古屋、京都、東京で開催されてきたが、今回が最も充実していたのではなかろうか。
ウェブサイト:http://www.phonograph.jp/
2015/03/20(金)(小吹隆文)
第三回 景聴園「景聴園×旧木下家住宅」
会期:2015/03/15~2015/03/28
旧木下家住宅[兵庫県]
京都市立芸術大学で学んだ20代の日本画家のグループ「景聴園」が、3回目の展覧会を開催。会場は神戸の舞子。明石海峡大橋に程近い旧木下家住宅である。この住宅は昭和16年に竣工した数寄屋造近代和風住宅で、阪神・淡路大震災以降姿を消しつつある阪神間の和風住宅のなかでも創建時の構えをほぼ完全に残す貴重な例として、平成13年に国の登録有形文化財に指定されている。景聴園の5人の作家(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓)は事前にこの邸宅を綿密に取材し、あらかじめ展示場所を決めた上でジャストサイズの新作を持ち込んだ。それだけに作品と会場の相性が抜群に良く、この場所、この機会でなければ味わえない贅沢な展覧会が成立したのである。特に、中室から西室、待合と続く3室での、上坂秀明、服部しほり、合田徹郎の展示は見応えがあった。今後も彼らの活動をフォローしたいと思う。なお、本展の企画は古田理子が担当している。
2015/03/21(土)(小吹隆文)
眼と心とかたち 「学芸員N」が出会った大阪府20世紀美術コレクション
会期:2015/03/20~2015/04/04
大阪府立江之子島文化芸術創造センター[大阪府]
大阪府が所蔵する20世紀美術コレクションのうち、長年それらを見つめ続けてきた学芸員N(中塚宏行主任研究員)がセレクトした作品を展示した。その構成は、展示室1で1950~70年代を中心とした関西の戦後美術作家と大阪トリエンナーレのコレクション、展示室2で森口宏一の特集、展示室3は写真で、岩宮武二の佐渡シリーズとリチャード・ミズラックの作品を対比するというもの。なかでも展示室1は、吉原治良、嶋本昭三、松谷武判、津高和一、三尾公三、須田剋太といった面々の作品がひしめき合い、もう少し広い会場でゆったり見せられたら良かったのに、と思うほど贅沢なものであった。この四半世紀、大阪府の美術行政は不安定な歩みを続けているが(市も同様)、コレクション自体は優れたものであり、それらを死蔵させるのはもったいない限りだ。本展の会場以外にも公開の場を広げて、コレクションの有効活用(=企画展の増加)を検討してほしい。
2015/03/26(木)(小吹隆文)
遠藤麻衣 SOLO SHOW「アイ・アム・フェニミスト!」
会期:2015/03/22~2015/03/31
Gallery Barco[東京都]
アーティストで俳優の遠藤麻衣の個展。表題に示されているように、フェミニストを主題とした映像作品やパフォーマンスを中心に発表した。いずれも今日のフェミニズムに批評的に言及した作品で、濃密な空間に仕上げられていた。
冒頭に掲げられたステイトメントからして力強い。「女の幸せは結婚、愛想は良く、女性らしい服装を心がけること。私たちを守ってくれる男への感謝を忘れずに、女は男をたてるべき。これらを正しいことだと考えている、今この文章の前にいるあなたのような女が、私は大嫌いです。自分にとって都合の良い色メガネをかけ、男性社会への同化を戦略にして生きるあなたに、私は決して負けません。女であれ!」。
この挑発的な決意表明は、ピカソの《泣く女》をモチーフにした映像インスタレーション《“泣く女”》で具体化されていた。「泣く女」と同じメイクをした遠藤自身が、傷つけられた女たちの代弁者となって、男性社会の権力構造を告発し、文字どおり涙を流しながら女の解放を切々と説く。「草の根かき分けて、男の根っこを引き抜きましょう。そして、フラットでリベラルな芝生を生やしましょう。そのうえで、女たちはレジャーシートを敷いてピクニックをするのです」。会期中、遠藤はこの作品の傍らでライブ・パフォーマンスを定期的に催していたが、それも服装からメイク、演説内容まで、典型的なフェミニストのイメージを倍増させるようなものだった。
男性の主体によって一方的に表象される客体としての女性。フェミニズムないしはジェンダーアートにとっての基本的な問題設定だが、こうした表象の政治学から逃走するための戦略的な概念として、遠藤は「偽装」を挙げている。化粧、擬態、演技といった意図的な偽装によって、表象から実体を後景化させること。必然的に、外部から実体の所在を把握することは難しくなるが、おそらく遠藤の狙いはそこにある。
《“泣く女”》と1枚の壁を挟んだ別室に展示されていたのは、《セルフ・ドキュメンタリー》という映像作品。そこには、遠藤と本展をコーデイネートしたアーティストの河口遥によるプライベート風の会話が映されていた。むろん、プライベートとはいえ、文字どおりのプライベートではない。それが証拠に、映像の質から小道具、服装、メイク、会話の内容も含めて、まるでテレビ番組「テラスハウス」のような赴きで演出されていたからだ。まったく内容のない相槌や逆に意味ありげな目配せなど、芝居がやけに細かい。遠藤がステイトメントで批判した「あなたのような女」を演じてみせたのだろう。
戦闘的なフェミニストと凡庸な「あなたのような女」。実に対照的な女性の表象をあえて演じることによって、遠藤は「偽装」という方法論を幅広く実践した。どれほど闘うフェミニストになりきったとしても、あるいはまた、どれほど退屈な女を演じたとしても、そこに遠藤自身の実体はない。実のところ、フェミニズムという思想への評価さえ、まったくわからない。だが、その「わからなさ」は、表象と実体を同一視しがちな私たちの偏った知覚のありようを、これまでにないほどわかりやすく示しているのである。
2015/03/27(金)(福住廉)